二人でタクシーに揺られ小一時間。俺たちの高校から15キロほど離れた海辺は風通りがよく、潮風が心地よい。

「着きましたよ。6850円です」

 俺は7000円を差し出して150円をポケットにツッコむ。全然タクシー代足りないじゃねえか。予期せぬ2000円の出費に傷心しながら栞についていく。

「ごめん、千円払うよ」

「これぐらいいいって。それより早くしないと完全に沈むぞ」

 既に夕日は海水に溺れ始めている。真っ赤に染まった空と、それを反射する茜色の海がグラデーションを描く。そんなただの海に沈む夕日の絵でも俺は息を呑んだ。

「あそこ座ろっか」

 栞は低い防波堤を指差しながらこちらを向く。俺も笑顔で応じる。横並びで座ると肩が触れ合い、手が重なり合った。

「ふふん、照れてる。顔真っ赤じゃん」

「夕日のせいだ。俺は知らん」

 重なった手を振り(ほど)きながら弁解する。コンクリートの塀はひんやりとしていて、すぐに栞の手が恋しくなる。

「綺麗だね」

「だな」

 いつの日か月虹(げっこう)を見た時のように感想を呟く。

「連れてきてくれてありがと」

「いいってことよ」

 ゆっくりと沈んでいく夕日を見ながら肩を寄せ合う。それを瞳に映す栞の顔はどこまでも美しい。そっと、栞の澄んだ目から細い涙が頬をつたった。金色に輝く涙の理由が分からない。

「ごめん、ちょっと胸貸してっ……」

 絶景に感極まったのか、何かダムが決壊したように栞が静かに俺の服にしがみつく。子猫のようなか弱さが俺の保護欲を掻き立てた。

 そっと、左手で栞の背中を支え、もう片方の手で後頭部を優しく撫でてやる。何が起こっているかは分からないけど、聞かなくていい。何度も土足で栞の領域を踏み荒らす失態はしない。

 時々栞は鼻を啜ったり、俺の服を強く握ったりしながら、身を委ねた。ヒクヒクとした小さな揺れを左手で感じながら俺は背中をさすり続けた。

 もう夕日が半分以上顔を隠した頃。落ち着いた栞は俺に笑顔を見せた。

「私、泣いてばっかだね」

「いいだろ、泣くぐらい。誰だってするし。俺は告げ口する友達が居ないんだ。泣き得だぞ」

「聞いたことない言葉出てきた」

「まあ、背中ぐらいならいつでもさすってやるよ。セクハラで訴えんなよ」

 栞は小さく笑う。俺の軽口で笑えるんなら無問題(もうまんたい)だ。ほんの2、3分、静かに泣いた栞の気持ちも理由もその先も、何一つ分からない。それでも泣き止んだ後に笑えるのならそれは良いことなはずだ。

 涙を流すと体に良いと何かの本で読んだ記憶もあるし。会話を繋ぐように栞は言葉を発す。

「なんだかんだで氷室くんって優しいよね」

「別にそんなことないだろ」

 謙虚でも遠慮でもなく本当にそう思う。俺に優しいと言う言葉は似つかない。今日だって栞がいなきゃ空くんを助けようなんて考えなかったはずだ。

「名前呼んでくれた時も、この前の雨の日も、今も、全部氷室くんに泣かされてるんだよ?」

「語弊があるな。俺が泣かせたんじゃないだろ。少なからず今回は」

「違うよ。泣かされたの。氷室くんってこんなにあったかいんだね」

 栞が俺に寄り添う。俺は身を(よじ)りながら栞を支える。ここで避けたりするほど男は捨ててない。

「熱い男だからな」

「誰のこと?」

 栞は俺のことを冷たい奴だと思っているらしい。栞の方に目をやると拳一つ分の距離にいる。至近距離にドキリとするし、栞と重なっている部分から体が熱くなってる。高鳴る鼓動を感じながらそっと栞を引き離した。

