走り始めると思ったよりも体が軽い。しかし、今まで走ったことがないので、少しぎこちない走りになっている。走りながら彼女に向かって声を上げる。



「みきちゃーん!! 動かないで!!!」



 周囲にいた主婦の人や営業中のサラリーマンが不思議そうに僕のことを見ていたが、気にしている余裕なんてあるはずがない。



 僕の叫びも虚しく信号は青に変わり、彼女は交差点へと入っていく。



 あと少しで彼女の背中に追いつくところで、胸を激しい痛みが僕を貫く。体は限界に近いようで、立ち止まってしまう。景色がぼんやりと歪み、視界から光が薄れつつある。



 狭まれた視界からうっすらと見える彼女の後ろ姿。



「ま・・だ倒れる・・・わけには」



 周囲にいた人たちも僕の不自然な様子に違和感を感じ始め、周りに集まってくる。今話しかけられたら、僕は彼女のところまで辿り着くことはできない。



 心臓に手を当て思いっきり胸を握り締める。苦しい...でも、頼むからあと少し...
  


「あと・・・あと、少し、少しだけ動いてくれよ・・・動けよ!! 僕の心臓!!!」



 周囲にいた人たちは僕の凄まじい気迫に気押されたのか一歩退く。その隙に、痛みに耐えながらポケットに入れてあった、お守り代わりの黒い鳳蝶のキーホルダーを、携帯を持っている手と反対の手で握り締めもう一度走り始める。



 "間に合ってくれ"とひたすら願いながら。



「頼む、僕に気付いて・・・くれ・・・」



 徐々に僕の声が掠れていく、正直もう息を吸うのですらしんどい。肺に流れてくる空気が胸を圧迫するかのように僕の体を蝕んでいく。でも、もう彼女の背中は目の前。



 意識とは裏腹に携帯の画面をタップしてしまい、メールの送信ボタンを押してしまう。



 ぼんやりした意識から少し覚めると、車は僕の真横まで来ていた。僕は最後の力を振り絞り、みきちゃんの背中を抱き締める形で飛びつく。その瞬間僕の周りから、そして自分から出ている全ての音が無になっていくのを感じた。



 最後に見た彼女の顔が、笑顔ではなかったのが唯一の心残りだった。