12月24日、クリスマス前日。俺は分厚いロングコートのポケットに手を突っ込みながら栞が来るのを待っていた。
街は赤と緑の2色が視界のほとんどを占めていて、向こうにはクリスマスツリーが生き生きと輝いている。
街中に溢れかえるカップルを眺めながらソワソワしていると、「蓮くーん!」と後ろから栞の声が聞こえてきた。
「おはよ、寒いねー」
「マジ寒いな。いくら冬だからって寒いにも程がある」
栞もガクブルと震えている。ピンクと白のモコモコのボアジャケットに身を包みながら、分厚い手袋で身体中を覆っている。
なんかこう全体的に丸っこくて可愛い。深緑のニット帽にジーパンの組み合わせは、子供っぽさを薄めていて、濃いめの赤い口紅がファッション全体をまとめている気がする。
「じゃあ、水族館行こっか」
ニコッと口角を上げる栞に頬を赤くする。もしかすると、耳まで赤いかも知れないがそれは寒いせいだ。そういうことにしておこう。
「だな。でも水族館とかじゃなく遊園地とかならクリスマス仕様を楽しめかも知れないのに良かったのか?」
「うーん、別にクリスマスとかあんまり気にしてないからね。蓮くんもあんまり興味ないでしょ?」
「まあ、確かに。水族館は室内だしそれでいいか」
前日から決めていたことだがこんなにバッサリクリスマスを切り捨てるとは。クリスマスとデートは何かしらの関係があるみたいなのは舞い上がりすぎだったのだろうか。
「水族館とか初めてなんだよねー」
「俺も子供の頃に一回だけ行ったような気がするけどほとんど初心者かな」
小学生に上がったかどうかの時期だ。記憶は薄い。まだ家族が同居していた頃の話で、父さんの小説のワンシーンにもなっていたはず。
「ジュゴンとかいるんだって!蓮くんは見てみたいものとかある?」
「俺はそうだな。無難だけどイルカショーは見てみたい気がするかも」
詳細は思い出せないが、昔見た時に驚いた記憶だけはやけに残っているので、もう一度見ておきたい気がする。
「エホッ……いいかもね」
「まだ咳、治ってないのか?無理しなくてもいいんだぞ」
「全然気にしなくて大丈夫だよ。それより蓮くんこそずっとポケット突っ込んでるじゃん。ほら、こっちの手袋貸してあげるから」
そう言って栞は右の手袋を差し出してくる。
「いや、これであったかいから大丈夫だって。それに2人とも片手だけとか変だろ」
「うるさいなー。とりあえずつけて」
栞に押し負け、俺は暖かいポケットの中から両手を外に出す。手袋をつけると、左手をすぐさま捕まえられる。
「これで両方あったかいし変な目でも見られないでしょ?」
「いや、変な目では見られるだろ」
それに嫉妬的な目でも見られている気がする。恥ずかしさと嬉しさが、俺たちのように手を繋いでいるのを感じていると、気づけば水族館に着いていた。
それなりの額を払い中に入ると、青暗い光が水槽の中を灯す。手袋を栞に返し、再び繋がれた手を引いて奥に進む。
「可愛い!アレだよね、ニモってやつだよね」
「クマノミって名前らしいな。そういえばこのオレンジの体に白いラインが何本入っているかによって名前って変わるらしいぞ」
「そうなんだ、この子はサンモ?」
ニモが2本だから、3本はサンモって安直過ぎるだろ。
「3本はカクレクマノミだな。あとニモも3本だからカクレクマノミだし」
「へー、知らなかった」
魚の説明欄を読んである栞から相槌が返ってくる。初めての水族館に興味津々のようだ。
熱帯魚ゾーンが終わると小さい水槽がいくつも並んでいる場所に出た。クラゲやらウツボやらが一匹ずつ入っている。
「このクラゲピンクだよ!ハナガサクラゲだって。綺麗だね」
名の通り花色の笠から何本もの足が生えていて、漂う姿は花火にも見えるし風鈴にも見える。
「クラゲって脳がないんだって。だから透明でも綺麗に見えるらしい」
「脳がないってどうやって動いてるの?」
「全身が神経になっていて、反射的に行動してたはず」
全身が神経だと思うとボンヤリと浮かぶその姿にも、比喩仕様のない独特な形にも、納得がいく。
「だからクラゲってすぐ刺してくるのかな?」
「そうかも知れないな」
クラゲを一通り堪能すると、ウツボやウナギなどの魚たちをほとんど素通りで水中トンネルに向かった。
「ウナギとかは見なくていいのか?」
