お手洗いと言っていたけれど、遠藤さんは階段をのぼっていくところだった。どこに行くつもりだろう。わたしの足は遠藤さんを追いかける。負の感情を受けた身体は、無性に重かった。それでも一歩一歩を前に押し出す。
遠藤さんが入っていったのは、わたしたちの教室のちょうど真上にある空き教室。
わたしは息をひそめて、扉の陰から中をうかがった。教室の中は、遠藤さんから染み出した静かな感情で満たされていて、まるで深海にいるように息苦しかった。音もなく光もない。わたしは怖くなる。
この教室が怖い。遠藤さんが怖い。
それでも窓の外に見える空と海は、まぶしいほどに明るくて。そんな外の世界を前に、白いセーラー服を身にまとっているはずの遠藤さんの姿が、真っ黒な影に見えた。
《青い》
遠藤さんは、そっと窓の鍵を開ける。
《青い》
海からの潮風が、教室に吹き込む。
《青い》
潮風が、遠藤さんの短い髪を揺らす。
《つらい》
遠藤さんが、窓枠に足をかけた。
「――駄目っ!」
遠藤さんに飛びついて、その身体を羽交い絞めにする。
遠藤さんは、飛びついてきたのがだれなのか確認することもなかった。腕を闇雲にふりまわして暴れる。どうやっても、窓の外に行くのだという意志を持って。遠藤さんが窓枠をつかむ。わたしはその手首をつかんで、引きはがそうとする。
「待って、遠藤さん! お願い! 待って!」
いやだ、離して、と張り裂けそうな声がする。遠藤さんの爪が、わたしの目もとをかすった。ぴりっと痛みが走る。それでもわたしは、離さない。
「遠藤さん!」
《つらい、つらい、つらい、つらい》
ぷつりと風船が割れて、破裂するように。遠藤さんのためこんでいた感情が弾けた。
わたしはまともに正面から爆風を浴びた。息が苦しい。涙があふれる。手足がふるえる。どうしてこんなことになっているのか、と頭の中は混乱していた。それでも、遠藤さんを離さない。
「お願い! まって……!」
満足に声も出せない。荒い呼吸しかできない。短い息しかできない。一瞬身体がカッと熱くなる。でもすぐさま、氷のように冷えていく。視界がチカチカと明滅した。それでも、遠藤さんを離さない。離しちゃいけない。ここで離しちゃ駄目だ。
遠藤さんは獣のように暴れる。もう消えてなくなりたい、と叫びながら。わたしも必死に駄目、と叫びながら彼女を止める。だって、こんなの、駄目だよ。
「えんどう……、さん!」
「遠藤さん」
ふいに、静かに響く声がした。
ぐいと、羽交い絞めにしていたはずの遠藤さんの身体が、横から引っ張られる。遠藤さんは、目を見開いた。
「待って、遠藤さん」
その声に頭の中を支配されたのか、遠藤さんはぴたりと動きを止めた。一湊湊の声は、こんなときでも、驚くほどに静かだった。
教室には、わたしの荒い息の音がする。息って、どうするんだっけ。吸おうとして、咳き込んだ。胸が動き方を忘れている。気道をなにかがふさいでいる。息できない。
「のどか」
身体を折って床に座り込むわたしに、湊が言う。
「俺を見て」
ゆるゆると顔を上げた。湊の静寂をたたえた瞳に、わたしが映るのが見えた。なにもない。湊の瞳には、静けさ以外、なにもない。
「息吸って」
言われたとおりに、息を吸う。するりと、空気が気道を通っていく。
大丈夫。息、できる。
だんだんと落ち着いていく自分の呼吸音。
「平気?」
こくん、とうなずいた。
湊に捕まっている遠藤さんは、困惑した瞳でわたしを見ていた。
遠藤さんが入っていったのは、わたしたちの教室のちょうど真上にある空き教室。
わたしは息をひそめて、扉の陰から中をうかがった。教室の中は、遠藤さんから染み出した静かな感情で満たされていて、まるで深海にいるように息苦しかった。音もなく光もない。わたしは怖くなる。
この教室が怖い。遠藤さんが怖い。
それでも窓の外に見える空と海は、まぶしいほどに明るくて。そんな外の世界を前に、白いセーラー服を身にまとっているはずの遠藤さんの姿が、真っ黒な影に見えた。
《青い》
遠藤さんは、そっと窓の鍵を開ける。
《青い》
海からの潮風が、教室に吹き込む。
《青い》
潮風が、遠藤さんの短い髪を揺らす。
《つらい》
遠藤さんが、窓枠に足をかけた。
「――駄目っ!」
遠藤さんに飛びついて、その身体を羽交い絞めにする。
遠藤さんは、飛びついてきたのがだれなのか確認することもなかった。腕を闇雲にふりまわして暴れる。どうやっても、窓の外に行くのだという意志を持って。遠藤さんが窓枠をつかむ。わたしはその手首をつかんで、引きはがそうとする。
「待って、遠藤さん! お願い! 待って!」
いやだ、離して、と張り裂けそうな声がする。遠藤さんの爪が、わたしの目もとをかすった。ぴりっと痛みが走る。それでもわたしは、離さない。
「遠藤さん!」
《つらい、つらい、つらい、つらい》
ぷつりと風船が割れて、破裂するように。遠藤さんのためこんでいた感情が弾けた。
わたしはまともに正面から爆風を浴びた。息が苦しい。涙があふれる。手足がふるえる。どうしてこんなことになっているのか、と頭の中は混乱していた。それでも、遠藤さんを離さない。
「お願い! まって……!」
満足に声も出せない。荒い呼吸しかできない。短い息しかできない。一瞬身体がカッと熱くなる。でもすぐさま、氷のように冷えていく。視界がチカチカと明滅した。それでも、遠藤さんを離さない。離しちゃいけない。ここで離しちゃ駄目だ。
遠藤さんは獣のように暴れる。もう消えてなくなりたい、と叫びながら。わたしも必死に駄目、と叫びながら彼女を止める。だって、こんなの、駄目だよ。
「えんどう……、さん!」
「遠藤さん」
ふいに、静かに響く声がした。
ぐいと、羽交い絞めにしていたはずの遠藤さんの身体が、横から引っ張られる。遠藤さんは、目を見開いた。
「待って、遠藤さん」
その声に頭の中を支配されたのか、遠藤さんはぴたりと動きを止めた。一湊湊の声は、こんなときでも、驚くほどに静かだった。
教室には、わたしの荒い息の音がする。息って、どうするんだっけ。吸おうとして、咳き込んだ。胸が動き方を忘れている。気道をなにかがふさいでいる。息できない。
「のどか」
身体を折って床に座り込むわたしに、湊が言う。
「俺を見て」
ゆるゆると顔を上げた。湊の静寂をたたえた瞳に、わたしが映るのが見えた。なにもない。湊の瞳には、静けさ以外、なにもない。
「息吸って」
言われたとおりに、息を吸う。するりと、空気が気道を通っていく。
大丈夫。息、できる。
だんだんと落ち着いていく自分の呼吸音。
「平気?」
こくん、とうなずいた。
湊に捕まっている遠藤さんは、困惑した瞳でわたしを見ていた。