綾波さんとの約束の日、俺は地下鉄のホームで綾波さんを待っていた。もう昼頃だが休日ということもあり、人も少なくない。

 そんな中、こちらに向かって歩いてくる女性が1人。視線がふっと彼女に吸い寄せられる。ベージュのブラウスに白色のスキニー。大人びていて、落ち着いた華やかさを持ち合わせている彼女は、無論綾波さんだ。

「氷室くんの私服って…思ったとおりだね」

「服は着れたら全部同じだと思ってるから」

 俺は黒のスポーツパンツに黒のオーバーシャツ、インナーとして白シャツをチラ見せしている。深夜に徘徊していたら通報されかねない。

「昼ごはんはもう食べたの?」

「俺はな。父さんはまだ食ってないはず」

「食べさせててよ、申し訳ないじゃん」

 俺は「父さん昼飯食わないんだよ」と適当なことを言いながらベンチから腰を上げ、階段に向かう。

「へー、そうなんだ。って言うかホームまで来ちゃって良かったの?」

「ああ、入場料100円だけだし、変な出口に出られる方が困る」

 地下から地上に繋がる出口は3つだがそれぞれが微妙に離れているため入れ違うと面倒くさい。

「100円を笑う奴は100円に泣くよ」

「100円って使い勝手いいもんな、でも100円で泣くことってあんのかな?」

「私は節約派だから泣くかも」

「へー、意外だな」

 服もだけど俺と同じく本にお金を注ぎ込んでいそうだ。小さな白いポーチもそれなりの値段がしそうなので節約派と言うのは疑わしい。

 俺はと言えばもちろん、月のお小遣いの大半が本に消える。服を買ったりカフェに行ったりと言うのに魅力を感じない。

「緊張してきたーっ、そうだ、冷さんの触れちゃいけない部分とかある?」

「顔と男の急所だな」

「物理的な方じゃないよ!」

 綾波さんのツッコミを背中で受けながら地上に出れば、日差しがこれ見よがしに存在感をアピールしてくる。そういやもうそろそろ夏休みか。

 ここから俺の家は徒歩5分ぐらいだ。駅近だが人が多くて少し鬱陶しい。父さんの反応がどうなるか、綾波さんが緊張する理由がわかる。

「礼儀にはちょっと厳しいから、挨拶と敬語、靴を揃えるのはしっかりして」

「厳格なんだね、仲良いの?」

「どうだろ、普通じゃないか?普通を知らないから分かんないけど」

 可もなく不可もなく、といった感じだろう。特段仲が良いわけではないが、家では常に2人きりだ。何年も2人なら流石に距離感も定まってくる。

「普通か……」

「普通が1番だろ、母さんが居ない時点で普通じゃないと言われたらそれまでだけどな」

 沈んだ声に左を見れば、綾波さんは本を読んだ時のような、奥深い目をしている。気付かぬうちに地雷を踏んだのかもしれない。

 何とか機嫌を取り戻そうとしてるうちに気づけば家に着いていた。俺は扉を開けて綾波さんを先に家にあげてやる。

 父さんはもう準備ができていたのか、玄関で待っていたようだ。

「はっ、初めまして、綾波 栞、と言います。この度は、えーっと、よろしくお願いします!」

「こんにちは、如月 冷です。そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ」

 父さんが聞いたことない声で綾波さんを宥めている。もうすでに面白い。綾波さんも憧れの人に会えたことで先程の表情は吹き飛んでいて、嬉しそうだ。

 父さんがリビングに賛同し、綾波さん、俺の順で後に続く。綾波さんは興奮を抑えられないのか、あたりを見回している。

「父さん、コーヒーか何かいる?」

「先にお客様に入れてやれ」

「綾波さんは何がいい?」

「お冷やをお願いします」

 俺は滅多に使われることのない来客用のコップに水を入れ、氷を2、3個突っ込む。それと同時にコーヒーも淹れておく。後ろではすでに綾波さんの質問攻めが始まっていた。

「早速ですけど質問いいですか?」

「いいですよ」

「何で小説家になろうと思ったんですか?」

「子供の頃、母親が夜に本の読み聞かせをしてくれていまして、その中に心打たれた作品がありまして、自分もこんな作品を書きたいなって思ったからですかね」

 父さんのコーヒーを用意しながら背中で2人の会話を聞く。綾波さんは堅いのは嫌とか言いながらもカチコチだし、父さんも父さんで丁寧すぎる。

「はい、水」

「ありがとう」

 そっとコースターの上にお冷やを置く。続いて父さんにもコーヒーを渡す。

 2人とも向かい合って座っているせいで俺の座る場所が無い。俺も父さんも1人好きなので客人はほとんど来ない。コップや箸など最低限のものはあるが椅子なんてあるはずがなかった。