「ちょっと怖くない?ウナギとかって。目も細いし、蓮くんみたいじゃん」
「親近感湧いていいだろ」
「それ蓮くんだけだから」
笑い笑われながら角を曲がると2人して息を呑んだ。トンネル水槽には数多の魚が悠々と泳いでいた。
クマノミのように一匹の派手さはないものの、多くの小魚が群をなして光を散らし、エイが雄大に空を飛ぶ景色は壮絶としか言いようがない。
「凄いね……これ」
「うん……なんかもう、凄いな」
先程まではあまり人も気にならなかったが、見どころなのか俺たちと同じように何人か立ち止まっていた。
進めば進むほど自分が水中にいるような感覚に襲われる。息も忘れるような世界に、俺たちの会話はなく、ただ繋がれた手だけが互いを感じさせる。
右を見れば岩陰から見え隠れする名の知らない魚。上を見れば初めて見るエイの裏側。左を見れば愛おしい人の目を輝かせる横顔がそこにある。
トンネルを抜けると、2人で目を合わせた。言葉も出ないとはこのことだと思う。
「エイの裏ってあんな感じだったんだね。ニンマリ笑顔だった」
「俺も初めて見た。おっ、向こうにジュゴンいるって」
「ジュゴンとペンギンだけは目に焼き付けておかないと」
ペンギンの可愛さは分かるけどジュゴンはいまいちピンとこない。なんて思いながら栞に連れられジュゴンとご対面する。
顔の中心にまん丸の鼻が2つ。離れたタレ目はぬいぐるみを連想させる。ふっくらとしたわがままボディも想像以上に可愛い。
垂れた口で海藻を頬張る姿はどこか幼さがある。
「見て見て、蓮くん」
栞の声に視線をやると、栞は目を細めながら口をへの字にしている。見るからにジュゴンの真似だろう。
「くくっ、似てるぞ。体型とか」
「そこじゃないっ!」
腹をつつかれながらも声を殺して笑う。俺の姿に栞はつつく力をすこし強めた。
「悪かったって、冗談だよ」
「本当にもう……」
ジュゴンを眺めながら一息つく。目の前では今もジュゴンは海藻を貪っている。
「んんっ、ジュゴンなんて写真以外で初めて見たよ。見れて良かったー」
栞は咳払いをしながら、早くも今日の感想を呟く。
「ジュゴンって絶滅危惧種らしいな」
「さっきから思ってたんだけど蓮くんって魚好き?」
「なんで?」
栞が一直線に俺の目を見て質問してくる。なんとなく意図が分かりつつも質問で返した。
「だって、クマノミの時もクラゲの時も何かしらの豆知識持ってたし」
「たまたまだろ」
「嘘だー、もしかして昨日覚えてきたの?」
図星をつかれ、言葉が出てこない。昨日、少しでも楽しんで貰おうとスマホで色々調べてきたのだ。魚にさほど興味は無い。
「やっぱり、可愛いとこあるじゃん」
「知ってるか?実は水族館に混泳している小魚たちってサメとかエイとかに食べられてることもあるんだぞ。だからさっきのトンネルの所でももしかしたら……」
「聞きたくなかった!からかったのはごめんじゃん!」
さっきのやり返しと俺をからかってきたようだが、まだ俺をからかうにはすこし早かったな。
「水族館って見てるだけで楽しいよね」
「だな、栞といるからかも知れないけど想像以上に楽しめてる」
俺が思ったことを率直に言うと、栞は恥ずかしそうに俯いた。どうやら前半がクリティカルヒットしたようだ。
「不意打ちずるいよ。もう、さっさとペンギン見るよ、ウツボ君」
「誰だよ。ウツボ君、日曜日のアニメに出てきそうな名前だな」
そそくさとペンギンを見に行く栞に後ろからついてゆく。因みにウツボは海のギャングと言われているが、性格は臆病らしい。見た目だけ怖いとかどこの氷室くんだよ。
寒い中、一度室内から出ると正面に大きなガラス張りの柵が見えた。中にはいろんなサイズのペンギンが水に飛び込んだり、嘴で体を掻いたりしていた。
「かっわいいー!!ヨチヨチ歩いてるよ」
「アイツとか滑ってるぞ、腹冷たくないのかな?」
説明欄にはコウテイペンギンと書かれていて、ペンギンと言われて真っ先に思い浮かぶスタンダードな種類だ。
黒い体に白の腹、首筋の黄色いライン。俺よりファッションセンスがあるといっても過言ではない。
「蓮くん、あれ子供じゃない?ふわふわのやつ!」
「そうだろうな。ふわふわしてて可愛い」
顔はまだ白く、グレーの羽毛が身体中を覆っている。サイズも小さく、一生懸命親ペンギンについていく姿は見ものだ。
「私もふわふわしてるんだけどどう思う?」
