久遠とデートの約束をした日から一ヶ月後。やっとテストや久遠の部活が落ち着いたことで遊園地デートを誘われた。約束を取り付けるのに一ヶ月かかる久遠の忙しさには目を回す。

 いろいろあっても笑顔で部活をできているのだから、忙しいぐらい気にすることではなさそうだけど。

 久遠の家のインターホンを押すと、音が鳴るより早くドアが開けられ、久遠が家から飛び出す。誇張抜きで心臓が飛び出そうなぐらいびっくりした。

「待ってましたー!行きましょーう!」

「テンション高いな……遊園地はまだ先だぞ」

「あっ、そっか」

 急に真顔になるのは、わざとなのか天然なのか。テンションがジェットコースターしている久遠に続き駅に向かう。

 薄ピンクのトレーナーに白色のオーバーサイズシャツ、水色のワイドパンツと女の子らしいファッションだ。いったい数年前の久遠はどこに行ってしまったのだろうか。

「へへっ、可愛いでしょ?」

「まあ、うん」

 特に面白いネタも思い浮かばなかったので生返事で答える。

「そんな率直に褒めないでよ!蓮が素直とか雨降るじゃん!」

「おい、それどう言うことだ」

 そもそもそれ矢とか雪とか降るやつだろ。雨なら普通に降っちゃうぞ。久遠と歩きながら空を見上げると、残念降るわけありませんと言いたそうに太陽が照り続けている。

「まっ、今日は多少の嘘もつきながら遊ぼうってことね」

「説明されても意味分かんないんだけど」

 でも確かに一ヶ月待たされた約束の日に雨ってのは嫌だよな。『嘘をつきながら遊ぶ』の意味が一つも分からないけど久遠に合わせるとしよう。

 乗り換え4回の遠出だ。混んではいなかったが、久遠の乗り間違いや、駅に降り忘れたりしたことで目的地に着くまでに結構な体力を消費した。

 久遠が逆方向の特急に乗った時は正気かと目を疑ったレベルだ。

「蓮が逆方向乗るから遅れちゃったじゃん」

「逆方向乗ったのは久遠な。俺は電車を3回逃した以外に罪は無い」

「それも中々の罪だけどね」

 方向音痴が2人になったことで余計に時間がかかった。既に30分ほど予定より遅れている。3人寄れば文殊の知恵と言うが壊滅的な人が集まっただけじゃ酷くなるだけなのだ。

 高めのチケットを買い、写真を撮ってから園内に入場する。聞いたことあるような洋楽がスピーカーから爆音で流れていて、久遠のテンションは再び上がっていた。

「最初は何に乗ろっか?蓮に乗る?非力すぎて無理か」

「取り敢えず調子から降りろ」

「えー、蓮に乗るチャレン()ジしよーよ!」

 蓮で掛けているつもりなのだろうがゴリ押し過ぎるのと無理矢理なのとで酷い有様だ。

「遊園地来たんだからジェットコースター乗るだろ、普通。あと久遠が俺に乗ることは無いから安心しろ」

「ちぇーっ」

 少し不貞腐れている久遠は俺の意見お構いなしに右へ左へ進んでいく。曲がり角にある看板が指差すアトラクションを見て、本日二回目、俺は自分の目を疑った。

 流石に気のせいだろうと、機嫌が治り鼻歌混じりに歩く久遠に着いていく。結果、自分の目が正しかったと信じざるおえなくなった。

「ここ行くのか?マジで?」

「行きます。高校生がお化け屋敷ぐらいで怖いなんて言わないでね」

「いや……まあ、俺はいいけど」

 俺が心配しているのは久遠の方だ。小学生6年生の修学旅行。こことはまた違う遊園地のお化け屋敷に入った時のことだった。6人班で2人ずつ行くことになり俺は久遠と組まされたのだが、久遠の驚きは阿鼻叫喚と表現するのに相応しかった。