「熱いなら冷やさないとねっ」

 立ち上がった栞は靴を脱いで裸足で砂浜を歩いてゆく。砂を踏む音が小さく聞こえ、俺を呼ぶ声も飛んでくる。

「ほら!早く!」

 吹っ切れた様子の栞にさっきまでの面影はない。掘り返して欲しくないだろうし心の中にしまっておこう。そう思いながら俺も裸足になる。

「冷た〜い」

「当たり前だろ。もう10月だぞ」

 波打つ冷たい海水が、俺のくるぶしから下を物理的に冷やす。どこまでも続きそうな水平線。薄紫に染まり始める空。秀麗で端麗な彼女のシルエット。こんなの見惚れるなと言う方が無理な話だ。

 彼女が振り返ると同時に俺は目を逸らす。

「どこ見てるんですか〜」

 ピシャッと言う音と共に少量の水が俺の顔にかけられる。

「しょっぱ……何すんだよ」

 再び栞の方を向くと、無言でこちらに向かってきている。一歩後退するがそんな努力も虚しく栞は自分の眼鏡を俺にはめた。

「もっと見て」

 初めて見る眼鏡を外した栞。眼鏡と前髪に隠れていた整った眉は大人らしくて、レンズが無くキリッとした目は魅力的だった。

 長年読書で(つちか)った俺の語彙力を持ってしても言葉だけで栞の麗しさを表すなんて不可能だ。

「くっ、ふふっ、丸メガネ似合わなすぎでしょ。いい歳した少年キャラアイドルみたい」

「それは的確な感想どうも」

 七割ほど悪口でできた栞の感想に皮肉を言いつつ眼鏡を外す。ツンと塩の匂いが鼻を刺す。着ている服を見れば小雨に打たれた時のように色が滲んでいる。

「服まで濡れてるんだけど」

「ごめんごめん、でも水も滴るいい男って言うでしょ?」

「思ってないだろ」

「バレた?」

 水遊びには満足したのか笑いながら靴の元へ向かっていく。行動原理が全く分からん。脳裏に「もっと見て」とこぼす栞が再生される。

 見てるよ……誰よりも……。多分そう。俺は誰よりも栞を見てるし、誰よりも栞のそばにいると、そう思う。でもそんな俺ですらなぜ彼女がさっき泣いたのか、見当もつかない。海水が渇き、高さ固くなった髪の毛をかきながら防波堤の元に戻る。