「可愛いと思うぞ。柵乗り越えて紛れてきたらなお可愛い」
「ヤバいやつじゃん」
なんて会話をしていると、飼育員さんが高台に登っているのが見えた。ペンギンたちは餌やりだと分かったのかその高台の下に集まってくる。すでに可愛い。
「ほら栞、昼飯の時間だぞ」
「行かないから。でもお腹すいたな。おっとこんな所に食べごろのウツボが」
にひっと悪い笑みを浮かべてこちらを見る。食べごろのウツボ言うな。
「意味不明寸劇やめろ」
「ふふっ」
気づけば餌付けが始まっていて、放り投げられる小魚を長い嘴が捕える。親ペンギンが子供に分け与えている様子はまさに感激だ。
みるみるバケツの中の小魚が減っていき、二杯目のバケツも減り始めていた。
「ペンギンってこんな食うんだな」
「だね、もうちょっと少食だと思ってた。意外かも」
食べ終わったペンギンたちは、またヨチヨチと坂を登ったり、食後の運動にと水に飛び込んだりしていた。
「階段降りたら下からも見れるんだってよ」
「エホッ……そうなんだ、見てみよっか」
地下は水槽が見えるようになっていて、さっきのトンネル水槽のように感じる。地上では短い足で少しずつ進んでいたが、水中を動き回る姿を見ていると同じ動物とは思えない。
「早いね。私泳げないから嫉妬しちゃうよ」
「栞って泳げないんだな」
数ヶ月前に運動は壊滅的みたいなことを聞いたことがあった。その才能を水中でも遺憾なく発揮しているみたいだ。
「蓮くんは?」
「俺はクロールと平泳ぎぐらいなら、まだできる方」
背泳ぎとか頭こんがらがって何やってるか分からなくなってくる。バタフライに関しては溺れてるだけだろあれ。
「なんでも出来るじゃん」
「そんなことないぞ。野球とかサッカーは応援してる方が得意だ」
「チーム競技だからね」
さも他のチーム競技は出来ないような言い草だがそんなことはない。ラジオ体操なら出来る。
「こうやって泳いでるの見てると鳥みたいだよね」
「みたいも何もペンギンは鳥だろ」
「流石の豆知識だね」
「これは一般常識だ」
栞は「いやいや、徹夜の賜物だよ」なんて言いながら屋内に俺の手を引っ張っていく。そろそろイルカショーの始まる時間だ。行くなら急いだ方がいい。
「んんっ、じゃあイルカショー見よっか。急がないとこれ逃したらもう無いからね」
前半の部が次で終わり、イルカの休憩に入るらしい。後半の部は5時からなので待てない。栞いわくまだやりたいことがあるらしいし。
「だな」と短く返事し、2人で歩いてゆく。栞は時々咳がみながらも徐々に歩くスピードを速めている。ちょっと遅れるぐらい気にすることじゃない。だから俺には栞が無理しているようにしか見えなかった。
「んんっ、ちょっと靴紐結んでいい?」
栞は深い息をつきながらしゃがみ込む。顔色が悪いようには見えないし、熱っぽいとも思わないが、疲れているようには見える。
「栞、ちょっと休憩しないか?」
俺はあからさまに鎌をかける。
「大丈夫だって。私は全然……」
栞はやられたと言わんばかりに俺を見る。俺は休憩を提案しただけ。それに大丈夫と答えたのだから、無理しているのは明確だ。
「行くぞ。別にイルカショーとか見ても見なくても変わらん」
強制的に空いていたベンチに座らせる。栞はだんまりを決め込んでいる。俺は自販機で水を買い、栞に手渡す。
栞はゴクゴクと飲み、ふうーと深い息を吐いた。どこか思い詰めたように強くペットボトルを握っていて、なんと声をかけようか迷う。
「ごめんね……最近調子悪くて……」
「別に謝ることじゃないだろ。それなら無理した方を謝ってほしい」
「無理したっていいじゃん、蓮くんが私を気遣ってるみたいに私だって蓮くんのこと想ってるんだよ」
悲しさと自分に対する怒りが混ざった声を栞が放つ。栞の言ってることは正論で、俺の自分よがりの気遣いだってことも分かってる。
それでも、それが栞が無理していい理由にも、それを許容できる理由にもならない。
「その思いは嬉しいけど、それで俺が不快になってちゃ本末転倒だろ。イルカショーか栞かなんて考えるまでもないし」
「蓮くんが私のことを思っていることは分かってる。それでも、無理してでも私は蓮くんと思い出作りしたいの」
2人で夕日を見た日、あの日も確か思い出にこだわっていた気がする。なぜそこまで記憶にこだわるのかは分からない。