 耳鳴りしそうなほど高く、大きな声で叫び、俺の名前を呼ぶや否や服の中まで入り込んできた記憶がある。お化け役の方が驚くレベルで取り乱し、そのあとは俺が付きっきりで久遠を宥めたのだ。

 掘り返した嫌な記憶を埋め直しつつ、流石に高校生だし大丈夫だろうと不安を落ち着かせる。

 待ち時間は20分らしい。休日ということもありこの遊園地もそれなりに人が多い。これぐらいは許容範囲だからいいが、2時間以上は流石に待たされたくない。

 久遠はこういう待ち時間に慣れてるのだろうか。友達と何度も来ているなら慣れるのも頷ける。

「友達ともよく来るのか?」

「うん、遊園地は割と来るよ。って言っても一年に1回か2回だけどね」

 遊園地《《は》》ってことはお化け屋敷自体はあまり回数を重ねてないのだろう。俺は心の中で克服していてくれと神頼みする。

「へー、そりゃわざわざ遊園地まで来るのも面倒か」

「だね。基本カラオケかショッピングモールかな」

 久遠も普通の高校生になったのなら良かった。なんて普通の高校生になれなかった俺が思う。

「メイクにイヤリングに、アニキュアに香水に、女の子って本当に大変なんだから」

「だろうな。マジ男子でよかったわ」

「最近の男子もメイクする人いるけどね」

 そうなのか、ピアスとか香水をしている男性は見たことあるけどメイクもするのか。レベルが高すぎて付いていける気がしない。

 軽くため息をつきながら少しずつ前に進む。

「俺がもし女子だったとしてもメイクなんてしてる気しないな」

「そんな感じするよね。しおりんと似てる」

「でもこの前一緒に遊んだ時メイクしてたぞ。久遠がプレゼントしてたやつで」

 初心者用な上、ほとんど初めてなのにも関わらずそれなりに上手だった気がする。

「やっぱりそっか……大切な日に使ってって言ったもんね」

 久遠が俯きながら嬉しさと悲しさを混ぜ合わせた複雑な顔でため息をつく。

「久遠の言う通り使ってくれてるんなら良かったじゃん」

 久遠は俺の言葉に「だね」と短く返事し、キョロキョロしながら前の方を見出した。おそらく緊張し始めたのだろう。手をすりすりと合わせ恐怖を紛らわせている。

「どうした?怖いならやっぱ辞めとくか?」

「わっ、私だって成長するんだから。これぐらいは余裕だよ。でも気絶した時はよろしくね」

 青ざめた顔で笑顔を作る。何をムキにななっているのか。俺も別にお化け屋敷はあまり好きじゃないし、久遠が頑張る理由がわからない。久遠なら頑張ることに理由なんかいらない!なんて言いそうだが。

 数分後、とうとう俺たちの番がやってきた。既に久遠は左腕を強く握っている。割と痛い。

 黒いカーテンを潜れば一気に寒くなる。朧げに光るライトが僅かに道を照らして、先を示す。

「蓮、いる?いるよね?」

「いなかったら久遠が今掴んでる腕は何なんだよ」

蓮根(れんこん)かな」

 実はこいつ割と余裕なんじゃないだろうか。でも腕を掴む強さとブルブルと震えてる指で余裕が無いことぐらいは分かる。

 俺が少し先行し辺りを見回す。壁に塗りたくられた真っ赤な血文字や端っこに落ちているボロボロのクマの人形。雰囲気はありきたりなおかげでまだ俺は大丈夫だ。

「ねぇ、蓮、いる?」

「いるって、大丈夫。死にはしないから」

 久遠は随分まいっているようで俺を盾に隠れながら進む。古い井戸の隣をゆっくりと歩いた。何となくだがここから何か出てきそうな気がする。

 そう思った時だった。上から人の腕が落ちてきた。俺は声も出せずに硬直する。

「蓮の腕が!嫌だ!殺される!蓮!蓮!」

「俺の腕じゃねえ!」

 久遠は俺の腕をちぎりそうな勢いで掴み、コアラみたいにしがみつく。そんな久遠を強引に引っ張るように連れて行き、出口近くまで来た。久遠は既に半泣きだ。

 墓場のように両サイドに墓があり、地蔵やら石で作られた狐やらが連立している。さっきの所で自分の予想が当てにならないことは分かった。俺は何が起こっても大丈夫なよう気を引き締める。

