放課後、教室で宿題を終わらせるころには、夕陽の橙が海の色を染めていた。海は青いなんて、うそだ。時間ごとに、色は移り変わっていく。
スクールバッグを肩にかけて廊下に出たわたしは、偶然にも司書の草本先生と出会った。偶然にも……というか、もしかしたら先生は、わたしに会いに来たのかもしれない。
「どう? 昼休みのあと、遠藤さん、ちゃんと教室行けた?」
世間話をいくつかしたあと、先生はそう言ったのだ。
もしかして、先生、遠藤さんに相談でもされたのかな? だったら、わたしに話しかけるんじゃなくて、須川さんたちを怒ってくれればいいのに。そっちのほうが、ぜったい効率いいよ。
「大丈夫でしたよ」
「そっかあ。うんうん、それならいいの」
なにがいいのか、よくわからない。
わたしたちクラスメイトには、なにもできないよ、先生。上下関係の図は、きっちり描かれているんだから。どうやったって、わたしにはクラスの状況を変えられない。もし変えたいなら、その図の外にいる先生たちに、がんばってもらわないと。
わたしはただ、自分の平穏な生活を守ることしか、考えられないんだから。
わたしは、背中の後ろで手を組み合わせる。ぎゅっと、手の甲を爪でつねった。目の前の現実から、肌にじわりじわりと走る痛みに、意識をそらす。
「ねえ、三糸さん」
「はい」
一度力を抜いてから、すぐとなりの肌を狙って爪を立てる。それでも、顔には笑顔をはりつける。だってわたし、ちょっと優等生って立ち位置だし。先生に反抗的な態度なんて取れない。
「遠藤さんと、仲よくしてあげてね」
え、と口から声がこぼれた。
仲よく?
「あ、えっと……」
仲よくしてあげて、とか、まるで小学生みたい。もうわたしたち、高校生ですけど。だれと仲よくするかくらい、自分で決めさせてよ。だけど、わたしの口から自然とこぼれるのは、「はい」って返事だけ。しかも笑顔つき。
だって、仕方ないじゃん。「嫌です」なんて言ったら、余計な波風が立つ。わたしは、穏やかに生きていたいんだ。ここでは、そう答える選択肢しか存在しない。わたしは一礼して、その場から早歩きで逃げ出した。
心臓が、いつもより速く動いている。嫌だ嫌だ嫌だ。これじゃ、むかしと同じだ。わたしは、ひっそりと生きていたいのに。
靴箱からローファーを取り出して、投げる。力任せに足を突っ込んで履くと、玄関を抜けた。グラウンドから野球部の声がする。熱血、努力。そんな暑苦しい感情から逃げるように、中庭に進む。見つけた姿に、やっと、すこし息が落ち着いた。
わたしに気づいたのか、振り向いた湊はカメラを構えたまま、静かな瞳を向けてくる。白のカッターシャツは無垢で涼しげ、その色にわたしの心も染められていく。やっほ、と私は片手をあげた。
「なに撮ってるの?」
「花」
湊は、人差し指で地面を示す。コンクリートのすみっこに、もさもさした葉と、白い花が繫茂していた。けっこうどこにでも咲いている雑草だ。
「ドクダミって言うんだって」
「へえ」
湊は、カメラのシャッターを切る。彼は写真部だから。
わたしは帰宅部。だって、やりたい部活なかったし。美里は吹奏楽部だ。毎日忙しそうに音楽室に向かっていく。だから放課後は、わたしひとりになることが多い。今日はそれが災いした。まさか草本先生に捕まるなんて。
――湊も、どっちかといえば帰宅部っぽいのに。
やりたいこと、なさそうだし。だって湊の感情は、なにもわからない。その澄んだ瞳でなにを見て、どう考えているのか、わたしにはさっぱりわからないんだ。
「湊は、なんで写真部入ったんだっけ」
長いまつ毛で目もとに影を落としながら、湊はカメラを見つめる。
「朝香さんがカメラ持ってて。やってみたら、って言われたから」
「朝香さん? だれ?」
「ハハオヤ」
パシャっと、またシャッターを切る、気持ちのいい音。カメラはさっぱりだけど、シャッター音は、けっこう好きだったりする。
「あと、ひとを見てるのが好きだから、とかかな」
「へえ、意外。湊って、他人とかどうでもよさそうなのに」
「そうでもないよ」