ただ、理解できないから否定するのもおかしな話だ。俺は頭の中で妥協案を組み立てる。
「じゃあ、イルカショーじゃなくなんかお土産でも買うか。それなら体力もそんなに使わないだろ」
「それでいいの?」
「ああ、断然な」
10分ほど休憩した後にショップに向かう。いろんな魚が焼印されたクッキーや、ペンギンのぬいぐるみ、チンアナゴのボールペンなどが並べられている。
その色鮮やかな景色に、体力の回復した栞は欲望の赴くまま商品を見ている。
「これお揃いにしようよ」
栞が持ってきたのはピンクと青の大きいイルカのぬいぐるみで、二つくっつけることでハート型になるものだった。
値段に派手さも相まって、嫌だという感情が顔に出てしまう。
「そんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃん」
「違うんだ、流石にその……それはちょっと派手すぎるだけだから」
ムスーっと頬を膨らませながら、イルカたちを棚に戻す。
「このキーホルダーとかならお揃いでもいいからさ」
「うーん、蓮くんってお揃い嫌なの?」
「嫌というよりちょっとうわって思うかな。小物は別だけど」
全身ペアルックとか見るとどうしても思うところはある。ただ、本当にキーホルダーやアクセサリーのお揃いに関して思うことはない。
「流石はひね室くんだ。まあ私もどうしてもってわけじゃないからね。いつかお揃いタトゥーすることで許します」
「絶対やらないからな。あと誰だよひね室くん」
結局お揃いで何かを買うということはなく、クリスマスプレゼントとして栞に子ペンギンのぬいぐるみを買ってあげただけとなった。
外に出ると肌を指すような冷たい空気が吹き抜ける。もうとっくに太陽は沈み、イルミネーションが活躍の場だとはしゃいでいた。
「やりたいことがあるって言ってたよな。もう遅いけど大丈夫か?」
「うん、なんだったら遅くないと出来ないから。ということで……」
どういうことでなのかは分からないが、栞がカバンの中から何かを取り出そうとしている。日にち的にもクリスマスプレゼントだろう。
「はい、これ、ブレスレット。使い方わかる?」
差し出されたのは赤茶色のミサンガのような物だった。
「手首に巻くやつだよな。でもなんでブレスレット?」
「蓮くんお洒落から無縁だし、どうせなら小物から興味を持ってほしいなーって」
早速俺の腕に巻き付けながら理由を話す。付けられた腕を見ると明るくなったというか、どこか色が出たような気がする。
「じゃあ俺からも、さっきのぬいぐるみはノーカンってことでこれあげる」
そう言いながら俺もカバンからプレゼントを取り出す。
「ありがとう!これリップだよね、なんでリップ?」
「久遠のアドバイスだな」
久遠いわく、「しおりんはメイク初心者で、リップの減りが1番早いからそれがいいと思う!」らしい。
おすすめのメーカーまで教えてもらい、この日に間に合うようにネット注文したのだ。詳しくは分からないがサラサラしているタイプらしい。
「やっぱりかー、流石は東雲さんだよ。ほら蓮くん、私はブレスレットつけてあげたよ」
栞は目を瞑り、唇を突き出す。キスしてしまいたいぐらいには無防備で可愛い。
俺はリップの蓋を開け、左手で栞の頬を支えながらゆっくりと薄ピンクの唇をなぞった。
リップを塗っているだけなのに心臓はバクバクしている。
「終わったぞ。目開けていいっ……むっ……!」
声をかけたと同時に俺の後頭部は栞の両手により、屈ませられる。そのまま俺の唇は栞の唇までもっていかれた。
キスと理解するまで時間は掛からなかった。そして、理解してから体が反応するまでの時間もほんの刹那。
多分顔は赤い。ここだけ夏みたいに暑い。ここからどうなるのかが怖い。一瞬の驚きと、数年分の喜びが綾を成す。
唇が離れた時の栞の顔は照れと嬉しさで熱っていて、あっけからんと見惚れる俺も同じような顔をしているだろう。
「へへっ、良いリップでしょ?」
「あっ、ああ、良いリップサービスだった」
「リップサービスの意味違うじゃん」
俺の漏れた感想はス《《リップ》》したが、頭が回らなくなるぐらいには困惑した。
「次は蓮くんからしてくれると嬉しいな」
「期待はすんなよ」
「それ聞いて期待しない方が難しいよ」
「はいはい」