 出口の明かりが見えたと同時にパンっと風船が破れたような音がし、墓の下から無数の手が出てくる。久遠は俺を後ろに押し倒し、無言で出口まで一直線に走っていった。

 俺はと言えば、驚きと久遠に押されたショックで腰が抜け、膝に力が入らないせいで出口から出るまでに転けそうになった。

 のれんを抜ければ昼の明るさで目がやられる。元々を細い目にいっそう睨みをきかせて久遠を探す。

 少し歩けば久遠が少し先でうずくまっていた。俺は後ろに押し出されたことを思い出し、作戦を思いつく。

 俺は静かに久遠の背後に近づくと、小さく丸まる久遠に「わっ!」と急に大声で驚かせた。

「何っ?!あっ、蓮か……本当、本当に怖かった。死ぬかと思った」

 いまだに久遠の目にハイライトは入っていない。相当怖い思いをしたのだろう。

「蓮は何で大丈夫なの?」

「いや、割とビビってたぞ。声に出なかっただけで」

 久遠のように死ぬだの殺されるだのは思わないが寿命は縮んだと思う。腕が落ちてきた時に少なからず3年は縮んでる。

「あれ、そう言えば腕ついてるじゃん」

「当たり前だろ。途中で誰かさんに引きちぎられそうになったけどな」

「やっぱり!逃げて正解だったんだ。私ならちぎられてたかも」

 平静を取り戻し始めた久遠に、ちぎろうとしてたのは久遠なんだが。とは言えず、もどかしい気持ちだけが残る。

 その後は昼食をとり、パレードを見たりジェットコースターに乗ったりして時間を潰した。

 栞が好きだと自覚してから、久遠と2人で遊ぶことについて後ろめたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。だが、いざ遊んでみると楽しいと言う気持ちの方が(まさ)った。

 友達が少ないので断定はしかねるが、友達との距離感というのが1番腑に落ちる。ジェットコースターにもう一回乗ろうとはしゃぐ久遠を見ていたら尚更だ。

 久遠に連れられジェットコースターを何周もしていると、体にガタが来始め、今はベンチでチュロスを食べながら休憩中だ。

「あー、楽しかった。次何乗ろっか?もう一回ジェットコースター?」

「マジ、1人で行ってくれ。ギブだギブ」

 俺は負けましたと両手を挙げる。食べたチュロスが今にも出てきそうなぐらいには気分が悪い。

「でも両手挙げてるじゃん。またわーってしたいんでしょ?」

「んなわけあるか。ジェットコースターに乗りたくて手を挙げてるわけじゃないんだわ」

 そんなワイワイとはしゃぐ子供みたいな無邪気な心も澄んだ瞳も持ち合わせちゃいない。口にチョコを付けた久遠を横目に深く一息つく。

「もう体力ないの?中学の時はあんなに走れる体力あったのに。最近走ってないでしょ」

「そりゃそうだろ。運動部じゃないと走らないって。筋肉が落ちてるからか体動かすのがしんどい」

「なんかおじいちゃんみたいだね」

 昔に比べたら筋肉も無くなったしある意味おじいちゃん状態と言えるだろう。心肺機能はほとんど落ちていないのだが筋肉がもうダメだ。この一年動かなすぎた。

「運動しなきゃなー」

「言ってるだけでやらないでしょ」

「ご名答。でも一応シャトルランは100回超えてんだからな。元長距離選手の面目は保ててるはずだ」

「私85回だよ?」

 バケモンじゃねーか。と喉元まで出ていたが何とか飲み込む。代わりに対して思ってもいない褒め言葉をさらりと吐く。

「流石は一年でレギュラー入りしただけあるな。今はキャプテンなんだよな?」

 この前に栞から聞いた記憶がある。俺の知らないうちに久遠と栞も相当仲良くなっているみたいでよかった。

「うん、三年生が引退しちゃったからねー。来年は受験だよ?」

「志望校決めなきゃ話になんないから、何とかしなきゃだな」

 来年受験か……。この前の懇談でも先生に志望校は早く決めておかないと取り返しのつかないことになるとか言われたな。家族での夕食でもここ数回は俺の大学の話ばかりだ。そういえば父さんが今日は店を予約してるって言ってたな。