地面から目線を上げて、湊は校舎を見る。窓越しに、一階の職員室を出入りする先生の姿があった。湊は何気ない仕草でカメラを向ける。
「うわ、盗撮?」
「まさか。撮らないよ。見てるだけ」
それのなにが楽しいんだか、わからない。湊は、そこそこ不思議くんだ。でもまあ、湊が楽しいなら、いいか。わたしは笑って、鞄から財布を取り出した。すぐ近くにある自動販売機で、炭酸飲料を買う。ごとん、と重たい音が鳴って落ちてくるペットボトル。ぷしゅっとふたを開けたときの音も、けっこう好き。
喉を突き刺しながら通り抜けていく炭酸に、肩の力が抜けた。
カシャッ。
「えっ」
あわてて見ると、湊はわたしにカメラを向けていた。せっかく喉とお腹がひんやり気持ちよくなったのに、かっと顔に熱がこもる。
「うそうそ、いま、撮った?」
「いい飲みっぷりだったから」
「ちょっと、盗撮しないって言ったじゃん」
「じゃあ許可ちょうだい」
湊は小さく首をかしげる。長めの前髪が、瞳にかかる。
「だめ?」
一湊湊は、顔がいい。ぐっと、わたしは言葉に詰まった。ずるい、それはずるい。
「あああー、あのさ、わたし撮るより、空とか撮ったら?」
ぐいっと人差し指を空に向ける。夕陽がまぶしいほどに光っていた。夜に呑み込まれる前の最期のあがきみたいに、必死に輝いている。写真の題材としては、もってこいな気がした。すくなくとも、わたしよりはいい題材だ。
「撮らない。俺、夕焼け嫌いだし」
「そうなの?」
「世界が燃えてるみたいで、嫌い」
なんだ、それ。わからないけど、とりあえず笑顔を浮かべておく。世の中、笑っていれば、たいてい悪いようにはならない。
「あー、まあ、学園祭も、放火魔のせいでなくなるかもだしね。燃やされるのはわたしも困るなあ」
「学園祭楽しみなんだ?」
「授業なくなるし。楽だなあと思うよ」
「へえ」
花を切り取るシャッター音がつづく。それ以降、会話はなかった。わたしは気にしないし、湊もたぶん気にしてない。
帰る前に、もう少しだけ、湊といっしょにいたかった。ただ、それだけだった。でもそんな小さな願いも、わたしには大それたものなのかもしれない。
「湊くん、そろそろ部室もどってー。あ、のどかちゃん」
手をふって歩いてくる女子生徒に、わたしはぺこっと頭を下げた。
「こんにちは。柊木先輩」
「こんにちは。お話中だった? ごめんね。でも部活解散だけさせて。全員そろってからじゃないと、できないから」
申し訳なさそうに眉を下げて言う柊木先輩は、つややかな黒髪の美人さんだ。白いセーラー服に黒髪がなびくさまは、わたしも見とれてしまうくらいに美しい。それに、先輩はやさしい。わたしが男だったら、絶対好きになるし告白してる。
「わたしのことはお気になさらず。ただの部外者なので」
「そう?」
「はい。あともう帰りますし」
「そっか。気をつけて帰ってね。かわいい子は、不審者に狙われちゃう」
本当に心配そうに言ってくれる先輩に苦笑した。美人にそんなこと言われても、自分がみじめに思えるだけだから、やめてほしい。
「だれもわたしのことなんて狙いませんって。先輩こそ、お気をつけください。って、湊いるから大丈夫かな」
ふふっと笑顔をつくって、それではと背を向ける。ちらりと振り返れば、ふたりが部室に向かっていくのが見えた。
――手をつなぐとかは……、ないか。
柊木先輩は三年生で、写真部の部長。そして、一湊湊の恋人。とても美人さんだから、湊に片思いしている女子たちも、口出しすることはできない。反対に、柊木先輩のことを好きな男子たちも、「湊なら仕方ない」と諦めるしかないのだから、あのふたりはある意味で最強の布陣だった。
柊木先輩といっしょにいると、《好き》って感情が流れ込んでくる。もちろん、湊に対しての。
だけど湊はといえば、やっぱり感情が読めない。
読めないけれど、本人から聞いた。べつに、柊木先輩のことが好きなわけじゃないって。でも嫌いでもない。告白されたから、つきあってる。それだけ……ということらしい。湊の感情が読めたなら、それが本心かどうかわかるんだろうけど――。
スクールバッグの持ち手をぎゅっと握る。まあ、彼の本心がどうであったとしても。
