柊木先輩が先生に訴えて、その先生が救急車を呼び、湊は海岸沿いの病院に運ばれた。わたしは先生といっしょに、病院につき添った。なにがあったのかと聞かれたけれど、うまい説明はできなくて、きっと先生を困らせたと思う。
病院はたくさんの《不安》に満ちていたけれど、それを吹き飛ばそうとするように医者や看護師の強い感情もあって、わたしはまぶたを閉じて暗くなる心を叱咤することができた。
くわしいことをわたしは知ることができなかったけれど、湊は手術室に閉じ込められていたし、やっと出てきたときには左手首に包帯を巻きつけて、首から三角巾で固定された姿で、わたしの前に現れた。二、三か月はそのままで、などと聞こえたから、決して軽い傷ではなかったのだろう。
「のどかと、話したいです」
顧問の先生がなにかを言うより先に、湊がそう言った。先生は困った顔をしたけれど、湊の表情になにも言えなかったようだ。黙ってうなずき、背を向けた。
わたしたちは待合室のすみの椅子に座った。もう夜だったから、ひっそりとした空気が漂っている。
「手、痛い?」
「いまは、麻酔利いてるから、そんなに。学校のみんなにも病院の先生にも、迷惑かけたな。悪いことした」
ほんとだよ、ばか。そう言いかけた言葉を止めた。そんな悪態よりも言わなきゃいけないことを口に出す。
「生きているなら、それでいいよ」
包帯の巻かれていないほうの湊の手が、探し物をするように小さく動いた。わたしは手を伸ばして、そこに重ねる。控えめな力で握られて、わたしはその三倍くらいの力で握り返した。
「調理室で」
湊がそよ風のような弱々しさで、つぶやく。
「先輩に、別れよう、って言われた」
「……そっか」
「母さんのこと、思い出した」
きゅっと指に力が込められたのがわかった。
「須川さんも、言ってた。二股だって。俺は父さんと同じことしてるんだなって思って、自分が怖くなって、気づいたら、あんなことになってた」
「二股なんて、してないじゃん。須川さんのいちゃもんなんて、気にするだけ無駄だよ」
「でも、先輩を悲しませたのは、事実だし。のどかが特別じゃなかった、とは、いえない……と思う」
あいまいだなあ。わたしが笑ってしまうと、湊は不安そうな顔をした。だから表情をやわらげる。ただただ、湊がこうしてとなりにいてくれることを、かみしめる。
「しんどかったね」
「……ん、そうなのかも」
わたしは、須川さんの顔色をうかがって。
湊は、母親の顔色をうかがって。
そうやって、自分の心を殺してしまっていた。それは、つらい。
指先から伝わるぬくもりに安堵する。生きているんだな、と実感する。
「俺は、のどかが俺を頼るから、そばにいなきゃいけないって思ってた」
「湊といると、楽だったからね、ありがとう。いま思うと、ぜんぜんよくないことだったんだけどさ」
湊の虚無に、救いを求めてしまっていた。そんなの、駄目だ。
でも湊は首をふった。
「頼ってくれるのは、うれしかった。俺でも、役に立てるんだって。まだ生きていても許されているような気がした」
「……そっかぁ」
「でも、途中から、変わったかも」
「途中?」
湊は目を細めて、記憶を辿っているらしい。すこししてから言った。
「遠藤さんのことを見捨てられなかったのどかは、強いなと思った。自分だって悩んでいるのに、必死に助けようとして。あのとき、遠藤さんがうらやましいと思った。のどかなら、俺のことも助けてくれるのかなって」
それは、つまり。
「湊、ずっと、助けてほしかったんじゃんか。ずっと、苦しかったんでしょ?」
「え」
湊は一瞬沈黙して、「ああ、そうだったのかも」とつぶやいた。心は、ずっとずっと、湊の中にあった。見ないふりをしていただけだ。わたしも、もっと早く、気づいてあげられればよかった。
「我慢するのは、しんどいね」
「そうかもしれない。たぶん……、しんどかった」
「うん。そうだね」
「外、もう暗い?」
湊が首をかしげる。病院に来てから、時間も経っている。とっくに日は暮れているはずだ。花火と星空撮影、さすがにこんな状況じゃ、できなかっただろうな。柊木先輩も泣いていたし……。
自分が「別れよう」と言ったことで、湊の枷が外れてあんなことが起きてしまったのだから、先輩が受けた衝撃は大きかっただろう。湊を止めたくても止められなくて、調理室を飛び出して助けを呼ぼうとしていたところに、わたしが出くわしたんだと思う。
わたしはスマホを取り出して、大丈夫でしたよ、と先輩にメッセージを送った。申し訳ないけれど、それ以上の長文を送る余力は、わたしにもなかった。