 俺が落ち着いたのを見計らってか、久遠が立ち上がり観覧車を指差す。もう4時半、最後の締めとしてはこの上ない最適解だ。久遠が観覧車のようなしんみりした物を選ぶことに違和感を覚えたが、成長っていうのはそういう物なのだろう。

 まだライトアップされていない観覧車は人気がないのか、到着するとすぐに乗ることが出来た。

「さっきの話の続きなんだけどさ、蓮って大学どこ受けるか決まってないんだよね?」

 久遠は徐々に上がっていく風景を見ながら話を戻し、質問をしてきた。

「そうだな。親からは上の方行けって言われてるけど、正直わからん」

「私も。親が中途半端に成功しちゃってるから厳しんだよ」

 確か久遠の父は区長を務めていて、親の間じゃ結構な有名人だ。何度か見たことがあるが威厳があり、勤勉という言葉が似合う人だった。

「国公立目指すのはいいとして上すぎるとしんどいんだよねー。今は近くの大学の二番手か三番手ってことで話はついてるんだけどそれでもギリギリだよ」

 久遠の疲れがため息となってゴンドラに吐き出される。

「俺の母さんも国公立推しなんだよなー。父さんはあんまり口うるさくないから今は何とかって感じ」

 気づけば観覧車は折り返し地点に着いていて、1番高い位置に来ている。夕日が街を赤く染め、久遠の顔が朱色に溺れる。

「すっごい高いよ!あそこら辺が私たちの家だよね!」

「そうか?こっちじゃね?」

「嘘だあ、絶対こっち」

 俺と久遠で全く違う方向を指差す。それがおかしくて2人で同時に吹き出した。

「駄目だ、方向音痴と方向音痴じゃ分からないや」

「俺を方向音痴にするな。音痴なのは歌だけだ」

「確かに蓮の歌は酷そうだね」

 カラオケに行ったことがないので分からない。けどそんなやつは十中八九音痴だ。観覧車が終盤に差し掛かる。カラオケの話も終わり、少し間が空いた。俺と久遠じゃ珍しい沈黙だ。その沈黙を消すかのように加音が質問してくる。