「じゃあ、俺は部屋で本読んでるから」

「えっ?」

 困惑した目で綾波さんが俺を見る。ここにいて欲しいと視線で訴えかけてくる。

「蓮、こう言う時に場を納めるべきなのはお前だぞ」

「分かったよ」

「それより!冷さんってペンネームの由来って何ですか?」

 この人今、それよりって言ったぞ。と思いながら俺はお皿にクッキーを入れる。俺の気配りとして食べやすいクッキーをチョイスしておいた。お菓子を出し終え、早速手持ち無沙汰になった俺は2人の会話に耳を傾ける。

「私の妻が(れい)と言うのでそこから取ったんですよ。如月は私の誕生日が2月なので」

「お母さんの名前を取ったわけですね」

 気まずくなるんじゃ無いかと言う俺の不安は特に不必要で、父さんと話す綾波さんは嬉しさを隠しきれておらず、喜びの感情が漏れ出している。

 それは父さんも分かってるようで嫌な顔せず答えてくれていた。

「すみません、お手洗い借りても良いですか?」

「そこ出て、左」

 綾波さんがトイレに向かうと急な沈黙が部屋に訪れる。あまり喋る方ではない2人だ。無理もない。このまま綾波さんが帰ってくるまで沈黙が続くのかと思ったが、父さんが口を開いた。

「蓮、女の子なら先に言ってくれ。結構びっくりしたんだからな」

「言ってなかったか?悪い」

「まあ良い子で安心したよ」

「お眼鏡にかなったようで何よりだよ」

 父さんもファンとの交流が少ない分、こういった機会が珍しく、機嫌が良さげだ。

「蓮もいろいろ気が回せるようになったし、一安心だ」

 一安心というのは父さんも母さんとの別居に多少なりとも責任を感じての発言だろう。そこまで気にしなくても良いのに。

「おかげさまでコーヒーの淹れ方だけは目に見えて速くなったよ」

 遠回しにフォローを入れると同時に父さんの携帯電話が鳴った。相手が珍しい人なのか焦った様子でスマホを耳にあてる。

「はい……ん?大丈夫?……分かった、安静にしてろよ。すぐ行くから…………車で15分ぐらい……分かった」

「何かあった?」

「母さんが怪我したらしい。ギックリ腰らしいから大丈夫だと思うけど念のため病院に行ってくる。3時間もしないうちに帰れると思うから続きは栞ちゃんと相談して決めてくれ」