 湿った足の上から強引に靴下を履き、もう一度防壁に座る。夕陽は完全に溺れていて、最後の足掻きだと言わんばかりにオレンジ色の空だけをチラ見せしている。

「明日はどうする?」

「えっ?」

 既に明日も遊ぶことが決まっているかのような発言に素っ頓狂な声が漏れる。

「えっ?じゃないよ。当たり前じゃん。みんなは4日ぐらい修学旅行に行ってるんだよ?明日も遊ぶに決まってるじゃん」

「どこで決まったんだ、それ」

「って言うか明日は氷室くんのターンだよ」

 また知らない制度出てきたよ。今日は栞がコースを立てたから明日は俺ってことなのか。誰かとお出かけすらしたことない俺には難易度が鬼だ。

「無理がある……」

「氷室くんに不可能なんてありませーん。お願いっ!」

「可愛く言ったって無理なもんは無理だ。遊ぶはいいにしても俺が作るデートコースなんて本屋巡りだぞ」

「それ休日の氷室くんに私がついて行ってるだけじゃん」

 その通りだな。でも実際デートコースなんて使ったことも想像したこともない。俺がオススメする本屋10選とかで良いのかな。いい訳ないか。

「俺が2日目のせいでハードル上がってるんだよ。今日の満点デートのバトンをどう繋げばいいんだよ」

「満点デートって……そんなに楽しかった?」

 照れながらほくそ笑む栞に俺も恥ずかしくなってくる。夕日の光はもう無いのに、俺の顔は赤い。照れてることを隠しても多分栞にはバレてるし、包み隠さず言う。

「まあ、楽しかったよ」

「私も氷室くんみたいに楽しみたいから期待してるね」

 何を言っても無駄だと栞の目が語っている。目は口ほどに物を言うってやつだ。

「分かったよ……考えとく。でも期待はするなよ」

「出た。氷室くんの『期待はするなよ』。そんなこと言いながら普通に合格点とってくるんだもんねー」

「そんなに俺言ってるか?」

 俺の行動がワンパターンの可能性が出てきてる。もしかしたら右耳を触る以外の癖も久遠や家族にバレているかもしれない。

「うん。排出率5%ぐらい」

「結構低いじゃねぇか。期待はするなよ」

「やったー!5%引いた!」

 苦笑しながらはしゃぐ栞を横目に時間を確認する。スマホには7:12分と表示されてる。悪くない時間だ。

「そろそろ帰るか」

「早くない?まだ大丈夫だよ」

「お願いされたらなんでもする奴だと思ってないだろうな」

「そんなことないよ。それより今月ピンチだから2000円貸してくれない?」

「思ってんじゃねーか」

 軽いじゃれあいも心地いい。もう少しこのままでいいかな……。2人の時間がこの上なく楽しい。いや、2人の時間ではなく、栞との時間と言うべきかもしれない。

「そう言えば、氷室くんってモテるの?」

「急にどうした」

「空くんが言ってたじゃん。モテたことある顔してるって。実際どうなの?」

 恐る恐る聞く栞に笑いを堪えながら口を開く。

「告白されたことはあるけど、付き合ったことはないな」

「へー、どんな子?」

「中2の頃の後輩。名前は忘れた」

「酷すぎて笑えないんだけど」

 ちょっぴり嬉しそうな栞の顔が引き攣ったので弁明しておく。

「ほとんど関わり無かったんだって。話したこともない人の名前なんて覚えてるはずないだろ」

「後輩の名前ぐらいは覚えてあげなよ……」

 言い訳は儚く散り、心へのダメージだけが残る。これからはもう少し人の名前を覚えるようにしよう。

 告白してくれた人の名前も知らないって言うのは相手もこちらも悲しいことぐらいは分かる。失恋なんてした経験も無ければ、告白なんてしたことない。

 恋愛に疎いのは本当のことで、モテると言うのも的を射ているかと聞かれれば否と答える。

「でも今言ったのぐらいだ。まともな恋愛なんてしたことないし」

「ふーん」

 俺の言葉を反芻(はんすう)しているようでどこか怖い。話が途切れたのでこちらからも質問して見る。

「前から気になってたんだけど栞ってなんで本読み始めたんだ?」

 俺は無論、物心ついた頃には父さんが有名小説家で家には本しかなかった。友達もいなかったし読書に(ふけ)るのは必然。ただ栞の場合は分からない。

 ただ本が好きなのは分かる。しかし、俺の場合のように本に触れる理由やきっかけがあるのではないかと思う。実際、漫画やアニメに比べて小説は少し敷居が高い気がする。

「うーん…………」

「やっぱり名前?栞って言えば本だもんな」

「あっ、うん。そうそう!それに1人でできる趣味っていうのも大きいかも」

 引っかかるような物言いに違和感を覚えたがその後の明るさを見る感じ気のせいだろう。

「萌えるシチュエーションってあるよねー。ナンパから助けたり花火見たり」

「あるあるだな」

「氷室くんはかっこいいナンパの撃退しそうだよね」

「どんな偏見だよ」

 相手にもよるけどヤンキーみたいな奴なら俺は助けないぞ。多分。残念だが俺にはカッコよくナンパを撃退する方法なんて一つも思い浮かばない。相手がその気なら俺は登場と同時に役者不足になるだろう。