わたしはただのクラスメイトで、柊木先輩は恋人。その事実は変わらない。
スクールバッグを肩にかけて廊下に出たわたしは、偶然にも司書の草本先生と出会った。偶然にも……というか、もしかしたら先生は、わたしに会いに来たのかもしれない。
「どう? 昼休みのあと、遠藤さん、ちゃんと教室行けた?」
世間話をいくつかしたあと、先生はそう言ったのだ。
もしかして、先生、遠藤さんに相談でもされたのかな? だったら、わたしに話しかけるんじゃなくて、須川さんたちを怒ってくれればいいのに。そっちのほうが、ぜったい効率いいよ。
「大丈夫でしたよ」
「そっかあ。うんうん、それならいいの」
なにがいいのか、よくわからない。
わたしたちクラスメイトには、なにもできないよ、先生。上下関係の図は、きっちり描かれているんだから。どうやったって、わたしにはクラスの状況を変えられない。もし変えたいなら、その図の外にいる先生たちに、がんばってもらわないと。
わたしはただ、自分の平穏な生活を守ることしか、考えられないんだから。
わたしは、背中の後ろで手を組み合わせる。ぎゅっと、手の甲を爪でつねった。目の前の現実から、肌にじわりじわりと走る痛みに、意識をそらす。
「ねえ、三糸さん」
「はい」
一度力を抜いてから、すぐとなりの肌を狙って爪を立てる。それでも、顔には笑顔をはりつける。だってわたし、ちょっと優等生って立ち位置だし。先生に反抗的な態度なんて取れない。
「遠藤さんと、仲よくしてあげてね」
え、と口から声がこぼれた。
仲よく?
「あ、えっと……」
仲よくしてあげて、とか、まるで小学生みたい。もうわたしたち、高校生ですけど。だれと仲よくするかくらい、自分で決めさせてよ。だけど、わたしの口から自然とこぼれるのは、「はい」って返事だけ。しかも笑顔つき。
だって、仕方ないじゃん。「嫌です」なんて言ったら、余計な波風が立つ。わたしは、穏やかに生きていたいんだ。ここでは、そう答える選択肢しか存在しない。わたしは一礼して、その場から早歩きで逃げ出した。
心臓が、いつもより速く動いている。嫌だ嫌だ嫌だ。これじゃ、むかしと同じだ。わたしは、ひっそりと生きていたいのに。
靴箱からローファーを取り出して、投げる。力任せに足を突っ込んで履くと、玄関を抜けた。グラウンドから野球部の声がする。熱血、努力。そんな暑苦しい感情から逃げるように、中庭に進む。見つけた姿に、やっと、すこし息が落ち着いた。
わたしに気づいたのか、振り向いた湊はカメラを構えたまま、静かな瞳を向けてくる。白のカッターシャツは無垢で涼しげ、その色にわたしの心も染められていく。やっほ、と私は片手をあげた。
「なに撮ってるの?」
「花」
湊は、人差し指で地面を示す。コンクリートのすみっこに、もさもさした葉と、白い花が繫茂していた。けっこうどこにでも咲いている雑草だ。
「ドクダミって言うんだって」
「へえ」
湊は、カメラのシャッターを切る。彼は写真部だから。
わたしは帰宅部。だって、やりたい部活なかったし。美里は吹奏楽部だ。毎日忙しそうに音楽室に向かっていく。だから放課後は、わたしひとりになることが多い。今日はそれが災いした。まさか草本先生に捕まるなんて。
――湊も、どっちかといえば帰宅部っぽいのに。
やりたいこと、なさそうだし。だって湊の感情は、なにもわからない。その澄んだ瞳でなにを見て、どう考えているのか、わたしにはさっぱりわからないんだ。
「湊は、なんで写真部入ったんだっけ」
長いまつ毛で目もとに影を落としながら、湊はカメラを見つめる。
「朝香さんがカメラ持ってて。やってみたら、って言われたから」
「朝香さん? だれ?」
「ハハオヤ」
パシャっと、またシャッターを切る、気持ちのいい音。カメラはさっぱりだけど、シャッター音は、けっこう好きだったりする。
「あと、ひとを見てるのが好きだから、とかかな」
「へえ、意外。湊って、他人とかどうでもよさそうなのに」
「そうでもないよ」
地面から目線を上げて、湊は校舎を見る。窓越しに、一階の職員室を出入りする先生の姿があった。湊は何気ない仕草でカメラを向ける。