普段より少し濃い自分の唇を触りながら、俺のクリスマスは幕を閉じた。
街は赤と緑の2色が視界のほとんどを占めていて、向こうにはクリスマスツリーが生き生きと輝いている。
街中に溢れかえるカップルを眺めながらソワソワしていると、「蓮くーん!」と後ろから栞の声が聞こえてきた。
「おはよ、寒いねー」
「マジ寒いな。いくら冬だからって寒いにも程がある」
栞もガクブルと震えている。ピンクと白のモコモコのボアジャケットに身を包みながら、分厚い手袋で身体中を覆っている。
なんかこう全体的に丸っこくて可愛い。深緑のニット帽にジーパンの組み合わせは、子供っぽさを薄めていて、濃いめの赤い口紅がファッション全体をまとめている気がする。
「じゃあ、水族館行こっか」
ニコッと口角を上げる栞に頬を赤くする。もしかすると、耳まで赤いかも知れないがそれは寒いせいだ。そういうことにしておこう。
「だな。でも水族館とかじゃなく遊園地とかならクリスマス仕様を楽しめかも知れないのに良かったのか?」
「うーん、別にクリスマスとかあんまり気にしてないからね。蓮くんもあんまり興味ないでしょ?」
「まあ、確かに。水族館は室内だしそれでいいか」
前日から決めていたことだがこんなにバッサリクリスマスを切り捨てるとは。クリスマスとデートは何かしらの関係があるみたいなのは舞い上がりすぎだったのだろうか。
「水族館とか初めてなんだよねー」
「俺も子供の頃に一回だけ行ったような気がするけどほとんど初心者かな」
小学生に上がったかどうかの時期だ。記憶は薄い。まだ家族が同居していた頃の話で、父さんの小説のワンシーンにもなっていたはず。
「ジュゴンとかいるんだって!蓮くんは見てみたいものとかある?」
「俺はそうだな。無難だけどイルカショーは見てみたい気がするかも」
詳細は思い出せないが、昔見た時に驚いた記憶だけはやけに残っているので、もう一度見ておきたい気がする。
「エホッ……いいかもね」
「まだ咳、治ってないのか?無理しなくてもいいんだぞ」
「全然気にしなくて大丈夫だよ。それより蓮くんこそずっとポケット突っ込んでるじゃん。ほら、こっちの手袋貸してあげるから」
そう言って栞は右の手袋を差し出してくる。
「いや、これであったかいから大丈夫だって。それに2人とも片手だけとか変だろ」
「うるさいなー。とりあえずつけて」
栞に押し負け、俺は暖かいポケットの中から両手を外に出す。手袋をつけると、左手をすぐさま捕まえられる。
「これで両方あったかいし変な目でも見られないでしょ?」
「いや、変な目では見られるだろ」
それに嫉妬的な目でも見られている気がする。恥ずかしさと嬉しさが、俺たちのように手を繋いでいるのを感じていると、気づけば水族館に着いていた。
それなりの額を払い中に入ると、青暗い光が水槽の中を灯す。手袋を栞に返し、再び繋がれた手を引いて奥に進む。
「可愛い!アレだよね、ニモってやつだよね」
「クマノミって名前らしいな。そういえばこのオレンジの体に白いラインが何本入っているかによって名前って変わるらしいぞ」
「そうなんだ、この子はサンモ?」
ニモが2本だから、3本はサンモって安直過ぎるだろ。
「3本はカクレクマノミだな。あとニモも3本だからカクレクマノミだし」
「へー、知らなかった」
魚の説明欄を読んである栞から相槌が返ってくる。初めての水族館に興味津々のようだ。
熱帯魚ゾーンが終わると小さい水槽がいくつも並んでいる場所に出た。クラゲやらウツボやらが一匹ずつ入っている。
「このクラゲピンクだよ!ハナガサクラゲだって。綺麗だね」
名の通り花色の笠から何本もの足が生えていて、漂う姿は花火にも見えるし風鈴にも見える。
「クラゲって脳がないんだって。だから透明でも綺麗に見えるらしい」
「脳がないってどうやって動いてるの?」
「全身が神経になっていて、反射的に行動してたはず」
全身が神経だと思うとボンヤリと浮かぶその姿にも、比喩仕様のない独特な形にも、納得がいく。
「だからクラゲってすぐ刺してくるのかな?」
「そうかも知れないな」
クラゲを一通り堪能すると、ウツボやウナギなどの魚たちをほとんど素通りで水中トンネルに向かった。
「ウナギとかは見なくていいのか?」
「ちょっと怖くない?ウナギとかって。目も細いし、蓮くんみたいじゃん」