「あとは花火だねー。打ち上げ花火見てみたいな」

「来年の夏でも行くか」

「そうだね……来年……行けたらいいね」

 寂しげな瞳で俯く栞を見ていると30分ほど前の泣きじゃくる栞が頭に浮かぶ。本当に、そういう顔しないで欲しい。

「ここでやるか?手持ち花火」

「そうやってすぐ甘やかしちゃダメだから。あと私、煙無理なんだ」

「そっか」

 こんな小さな提案すらまともにこなせない奴にデートのエスコートなんて出来るのだろうか。今日いろいろやってくれた栞にお返ししたい気持ちと、粗末なものを返したくないと言う気持ちが拮抗する。

 それも相まって明日には不安しか募らない。それでもそれを相殺できるくらいには栞との明日を楽しみにしている自分がいるのにも驚く。

「じゃあ最後に私達がここに来た証だけ作って帰ろっか」

 栞は立ち上がって波に打ち上げられた30センチぐらいの枝を2本取った。

「はい、ここでいっか」

 一本を俺に手渡し座り込む。とりあえず説明をして欲しい。

「何するんだ?」

「いいから(かが)んで」

 俺がしゃがむと同時に栞は不細工な半円を砂浜に描いた。クエスチョンマークの上の部分みたいだがこれが俺たちが来た証になるのだろうか。

「何これ?」

「氷室くんってこれで分からない鈍感くんなの?」

「鈍感で悪かったな。主人公の素質があるやつは大体鈍感なんだよ」

「主人公にしては個性も人脈も無いけどね」

「はいはい」

 栞のいつもの皮肉にはいつもの返しで対応させてもらう。

「ついでに勇気も意思もないね」

「言い過ぎだろ」

 苦笑しながら改めて地面に描かれた半円を見るが何も分からない。栞は「ほーらっ!」なんて言いながら上からなぞるが疑問符が濃くなっていくだけだ。

「マジで分からん。俺はどうしたらいい」

「はぁー」

 栞が枝を持った俺の右手を、左手でそっと握る。そしてはてなマークの頂点から線対象に砂浜に円を描く。

 すると、綺麗なハートマークが砂浜に浮かび上がった。

「凄え。全然分かんなかった」

 俺の手の甲と左手を重ねながら笑う栞を見ていると無性に抱きつきたくなった。そんな衝動を抑えつつ帰ろうかと提案すると、栞もうんと頷く。

 その後も2人で会話しながらバスに乗る。解散したのは8時が回った頃。明日のデートコースどうしようか……。

 父さんはそれなりに力になってくれそうだが、修学旅行を休んで栞と遊んだだけでニマニマしてるのだ。相談なんて何があってもできない。

 あと頼れるのは大胆不敵ぐらいか。なんて考えながら久遠に電話をかける。自由時間ならいいんだけど。

『もしもし?蓮から電話なんて珍しいね。どうかしたの?』

「あー、ごめん。今ちょっと時間あるか?」

『大丈夫だよ。自由時間だし』

「そっか。ありがと、明日栞とデっ……遊ぶことになったんだけどおすすめの場所とか知らないか?」

『えっ?!しおりんだけずるいっ!私も遊びたい!』

 久遠はスマホ越しにスピーカーレベルで声を張る。質問に答えないのはいつものことだ。

「久遠も修学旅行行ってるだろ。で、いいとこない?」

『考えてあげるけど約束があります!』

 怒りが収まったのか溌剌(はつらつ)とした声が飛んでくる。俺は無意識にスマホと耳の距離を開ける。

「何?」

『修学旅行から帰ったら私と遊ぶように!』

「了解した。栞にも伝えとくよ」

『そうじゃなくて……久しぶりに、2人でどっか遊びに行きたいなって……』

 久遠が(ごも)るのが分かった。俺も予期してなかった提案ということもあり引っ張られる。

「そっ、そっか……じゃあ2人でどっか行こうか……」

『うん……しおりんと蓮のことだし漫画喫茶とか良いと思うよ。エモさとかは全く無いけど』

「そうか、ありがとう。おやすみ」

『うん。おやすみ』

 久遠との電話を早く切りたいと思ったのは何故だろうか。変に安心している心臓を撫で下ろしながら、俺は視線を空へと上げた。