「蓮ってさ、告白されたことあるの?」

「同じようなことこの前にも聞かれたな。一回だけな。中学の後輩」

「ああ、あの子か。本当にそれだけ?」

 久遠が覗き込むように聞いてくる。

「それだけだ。てか、あの子かって知ってるのか?」

「うん、何回か遊んだことあるよ。最近はあんまりだけど、学校で会ったら話すし。多分連絡先も繋いでたよ」

 もう久遠の交友関係が広すぎて怖い。弱みの一つや二つ、なんなら三つや四つぐらい掴まれてそうな気がしてくる。

「あの子も報われないよねー。蓮のこと諦めらんなくてこの高校入ったのに、いざ来てみればしおりんっていうラスボスがいるんだから」

 急に栞の名前を出されて、ドキリとする。それを隠すように俺は外を眺めると、もう地面はすぐそこにあった。

「あの子、この学校だったのか」

「そうだよ、蓮が陸上続けてると思ってたら辞めてたらしくて結構ショックだったらしいよ。ま、今は楽しく美術部やってるらしいけどね」

「そうか、それなら良かった……それ俺に言っていいやつか?まだ俺のこと諦めてないんじゃ?」

 声に出した瞬間に自惚れすぎだと自覚した。今のは自意識過剰すぎる。調子にのっていたのは久遠だけじゃなかったみたいだ。

「はー、どれだけ自分に自信あるの。でも陸上辞めても応援はしてるって言ってたよ。良かったじゃん」

 久遠のフォローが余計に心に沁みる。いったい何を応援してるんだと聞きたいが運悪くここで観覧車は終了。話の流れはストップしてしまった。

「ふー、楽しかった。じゃ帰ろっか」

 行きのように方向音痴2人で不安だったが、案外道を覚えていて、すんなりと帰路に着いた。もうすぐ俺たちの家が見えてくる頃だ。

 隣り合って進む。もう夕日も身を隠して、残り香だけが空に赤みを残している。何度も通った道。俺たちの間に会話は無く、久遠が話を振ってくれなければ今日一日中持たなかったと分からされる。

 本当に俺は人付き合いが苦手だ。久遠がいなければ今以上に愛想が悪かっただろう。何か迷っているような久遠を横目に俺は家に向かう。

 小さな公園の横を通った時、久遠がポンと俺の方を叩いた。

「どうした?」

「ちょっと話しよ」

 いつもは無理矢理にでも会話する相手と目を合わせたがる久遠が、今は俺から目を逸らし続けている。

 それに、今までだって容赦も遠慮もなく久遠は話を振ってきたのだ。かしこまった言い方に違和感しかない。

 何となく自分なりに予想を立てながらも公園に入る。ここは人通りはほとんど無いが、ごく稀にバイクや自転車が通る公園だ。小学生の頃はよくここで久遠と遊んだ気がする。

 久遠は何も言わずにベンチに腰掛けたので、俺は久遠の正面にある鉄棒にもたれかかった。

「ここ、久しぶりだね」

「そうだな。小学生以来?」

「ううん、違うよ。ここで泣いてた私を蓮が助けに来てくれたの覚えてる?その時以来」

 久遠は握った自分の手を見ながら、思い出を語るように指摘した。

「そんなこともあったな」

「うん、あったの。凄く嬉しかった。本当に、本当に嬉しかった」

 久遠は何か言いたそうに下唇を噛む。この空気、一度味わったことがある。相手が言いたいことを言う勇気を振り絞っている時間。永遠に感じられる程の長い時間が動き出せば、もう取り返しのつかないことになる。

 顔を赤くし、手を強く握りながら、勇気を振り絞るように久遠は俯いている。

 さっき自分を自意識過剰だと(さげす)んだところだ。自惚れていると自傷を図ったばかりだ。それでも直感する。これから久遠がすることは––

「私ね、蓮からいっぱい色んなものを貰ったの。夢も道も、勇気も」

 決心がついたように口を開けば、出てくるものは俺への感謝。ただ、久遠が言いたいのはそれじゃないことぐらい分かる。

「私!蓮のことが好きっ!ずっと、ずっと前から好きだった。だからっ––」

「ごめん…………」

 久遠の告白に、俺は途中から割って入る。最後まで言わせてやれと、そう思う。最後まで聞いて、しっかり答えるのがお前の仕事だと、言い聞かせたはずなのに、俺は自分が傷つくのを恐れて、久遠を傷つけた。久遠の顔が怖くて見れない。

「ごめん……久遠の気持ちは凄い嬉しい」

 気づいていた、久遠の好意に。見ないふりをしていた、久遠の想いを。はぐらかしていた、今この時を。言葉にすればすぐに分かる。こんな慰め、今の久遠には何の意味も持たないことも。

「それでも……それでも俺は」

「いい、言わないで。分かるから。分かってたから。私が入る隙なんて、無かったんだよね」

 顔を上げた俺の目に久遠の表情が映る。眉を八の字に傾け、澄んだ涙が久遠の頬を撫でる。唇を優しくつむぎ、溢れ出す感情を殺そうとしているようだった。久遠は袖で何度か涙を拭いて、公園の出口へと向かって行った。

