授業が始まると、途端に教室が静かになった。
「はい、ここ分かる人」
数学教師の寺田が私達に尋ねる。
「あー、えーっと、じゃーあ、島崎、?どうぞ」
彼は教卓に置いてあった生徒名簿を確認し、窓側の席に座っている島崎さんを指名した。
「2√−3」
「はい、正解」
まばらな拍手が響く。
またこいつか、という雰囲気を肌で感じる。
これだって私が学校が嫌な理由だ。
対して生徒に思い入れもなく名前すら覚えていない教師の機械的な授業。
人によって大きさの違う拍手。
頬ずえをついてそんな教室の一般的な風景を眺めていた。
私はこの教室の中で、ある程度地位を確立している方だとは思う。
ただ、行動が手に取るように分かるこの人達の間での地位に意味はない。


つまらない授業を6回繰り返してチャイムが鳴り終えたのを聞くと、私は、リュックを背負って足早に教室を出た。
だらだらと残っていると、誰かに無駄な話を聞かせられるために捕まったり、一緒に帰ろうと誘われて屋上に行けなくなると思ったからだ。
そして私は今いる3階から5階に上がり屋上に続く階段の前に立つ。
とは言ってもここは立ち入り禁止だ。
とりあいず、彼を待った。
自分が何故これほどまでに彼との約束に固執しているのが疑問に思う程は待った。
途中、顔見知りの友達と3回ほど軽い挨拶や社交辞令を交し、なんでこんな所に居るのかという質問を軽い嘘で受け流した。
すると、彼が現れた。
「よっ、涼華。ちゃんと来てくれたのねー」
名前で呼ばれると思っていなくてたじろいだ。
私の心中も知らず、今日もふわふわとした薄茶色の髪を靡かせている。
眠そうな瞳はいつものことらしかった。
「なんで、名前知ってるの」
恐る恐る尋ねる。
「んー秘密」
なんて野暮な人なんだ。
というかむしろ怖い。
「あーもう、いい。どうやって屋上いくの」
先生にバレない裏口とかがあるのだろうと思っていたら、彼がいきなり私の手を引いた。
「ひとつしかないでしょ」
どうやら、立ち入り禁止の標識は彼にだけ見えていないらしい。
階段をかけ登ると目の前にはやけに重たそうなドアがあった。
南京錠がかかっていることに気づき、声をかけようと思ったのも束の間、
突然、南京錠がだらりと床に落ちた。
「なんで鍵、、、」
唖然として見ていると、
彼は、俺が壊した、と爽やかな笑みを浮かべた。
なんなのこの人は、と若干引いた。
それと同時になんとなく湧いてきたこのソワソワとした気持ちの名前をなんと言うのか、私には分からなかった。



彼がドアを思いっきり開けると、夏の始まりを告げる風が私達の間を通り抜けた。
「いいの、こんな所来て」
嫌悪感から冷たい態度をとってしまう。
「まあもしかしたら今日死ぬかもしんないんだしいいっしょ」
晴れた笑顔で重たい言葉を淡々と言う彼はどこかさっき学校で見た雰囲気とかけ離れているような気がした。
「呼び出したのは、なんで?」
私は今からお説教でもされるのだろうか。
先生に伝えたから、カウンセリングを受けろ、だとか言われるんだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、彼がにっと笑った。
「君のゲームみたいな人生を一変させてやろうと思って」
驚いた。
心底、驚いた。
そして少し、期待してしまった。
彼は私の人生に面白いアクセントを加えてくれるのかもしれない。
そう思ったのに、
「君の人生がつまらないのは、君のせいだよ」
はっきりと私の瞳を見て彼が言った。
また、胸がドキッとした。
彼に言われたことが図星だからこそ、ドキッとするのだ。
自分でも、ちゃんと、分かっているからイライラするのだ。
「あんたに、何が分かるの」
気がつくとそう、口にしていた。
私らしくなくて馬鹿みたいだ。
ちょっと私のデリケートな所に踏み入れられたからって意地を張ってしまった自分が情けなくて俯いていた。
すると彼はふっと朗らかに笑った。
「さあ、何も分からない。ただ、昨日死のうとしてるのを見ただけだ。んで今日も死にたいっ顔して廊下歩いてるのが気に食わなかっただけだ」
そこまでバレているとは思わなかった。
「他力本願の人生はつまらないって、君なら分かってるんでしょ?」
そうか、バレてるのか。
全部全部、バレているのか。
突然、笑いが込み上げてきた。






「名前は」
そういえば、私はまだ彼の名前すら知らないのだ。









「また急だなあ」
彼は心底楽しそうに笑った。









「颯だよ」








颯。
何故かこの名前に聞き覚えがある気がした。









「あのさ、颯」
言葉を噛み締める。










「んー?なんだい?」










「私は、涼華」












「知ってるよ、ずっーと前からね」
少し寂しそうな横顔とおかしな物言いが気になった。












「君は何者?」











自分でも変なことを聞いている自覚はある。
でも彼は不思議な顔ひとつせずにすんなりと答えた。










「俺はー、そうだね、」











「君の未来、とか」
彼が、はにかんだ。











真っ白い肌と、少し茜色に染まった頬を貼り付け目を細めて嬉しそうに笑う彼はとても美しかった。


















彼が何を伝えたかったのかは、正直、分からない。
けれど、この人は、私の人生で初めてモノクロに見えない人間だった。