「うわ、盗撮?」
「まさか。撮らないよ。見てるだけ」
それのなにが楽しいんだか、わからない。湊は、そこそこ不思議くんだ。でもまあ、湊が楽しいなら、いいか。わたしは笑って、鞄から財布を取り出した。すぐ近くにある自動販売機で、炭酸飲料を買う。ごとん、と重たい音が鳴って落ちてくるペットボトル。ぷしゅっとふたを開けたときの音も、けっこう好き。
喉を突き刺しながら通り抜けていく炭酸に、肩の力が抜けた。
カシャッ。
「えっ」
あわてて見ると、湊はわたしにカメラを向けていた。せっかく喉とお腹がひんやり気持ちよくなったのに、かっと顔に熱がこもる。
「うそうそ、いま、撮った?」
「いい飲みっぷりだったから」
「ちょっと、盗撮しないって言ったじゃん」
「じゃあ許可ちょうだい」
湊は小さく首をかしげる。長めの前髪が、瞳にかかる。
「だめ?」
一湊湊は、顔がいい。ぐっと、わたしは言葉に詰まった。ずるい、それはずるい。
「あああー、あのさ、わたし撮るより、空とか撮ったら?」
ぐいっと人差し指を空に向ける。夕陽がまぶしいほどに光っていた。夜に呑み込まれる前の最期のあがきみたいに、必死に輝いている。写真の題材としては、もってこいな気がした。すくなくとも、わたしよりはいい題材だ。
「撮らない。俺、夕焼け嫌いだし」
「そうなの?」
「世界が燃えてるみたいで、嫌い」
なんだ、それ。わからないけど、とりあえず笑顔を浮かべておく。世の中、笑っていれば、たいてい悪いようにはならない。
「あー、まあ、学園祭も、放火魔のせいでなくなるかもだしね。燃やされるのはわたしも困るなあ」
「学園祭楽しみなんだ?」
「授業なくなるし。楽だなあと思うよ」
「へえ」
花を切り取るシャッター音がつづく。それ以降、会話はなかった。わたしは気にしないし、湊もたぶん気にしてない。
帰る前に、もう少しだけ、湊といっしょにいたかった。ただ、それだけだった。でもそんな小さな願いも、わたしには大それたものなのかもしれない。
「湊くん、そろそろ部室もどってー。あ、のどかちゃん」
手をふって歩いてくる女子生徒に、わたしはぺこっと頭を下げた。
「こんにちは。柊木先輩」
「こんにちは。お話中だった? ごめんね。でも部活解散だけさせて。全員そろってからじゃないと、できないから」
申し訳なさそうに眉を下げて言う柊木先輩は、つややかな黒髪の美人さんだ。白いセーラー服に黒髪がなびくさまは、わたしも見とれてしまうくらいに美しい。それに、先輩はやさしい。わたしが男だったら、絶対好きになるし告白してる。
「わたしのことはお気になさらず。ただの部外者なので」
「そう?」
「はい。あともう帰りますし」
「そっか。気をつけて帰ってね。かわいい子は、不審者に狙われちゃう」
本当に心配そうに言ってくれる先輩に苦笑した。美人にそんなこと言われても、自分がみじめに思えるだけだから、やめてほしい。
「だれもわたしのことなんて狙いませんって。先輩こそ、お気をつけください。って、湊いるから大丈夫かな」
ふふっと笑顔をつくって、それではと背を向ける。ちらりと振り返れば、ふたりが部室に向かっていくのが見えた。
――手をつなぐとかは……、ないか。
柊木先輩は三年生で、写真部の部長。そして、一湊湊の恋人。とても美人さんだから、湊に片思いしている女子たちも、口出しすることはできない。反対に、柊木先輩のことを好きな男子たちも、「湊なら仕方ない」と諦めるしかないのだから、あのふたりはある意味で最強の布陣だった。
柊木先輩といっしょにいると、《好き》って感情が流れ込んでくる。もちろん、湊に対しての。
だけど湊はといえば、やっぱり感情が読めない。
読めないけれど、本人から聞いた。べつに、柊木先輩のことが好きなわけじゃないって。でも嫌いでもない。告白されたから、つきあってる。それだけ……ということらしい。湊の感情が読めたなら、それが本心かどうかわかるんだろうけど――。
スクールバッグの持ち手をぎゅっと握る。まあ、彼の本心がどうであったとしても。
わたしはただのクラスメイトで、柊木先輩は恋人。その事実は変わらない。