「親近感湧いていいだろ」
「それ蓮くんだけだから」
笑い笑われながら角を曲がると2人して息を呑んだ。トンネル水槽には数多の魚が悠々と泳いでいた。
クマノミのように一匹の派手さはないものの、多くの小魚が群をなして光を散らし、エイが雄大に空を飛ぶ景色は壮絶としか言いようがない。
「凄いね……これ」
「うん……なんかもう、凄いな」
先程まではあまり人も気にならなかったが、見どころなのか俺たちと同じように何人か立ち止まっていた。
進めば進むほど自分が水中にいるような感覚に襲われる。息も忘れるような世界に、俺たちの会話はなく、ただ繋がれた手だけが互いを感じさせる。
右を見れば岩陰から見え隠れする名の知らない魚。上を見れば初めて見るエイの裏側。左を見れば愛おしい人の目を輝かせる横顔がそこにある。
トンネルを抜けると、2人で目を合わせた。言葉も出ないとはこのことだと思う。
「エイの裏ってあんな感じだったんだね。ニンマリ笑顔だった」
「俺も初めて見た。おっ、向こうにジュゴンいるって」
「ジュゴンとペンギンだけは目に焼き付けておかないと」
ペンギンの可愛さは分かるけどジュゴンはいまいちピンとこない。なんて思いながら栞に連れられジュゴンとご対面する。
顔の中心にまん丸の鼻が2つ。離れたタレ目はぬいぐるみを連想させる。ふっくらとしたわがままボディも想像以上に可愛い。
垂れた口で海藻を頬張る姿はどこか幼さがある。
「見て見て、蓮くん」
栞の声に視線をやると、栞は目を細めながら口をへの字にしている。見るからにジュゴンの真似だろう。
「くくっ、似てるぞ。体型とか」
「そこじゃないっ!」
腹をつつかれながらも声を殺して笑う。俺の姿に栞はつつく力をすこし強めた。
「悪かったって、冗談だよ」
「本当にもう……」
ジュゴンを眺めながら一息つく。目の前では今もジュゴンは海藻を貪っている。
「んんっ、ジュゴンなんて写真以外で初めて見たよ。見れて良かったー」
栞は咳払いをしながら、早くも今日の感想を呟く。
「ジュゴンって絶滅危惧種らしいな」
「さっきから思ってたんだけど蓮くんって魚好き?」
「なんで?」
栞が一直線に俺の目を見て質問してくる。なんとなく意図が分かりつつも質問で返した。
「だって、クマノミの時もクラゲの時も何かしらの豆知識持ってたし」
「たまたまだろ」
「嘘だー、もしかして昨日覚えてきたの?」
図星をつかれ、言葉が出てこない。昨日、少しでも楽しんで貰おうとスマホで色々調べてきたのだ。魚にさほど興味は無い。
「やっぱり、可愛いとこあるじゃん」
「知ってるか?実は水族館に混泳している小魚たちってサメとかエイとかに食べられてることもあるんだぞ。だからさっきのトンネルの所でももしかしたら……」
「聞きたくなかった!からかったのはごめんじゃん!」
さっきのやり返しと俺をからかってきたようだが、まだ俺をからかうにはすこし早かったな。
「水族館って見てるだけで楽しいよね」
「だな、栞といるからかも知れないけど想像以上に楽しめてる」
俺が思ったことを率直に言うと、栞は恥ずかしそうに俯いた。どうやら前半がクリティカルヒットしたようだ。
「不意打ちずるいよ。もう、さっさとペンギン見るよ、ウツボ君」
「誰だよ。ウツボ君、日曜日のアニメに出てきそうな名前だな」
そそくさとペンギンを見に行く栞に後ろからついてゆく。因みにウツボは海のギャングと言われているが、性格は臆病らしい。見た目だけ怖いとかどこの氷室くんだよ。
寒い中、一度室内から出ると正面に大きなガラス張りの柵が見えた。中にはいろんなサイズのペンギンが水に飛び込んだり、嘴で体を掻いたりしていた。
「かっわいいー!!ヨチヨチ歩いてるよ」
「アイツとか滑ってるぞ、腹冷たくないのかな?」
説明欄にはコウテイペンギンと書かれていて、ペンギンと言われて真っ先に思い浮かぶスタンダードな種類だ。
黒い体に白の腹、首筋の黄色いライン。俺よりファッションセンスがあるといっても過言ではない。
「蓮くん、あれ子供じゃない?ふわふわのやつ!」
「そうだろうな。ふわふわしてて可愛い」
顔はまだ白く、グレーの羽毛が身体中を覆っている。サイズも小さく、一生懸命親ペンギンについていく姿は見ものだ。
「私もふわふわしてるんだけどどう思う?」
「可愛いと思うぞ。柵乗り越えて紛れてきたらなお可愛い」
