願いの木の前で、湊が振り返る。玄関には珍しく、ひと通りはなく静かだった。

 彼はぺたりと、花をはりつけたところだった。ちょうど、わたしの願いのとなりあたり。美里たちが「となりは空けておこう」と笑ってつくったスペースは、しっかり確保されていたらしい。花は、湊の手で隠されて見えない。

「見ていい?」

 湊のとなりに並ぶと、湊は迷ったけれど、そっと手をどけた。


『わたしは、ここで生きていたい』


 きれいな字だった。癖はなくて、お手本みたいな字――。

 これって。

「いろいろ考えたけど、中二病みたいになったから、みんなにはないしょにして」

 湊は人差し指を、自分のくちびるに当てて首をかたむけた。

「なんで、『わたし』……?」
「身バレ防止。俺が書いたって、知られたくない」
「……そっか。ねえ、湊」
「ん?」
「見つかって、よかったね」

 まだまだ手探りだけど、湊はもう、自分を見失ったりしないだろう。助けてほしいと願っていた湊を、わたしも彼自身も、もう知っている。

「きっと叶うよ」

 微笑むと、湊がわたしに手を伸ばした。

「叶えるために、のどかも協力して」
「うん?」
「のどかがとなりにいないと、叶わないから」

 まだ、わたしと湊は、恋人じゃない。それなのに、こういうことを言ってくるんだから困る。わたしは苦笑して、湊の手を握った。湊はその手をぎゅっと握ってくる。

 わたしは湊のとなりで、彼の澄んだ瞳を見つめた。すこし長めの前髪がかかった、黒く、きれいな瞳。

 言葉にはしてくれない。だけど、わたしを見るその瞳の奥から伝わってくることがある。わたしの心を揺らす、その特別な感情が強くなっていることを、わたしは知っている。たぶん、この体質がなかったとしても、気づくことはできただろう。

 ――まあ、湊が言葉にするまで、わたしからは言ってあげないけど。

「よし、もどろっか。美里も彩も待ってる」
「ん」
「湊」
「ん?」

 指先に力を込めて。

「今日の文化祭」
「楽しいよ」

 わたしの言葉を聞くより先に、湊が言った。わたしの指を握って、湊は繰り返す。

「楽しい」

 わたしは、ぽかんと湊を見上げた。
 彼の言葉にも、伝わる感情にも、表情にも、泣きそうになった。
 目もとをぬぐって、「うん」と微笑む。

「わたしも、楽しいよ」

 日向にいるようなあたたかい感情に包まれて、わたしたちは歩き出す。


 楽しい――、と。そう言った湊は、たしかに、とてもきれいに。
 微笑んでいた。


(了)