「夕焼けが、嫌いなんだ」
私の意識は、湊の言葉に引きもどされる。
病院はたくさんの《不安》に満ちていたけれど、それを吹き飛ばそうとするように医者や看護師の強い感情もあって、わたしはまぶたを閉じて暗くなる心を叱咤することができた。
くわしいことをわたしは知ることができなかったけれど、湊は手術室に閉じ込められていたし、やっと出てきたときには左手首に包帯を巻きつけて、首から三角巾で固定された姿で、わたしの前に現れた。二、三か月はそのままで、などと聞こえたから、決して軽い傷ではなかったのだろう。
「のどかと、話したいです」
顧問の先生がなにかを言うより先に、湊がそう言った。先生は困った顔をしたけれど、湊の表情になにも言えなかったようだ。黙ってうなずき、背を向けた。
わたしたちは待合室のすみの椅子に座った。もう夜だったから、ひっそりとした空気が漂っている。
「手、痛い?」
「いまは、麻酔利いてるから、そんなに。学校のみんなにも病院の先生にも、迷惑かけたな。悪いことした」
ほんとだよ、ばか。そう言いかけた言葉を止めた。そんな悪態よりも言わなきゃいけないことを口に出す。
「生きているなら、それでいいよ」
包帯の巻かれていないほうの湊の手が、探し物をするように小さく動いた。わたしは手を伸ばして、そこに重ねる。控えめな力で握られて、わたしはその三倍くらいの力で握り返した。
「調理室で」
湊がそよ風のような弱々しさで、つぶやく。
「先輩に、別れよう、って言われた」
「……そっか」
「母さんのこと、思い出した」
きゅっと指に力が込められたのがわかった。
「須川さんも、言ってた。二股だって。俺は父さんと同じことしてるんだなって思って、自分が怖くなって、気づいたら、あんなことになってた」
「二股なんて、してないじゃん。須川さんのいちゃもんなんて、気にするだけ無駄だよ」
「でも、先輩を悲しませたのは、事実だし。のどかが特別じゃなかった、とは、いえない……と思う」
あいまいだなあ。わたしが笑ってしまうと、湊は不安そうな顔をした。だから表情をやわらげる。ただただ、湊がこうしてとなりにいてくれることを、かみしめる。
「しんどかったね」
「……ん、そうなのかも」
わたしは、須川さんの顔色をうかがって。
湊は、母親の顔色をうかがって。
そうやって、自分の心を殺してしまっていた。それは、つらい。
指先から伝わるぬくもりに安堵する。生きているんだな、と実感する。
「俺は、のどかが俺を頼るから、そばにいなきゃいけないって思ってた」
「湊といると、楽だったからね、ありがとう。いま思うと、ぜんぜんよくないことだったんだけどさ」
湊の虚無に、救いを求めてしまっていた。そんなの、駄目だ。
でも湊は首をふった。
「頼ってくれるのは、うれしかった。俺でも、役に立てるんだって。まだ生きていても許されているような気がした」
「……そっかぁ」
「でも、途中から、変わったかも」
「途中?」
湊は目を細めて、記憶を辿っているらしい。すこししてから言った。
「遠藤さんのことを見捨てられなかったのどかは、強いなと思った。自分だって悩んでいるのに、必死に助けようとして。あのとき、遠藤さんがうらやましいと思った。のどかなら、俺のことも助けてくれるのかなって」
それは、つまり。
「湊、ずっと、助けてほしかったんじゃんか。ずっと、苦しかったんでしょ?」
「え」
湊は一瞬沈黙して、「ああ、そうだったのかも」とつぶやいた。心は、ずっとずっと、湊の中にあった。見ないふりをしていただけだ。わたしも、もっと早く、気づいてあげられればよかった。
「我慢するのは、しんどいね」
「そうかもしれない。たぶん……、しんどかった」
「うん。そうだね」
「外、もう暗い?」
湊が首をかしげる。病院に来てから、時間も経っている。とっくに日は暮れているはずだ。花火と星空撮影、さすがにこんな状況じゃ、できなかっただろうな。柊木先輩も泣いていたし……。
自分が「別れよう」と言ったことで、湊の枷が外れてあんなことが起きてしまったのだから、先輩が受けた衝撃は大きかっただろう。湊を止めたくても止められなくて、調理室を飛び出して助けを呼ぼうとしていたところに、わたしが出くわしたんだと思う。
わたしはスマホを取り出して、大丈夫でしたよ、と先輩にメッセージを送った。申し訳ないけれど、それ以上の長文を送る余力は、わたしにもなかった。
「夕焼けが、嫌いなんだ」
私の意識は、湊の言葉に引きもどされる。