「ヤバいやつじゃん」
なんて会話をしていると、飼育員さんが高台に登っているのが見えた。ペンギンたちは餌やりだと分かったのかその高台の下に集まってくる。すでに可愛い。
「ほら栞、昼飯の時間だぞ」
「行かないから。でもお腹すいたな。おっとこんな所に食べごろのウツボが」
にひっと悪い笑みを浮かべてこちらを見る。食べごろのウツボ言うな。
「意味不明寸劇やめろ」
「ふふっ」
気づけば餌付けが始まっていて、放り投げられる小魚を長い嘴が捕える。親ペンギンが子供に分け与えている様子はまさに感激だ。
みるみるバケツの中の小魚が減っていき、二杯目のバケツも減り始めていた。
「ペンギンってこんな食うんだな」
「だね、もうちょっと少食だと思ってた。意外かも」
食べ終わったペンギンたちは、またヨチヨチと坂を登ったり、食後の運動にと水に飛び込んだりしていた。
「階段降りたら下からも見れるんだってよ」
「エホッ……そうなんだ、見てみよっか」
地下は水槽が見えるようになっていて、さっきのトンネル水槽のように感じる。地上では短い足で少しずつ進んでいたが、水中を動き回る姿を見ていると同じ動物とは思えない。
「早いね。私泳げないから嫉妬しちゃうよ」
「栞って泳げないんだな」
数ヶ月前に運動は壊滅的みたいなことを聞いたことがあった。その才能を水中でも遺憾なく発揮しているみたいだ。
「蓮くんは?」
「俺はクロールと平泳ぎぐらいなら、まだできる方」
背泳ぎとか頭こんがらがって何やってるか分からなくなってくる。バタフライに関しては溺れてるだけだろあれ。
「なんでも出来るじゃん」
「そんなことないぞ。野球とかサッカーは応援してる方が得意だ」
「チーム競技だからね」
さも他のチーム競技は出来ないような言い草だがそんなことはない。ラジオ体操なら出来る。
「こうやって泳いでるの見てると鳥みたいだよね」
「みたいも何もペンギンは鳥だろ」
「流石の豆知識だね」
「これは一般常識だ」
栞は「いやいや、徹夜の賜物だよ」なんて言いながら屋内に俺の手を引っ張っていく。そろそろイルカショーの始まる時間だ。行くなら急いだ方がいい。
「んんっ、じゃあイルカショー見よっか。急がないとこれ逃したらもう無いからね」
前半の部が次で終わり、イルカの休憩に入るらしい。後半の部は5時からなので待てない。栞いわくまだやりたいことがあるらしいし。
「だな」と短く返事し、2人で歩いてゆく。栞は時々咳がみながらも徐々に歩くスピードを速めている。ちょっと遅れるぐらい気にすることじゃない。だから俺には栞が無理しているようにしか見えなかった。
「んんっ、ちょっと靴紐結んでいい?」
栞は深い息をつきながらしゃがみ込む。顔色が悪いようには見えないし、熱っぽいとも思わないが、疲れているようには見える。
「栞、ちょっと休憩しないか?」
俺はあからさまに鎌をかける。
「大丈夫だって。私は全然……」
栞はやられたと言わんばかりに俺を見る。俺は休憩を提案しただけ。それに大丈夫と答えたのだから、無理しているのは明確だ。
「行くぞ。別にイルカショーとか見ても見なくても変わらん」
強制的に空いていたベンチに座らせる。栞はだんまりを決め込んでいる。俺は自販機で水を買い、栞に手渡す。
栞はゴクゴクと飲み、ふうーと深い息を吐いた。どこか思い詰めたように強くペットボトルを握っていて、なんと声をかけようか迷う。
「ごめんね……最近調子悪くて……」
「別に謝ることじゃないだろ。それなら無理した方を謝ってほしい」
「無理したっていいじゃん、蓮くんが私を気遣ってるみたいに私だって蓮くんのこと想ってるんだよ」
悲しさと自分に対する怒りが混ざった声を栞が放つ。栞の言ってることは正論で、俺の自分よがりの気遣いだってことも分かってる。
それでも、それが栞が無理していい理由にも、それを許容できる理由にもならない。
「その思いは嬉しいけど、それで俺が不快になってちゃ本末転倒だろ。イルカショーか栞かなんて考えるまでもないし」
「蓮くんが私のことを思っていることは分かってる。それでも、無理してでも私は蓮くんと思い出作りしたいの」
2人で夕日を見た日、あの日も確か思い出にこだわっていた気がする。なぜそこまで記憶にこだわるのかは分からない。