「分かった、事故には気をつけて」

 父さんは急足で家から飛び出して行った。俺の父方のお爺ちゃんは俺が中学に入る前に他界しており、お婆ちゃんに何かあったときは父さんが向かうことになっている。

 父さんと入れ替わりで綾波さんがお手洗いから帰ってくる。

「あれ?冷さんは?」

「急用が出来たみたい。3時間ぐらいで帰ってくるらしいけどどうする?」

「うーん、だいたい聞きたいこと聞けたし良いかな」

「そうか、じゃあ駅まで送るよ」

「もう帰ったほうがいい?」

 まだ俺の家に来て1時間も経って居ない。流石に帰すには早すぎる気がする。

「もう少しぐらいなら良いけど、暇じゃないか?」

 ペットも居なければテレビも無い。リビングも最低下のものしかなく、面白い部屋どころか面白いものすらない。

「氷室くんの部屋、見てみたい」

「俺の部屋?本しかないけど?」

「そうだろうね。あんまり期待してないから気軽に見せてよ」

「見せてもらう側が言うか」

 と言っても俺の部屋に、付け加えると俺の家にあるのは本だけだ。読書なら時間も潰せるし良い考えではある。

「こっち、ついてきて」

「見せてくれるんだ。因みに官能小説は隠さなくて良いの?」

「持ってないんだわ」

 エロ本じゃなく官能小説と言うあたり綾波さんは俺のことを分かってきている。てか官能小説って本屋に売ってないんだよ。

「この部屋」

 俺は自室のドアを開ける。壁には2方向にスライド式の本棚。その反対側には勉強机とベッド。申し訳程度にクッションが1つ置かれているだけだ。

「いっぱい本ある!これ全部読んだことあるの?!」

「そうだな。この部屋にある本は一通り読んだ」

 数にして大体、1000冊に届かないと言ったところ。1日に大体2冊弱読むのでそこまで多い数ではない。

「この部屋ってことはまだ他に本が置いてある部屋があるの?」

「この家の空き部屋のほとんどがデカめの本棚になってる。俺は全部読んだってわけじゃないけど父さんは全部読んでるはず」

「さすが有名作家さんだ。でもあの人あんまり表現とかパクったりしないよね」

「気付かれてないだけじゃないかな?数十年前の本の表現に似てたりするやつ結構あるよ」

 丸パクリは流石にしていないが、既読感のある表現はチラホラ見つかる。

「へー、昔の本はあんまり買ったことないんだよね。ちょっと読んで良い?」

「お好きにどうぞ」

 俺も目に入った本を手に取る。綾波さんは俺のベッドを占領しているので、俺は椅子に座って読むことにした。

 時計の針とページを(めく)る音だけが俺たちの鼓膜に音を伝える。六畳の小さな部屋に、2人して好きな本を読んでいた。

 綾波さんは時々、ベッドに寝転んだり足をパタパタさせたりしながら読み進めていた。

「ふぅ〜、この本面白いね」

「もう読み終わったのか?」

「まさか、まだ半分ぐらい」

 俺も右の方が少し分厚いが読むスピードはあまり大差が無いみたいだ。時計はもう6時を指していた。

「もうそろそろ帰ったら?」

「そうさせてもらおうかな。この本貰っていい?」

「返せよ」

 パクる気満々な綾波さんは本にヘアピンを挟み、栞がわりにして、カバンにしまった。ヘアピンってそんな使い方もできるんだ。

 玄関で帰る支度をしてると鍵が開く。

「おぉ、栞ちゃん、ごめんね遅くなって。また次の機会でいいかな?」

「はい!今日はありがとうございました!忘れられない1日になりそうです!」

「それは良かった。蓮、駅まで送って行ってやれ。あと今日玲さんとご飯行くことになったから寄り道すんなよ」

「了解」

 外はすでに紫色に染まっていた。ジメッとした6月の風が俺たちを包み込んでくる。

「家族でご飯か……いいな……」

 空を見上げながら綾波さんが呟く。やはりその視線はどこか遠くを見ていて、切なさを感じさせる。

「外食行ったりしないのか?」

「私ね、親、居ないんだ」

「えっ?」

 急な告白に驚きの声が漏れる。綾波さんはこちらを向くと寂しそうに笑った。俺は視線で説明を求む。

「そのままの意味だよ。子供の頃からずっと。今は一人暮らしだけど昔は孤児院にいたんだ。別にもう気にして無いけどね。だから綾波って苗字、あんまり好きじゃ無いんだ」

「そっか……」

 昼に感じた沈んだ表情も、以前に家族事情を話した時に発した羨む声も、全ては彼女の孤独の嘆きだったのだ。

「はいっ!もう私も気にしてないから!暗い話は終わろう!だから氷室くんも私のこと(しおり)って呼んでね」

「ごめん、悪いこと聞いたな」

「終わりって言ったでしょ、今は私の名前を呼ぶターンなんだから」

 無理に明るくした声が余計に俺の心を抉る。躊躇なく踏み込むことの怖さを初めて思い知った。それからも重い空気は変わらず、駅に着いてしまった。

「またいつかね!」

「ああ、また」

 綾波さんはクルッと振り向く。ヘアピンが無くなり自由になった髪が、夜空に溶け込むように踊る。

 今、綾波さんは何を思っているのだろう。気にしてないって言ったって土足で踏み入っていい領域じゃない。

 まだ綾波さんは俺の声が届く範囲にいる。彼女の寂しげな背中が俺の傷を広げる。俺が、俺がすべき事は一体なんだ?