 声を押し殺しながら泣く久遠の背中が、俺の心に氷柱(つらら)を突き刺す。体から血が出た方がいっそ楽なのにと、だから俺を殴ってくれと、いない誰かに叶わぬ願いをする。

 今なら『嘘をつきながら遊ぶ』の意味が分かる。俺も久遠も自分の想いに嘘をついて、気付かないふりして今日を過ごしたのだ。

 もう一度、去る久遠に目をやった。その時、バイクのハンドルの音が小さく聞こえた。嫌な予感、嫌な想像、嫌な結末。気づけば久遠の方に走り出していた。

 久遠はまだ気づいていない。俺にも、バイクにも。多分久遠は俺の返事を受け入れるのに精一杯なんだ。

 久遠が道路に一歩踏み出すと同時にバイクが俺の視界の中に入る。届けと伸ばした手、鳴り響くブレーキの音––

「危ないやろが!急に飛び出して来おって、前見ろ!」

 間一髪、俺の手は久遠の背中に届き、力一杯久遠を引っ張った。バイクに乗ったお爺さんはチッと舌打ちをした後、去って行った。

 久遠は何が起こったか分かっていないようで、俺に引っ張られた勢いのまま、地面に寝転がっている。

「大丈夫か?」

「大丈夫だから、いいよ。ありがと」

 今まで聞いたことないほど冷たい声で俺を突き放す。当たり前だ。久遠は立ち上がるとすぐにしゃがみ込んだ。

 何事かと見てみれば、久遠の右足が酷く腫れている。青く膨れ上がり、出血もしている。おそらく打撲だ。

「大丈夫じゃないだろそれ。送るから」

「っ……いいって……辞めてよ」

 俺は久遠の言葉を聞かずに久遠の前に背を向けてしゃがみ込む。

「辞めてって、本当に……辞めてよ……」

 久遠はそう言いながら、俺の背中に泣きつく。あの足で帰ることが出来ないのは分かっているのだろう。

 俺は持ち上げると、とりあえず俺の家に向かう。久遠は力強く俺の背中にしがみついている。

「優しくしないでよ……諦めらんないじゃん。俺には乗せないって言ってたくせに」

 何度もそう言う。俺だって、久遠を傷つけたくはなかった。それでも。仕方ないじゃないか。俺には、俺にはもう、諦められない人ができてしまったのだから。

 鼻水を啜る音が、背中を掴む手の熱さが、後ろから聞こえる泣き声が、首元に感じる涙の冷たさが、その全てが俺を思ってくれた証で、叶わぬ恋の証だった。

 家に着くと玄関に久遠を座らせ、リビングからテーピングと保冷剤を持ってくる。久遠の前にかがみ込むと靴と靴下を脱がせた。

 優しく保冷剤を当ててテーピングで固定する。終始、久遠は静かに泣いていた。

「ねえ、何で優しくするの?」

 静かな家に、消えそうな声でそう言う。

「決まってるだろ。大切だからだ。俺は久遠とは付き合えない。でもそれが助けない理由にも見捨てる理由にもならない」

 俺は上からもう一度テーピングを重ねながら答える。ポタポタと俺の手に涙が落ちてくる。何で俺は女の子を泣かせてしまうのだろうか。

「あーあ、駄目だな私、失恋しちゃった。諦めさせてくれない蓮なんか大嫌いなんだから」

 久遠は足を立てたまま、寝転がる。涙を止めようとしているのだろう。まだ鼻声だ。

「でも久遠も分かってただろ。今告白しても無理なことぐらい」

「酷いこと言うね。でも、うん、分かってた。それでも蓮に教えてもらったから。好きな事からは逃げない方が良いって」

 久遠が部活を続けると決めた日のことを言っているのだろう。久遠はちゃんと向き合って、ちゃんと形にしたのだ。

「それに吊り橋効果とかでバグったりしないかなって」

「バグったりって……」

 あれほどまでに久遠がお化け屋敷に行きたがってたのはそんな理由があったのか。テーピングが終わると久遠の横に腰を下ろす。

「蓮は、告白するの?」

「久遠を振ったからにはしなきゃだよな……」

 好きな人がいるからと振っておいて、自分は告白しないなんて正直言ってクズだ。相手が勇気を振り絞ってくれたなら、振った側もそれなりに示さなきゃいけない。距離が近いなら尚更。