ただ、理解できないから否定するのもおかしな話だ。俺は頭の中で妥協案を組み立てる。
「じゃあ、イルカショーじゃなくなんかお土産でも買うか。それなら体力もそんなに使わないだろ」
「それでいいの?」
「ああ、断然な」
10分ほど休憩した後にショップに向かう。いろんな魚が焼印されたクッキーや、ペンギンのぬいぐるみ、チンアナゴのボールペンなどが並べられている。
その色鮮やかな景色に、体力の回復した栞は欲望の赴くまま商品を見ている。
「これお揃いにしようよ」
栞が持ってきたのはピンクと青の大きいイルカのぬいぐるみで、二つくっつけることでハート型になるものだった。
値段に派手さも相まって、嫌だという感情が顔に出てしまう。
「そんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃん」
「違うんだ、流石にその……それはちょっと派手すぎるだけだから」
ムスーっと頬を膨らませながら、イルカたちを棚に戻す。
「このキーホルダーとかならお揃いでもいいからさ」
「うーん、蓮くんってお揃い嫌なの?」
「嫌というよりちょっとうわって思うかな。小物は別だけど」
全身ペアルックとか見るとどうしても思うところはある。ただ、本当にキーホルダーやアクセサリーのお揃いに関して思うことはない。
「流石はひね室くんだ。まあ私もどうしてもってわけじゃないからね。いつかお揃いタトゥーすることで許します」
「絶対やらないからな。あと誰だよひね室くん」
結局お揃いで何かを買うということはなく、クリスマスプレゼントとして栞に子ペンギンのぬいぐるみを買ってあげただけとなった。
外に出ると肌を指すような冷たい空気が吹き抜ける。もうとっくに太陽は沈み、イルミネーションが活躍の場だとはしゃいでいた。
「やりたいことがあるって言ってたよな。もう遅いけど大丈夫か?」
「うん、なんだったら遅くないと出来ないから。ということで……」
どういうことでなのかは分からないが、栞がカバンの中から何かを取り出そうとしている。日にち的にもクリスマスプレゼントだろう。
「はい、これ、ブレスレット。使い方わかる?」
差し出されたのは赤茶色のミサンガのような物だった。
「手首に巻くやつだよな。でもなんでブレスレット?」
「蓮くんお洒落から無縁だし、どうせなら小物から興味を持ってほしいなーって」
早速俺の腕に巻き付けながら理由を話す。付けられた腕を見ると明るくなったというか、どこか色が出たような気がする。
「じゃあ俺からも、さっきのぬいぐるみはノーカンってことでこれあげる」
そう言いながら俺もカバンからプレゼントを取り出す。
「ありがとう!これリップだよね、なんでリップ?」
「久遠のアドバイスだな」
久遠いわく、「しおりんはメイク初心者で、リップの減りが1番早いからそれがいいと思う!」らしい。
おすすめのメーカーまで教えてもらい、この日に間に合うようにネット注文したのだ。詳しくは分からないがサラサラしているタイプらしい。
「やっぱりかー、流石は東雲さんだよ。ほら蓮くん、私はブレスレットつけてあげたよ」
栞は目を瞑り、唇を突き出す。キスしてしまいたいぐらいには無防備で可愛い。
俺はリップの蓋を開け、左手で栞の頬を支えながらゆっくりと薄ピンクの唇をなぞった。
リップを塗っているだけなのに心臓はバクバクしている。
「終わったぞ。目開けていいっ……むっ……!」
声をかけたと同時に俺の後頭部は栞の両手により、屈ませられる。そのまま俺の唇は栞の唇までもっていかれた。
キスと理解するまで時間は掛からなかった。そして、理解してから体が反応するまでの時間もほんの刹那。
多分顔は赤い。ここだけ夏みたいに暑い。ここからどうなるのかが怖い。一瞬の驚きと、数年分の喜びが綾を成す。
唇が離れた時の栞の顔は照れと嬉しさで熱っていて、あっけからんと見惚れる俺も同じような顔をしているだろう。
「へへっ、良いリップでしょ?」
「あっ、ああ、良いリップサービスだった」
「リップサービスの意味違うじゃん」
俺の漏れた感想はス《《リップ》》したが、頭が回らなくなるぐらいには困惑した。
「次は蓮くんからしてくれると嬉しいな」
「期待はすんなよ」
「それ聞いて期待しない方が難しいよ」
「はいはい」
普段より少し濃い自分の唇を触りながら、俺のクリスマスは幕を閉じた。