 一つ、今の俺が綾波さんに出来る事、彼女の小さな努力を無駄にしないこと……。彼女は自分の苗字を嫌いと言った。彼女は私を栞と呼べと言った。なら、出来ることはひとつしかない。

「なぁ!(しおり)!」

 口数の少ない俺が出せる最大の声量で、俺は彼女の名を読んだ。栞は足を止める。

「どうしたの?」

 栞はゆっくりと振り返る。メガネが街灯の光を反射し、栞の目は見えない。ただ、可愛げのある鼻声だけが俺に彼女の涙を伝える。

「メールでも、交換しね?」

「うんっ!」

 白い歯を思いっきり見せて笑う栞は可憐で、スマホを重ね合っただけなのに、どこか気持ちを共有できた気がした。

 栞と別れた帰り道、すぐに父さんと合流してディナーに向かった。

「お婆ちゃん大丈夫だったの?」

「うん、2日も入院すれば治るらしい。あんたはさっさと玲ちゃんとご飯でも食べて来なって追い払われたよ」

 それで急遽(きゅうきょ)集まることになったのか。いつもなら前々から決まってたりする。

「母さん、蓮にこの前の女の子の件は大丈夫だったのか心配してたぞ。あれだけ悩んでたから自分のことかと思ったけど、女の子のことだったのか。隅に置けなくなったな」

「いつの話だよ、半年前だから忘れさせてくれ」

 半年以上前、久遠の件だ。思い出したくも無いので別のことを考える。その後は特に会話することもなく、店に着いた。

 少しお高めのフランス料理店。暗めの蛍光としっとりしているジャズがムードを作り出す。さっき決まった割には豪華な店で驚いていると後ろから声がかけられる。

「蓮、久しぶりね」

「一週間ぶりだけどね、」

 俺は丸テーブルを囲う様に、三つ用意された椅子に座る。純白のランチョンマットは高級店の証だ。

「そうだよ、玲さん。一ヶ月に4回はその言葉言ってる」

「ふふっ、細かい事は気にしなくていいの」

 お淑やかに笑いながら、椅子に腰掛ける。母さんも急に決まったディナーにも関わらず用意周到だ。

「昼飯食ってないから、腹減ってるんだよ。速く食べよう」

「葵さん、昼ごはんはしっかり食べてくださいね」

「今日は蓮の来客があったんだよ」

 母さんに指摘され、不貞腐れながら父さんも席に座る。

「蓮の?久遠ちゃんとまだ仲良くしてるのね。良かったわ」

「それが違うんだよ玲さん、蓮が新しい女の子に手を出したんだ」

「手を出したって言い方やめろ。久遠にも出してないし」

 母さんは栞ことは知らないんだったな。必要ないことを言うことに関して父さんの右に出る人はいない。言い方に含みを持たせるのも父さんの悪癖だ。

「新しいお嫁さん候補が出来たのはいい事ね。でも先週、変わったことは無いって言ってたわよね?母さんに嘘ついたの?」

「別に新しい友達ができるくらい変わったことでも何でも無いだろ」

「何言ってるの、中学生では1人も友達作れなかったくせに。と言うか友達なのね」

「そうだよ。ただの友達」

 俺は前菜を食べながら念押しする。と言うか栞との関係は今日で終わったはずだ。いや、本を貸していたか。あと誕生日の約束も。それなら関係がここで終わることはないのか。

「なぁ!栞!とか大声で言ってたのに?」

「おい、何で知ってんだ」

 ポロッと問題発言を溢す父さんについ強い口調でツッコム。さてはコイツ聞いてやがったな。いつもより優しい口調で嘲笑う父さんは本当にいやらしい。

「葵さんはそこら辺のデリカシーがないからね、嫌なら私のとこに来てくれても良いのよ?」

「いらないお世話だ」

 ちょっぴり特殊な家族団欒に俺の頬も緩む。ただ、こんな会話も栞はしたことが無いのだろうと思うと悲しくなる。これこそいらないお世話だろうけど。

 笑顔の両親を見ながら、俺はそんなことを思うのだった。