「久遠、なんか良い方法あるか?」

「それ私に聞く?しかも振った相手に恋愛相談とか正気じゃないでしょ」

 俺と久遠が揃って苦笑する。まさに正論。俺は正真正銘クソ野郎だ。

「俺には友達が1人しかいないんだよ。察せ」

「じゃあ蓮に聞くけど、もし私がいい方法があるって言ったら蓮はそれを使うの?それで本当に想いが届くと思うの?」

 久遠は起き上がって、いつものように俺の目を見る。

「届かないな……」

 そうだ、自分が言葉にしなきゃ意味がない。それぐらい。俺にだって分かる。

「はい、約束ね。明日しおりんに告白すること」

「ああ……明日っ?!」

 突き出された小指に小指を近づけると、逃がさないと捕らえられる。約束は強制らしい。

「失恋は全部私が持っていってあげるから、最悪振られても私のとこに来たら笑顔で振ってあげるし」

「久遠も振るのかよ」

 そんな打算的な覚悟で挑むなと言うことだろう。久遠には本当感謝しかない。こんな俺を許してくれて、力を貸してくれて。最高の友人だ。

 2人で玄関に座っていると家のドアが開いた。仕事帰りの父さんが車の鍵をクルクルと回しながら入ってくる。

「おお、蓮、ここに居たのか。これから母さんと外食だ。久遠ちゃんは……怪我大丈夫?送っていくから車乗りな」

 父さんの提案で久遠を家に送り、そのまま外食に向かった。



「久しぶりねー、蓮」

「毎回言ってる」

 赤いドレスでドレスコードを突破した母さんはいつも通り俺に挨拶をぶつける。

「毎回言ってるって言うのも毎回言ってるよな」

 父さんが席に座り、俺も後に続く。久遠といつも通り別れられたからか落ち着いている。

「ふぅー」

 今日1日の苦労を吐き出すと、「どうしたの」と母さんが聞いてくる。

「別に、ちょっと疲れただけ」

 約束通り明日告白するとなると考えることと考えたくないことで潰されそうだ。そもそも栞が俺のことをどう思っているのかすら分からない。好きなのだろうか?そもそも好きって何だろうか?

「はー、好きって何だよ……あっ」

「ねえ、葵さん答えてあげなよ。好きって何かだって」

 運悪く1番聞かれたくない人に聞かれてしまった。もうあとは野となれ山となれだ。俺にはどうすることもできない。

「恋愛小説読んだことあるんだったら何となく分かるんじゃないか?人それぞれだってことぐらい」

「1番面白くない回答だな」

 サラダを摘みながらツッこむ。ありきたりすぎて参考にすらならない。

「じゃあ俺の思ってることを正直に話してやろう。俺が思うに好きってのは形を決めることなんだ。さっき言ったように好きなんて人それぞれ。その型を自分で決める。それが好きってやつだ」

「その好きの形が私なのね?」

 父さんは無言で顔を赤くする。いい歳して辞めてくれ。高校生は親のそういうの1番見たくないんだよ。

「つまりだ。蓮が栞ちゃんを選んでも久遠ちゃんを選んでも、好きなことには変わらない。そう思うな」

「はいはい」

 センチメンタルでロマンチックなことを言った割に何となくしか掴めない。そう言うものなのだろうけど。

「恋愛もそうだけど勉強もしっかりね。ずっと言ってるけど私は国公立推しだからね。葵さんは何も言わないかもだから私はしっかり言います」

 母さんの勧める大学はこの地域でも頭ひとつ抜けている大学だ。俺の学力じゃ不可能と言われても仕方ない。そんなレベルに行かせようとか怖いとしか思えない。

 俺は1週間に一回の家族団欒をしながら明日のことを思い、胃もたれするのだった。