気づいたとたん、わたしは立ち上がって、駆け出していた。夕陽の赤に急き立てられる。階段をのぼり、調理室まで走り、半開きになっていた扉を開けた。

 赤い。

 息を呑む。

 夕焼けに染まった教室は、本当に燃えているみたいだった。

「……湊?」

 湊の姿が、黒く浮かび上がっている。声をかけても、返事はない。彼はうつむいて、自分の手首を見つめていた。その手もまた、赤く染まっていた。

 夕焼けじゃない。血の色だった。

 そうわかったとたん、飛びかかるようにして、わたしは湊の右手をつかんでいた。握られていた包丁から、雫がしたたる。傷つけられた左手首からは、新しい血が流れ続けている。それでも彼はうつむいて、わたしを見ない。

「湊! 湊! ねえ、なにしてるの……っ!」

 わずかにあげられた目線が、わたしと交差した。

 瞬間、わたしの手から力が抜けた。

 口をおさえて、崩れ落ちる。心臓を突かれたみたいに、全身の活動が停止する。だけど狂ったように目からは涙があふれだした。

 暗い。重い。黒い。痛い。

 身体が張り裂けそうで、息ができない。絶望も、悲しさも、どろどろに溶けて、わたしを溺れさせようとする。嵐の海に放り出されたみたいな苦しさにあえぐ。

 それなのに、こんなに感情をぶつけてくるくせに、湊は虚ろな目で手首を見据えて、包丁を握り直す。手首に滑らせようとする彼の手に、わたしは抱きついた。

「やめて!」

 わたしの声は、彼に届いていないらしかった。彼の瞳は「いま」を見ていないから。

 燃えるような教室は、彼にとっては燃えてしまった、かつての家の中なのかもしれない。湊の心は、まだ過去にある。いっしょに死ぬことを押しつけた、母親の言葉の中にいる。死ななければ、とそんな思いにとらわれている。

 流れ込んでくる感情に押しつぶされそうで、わたしは必死に息を吸い込んで、それ以上の必死さで湊の腕にすがりつく。

「お願い、やめてよ!」

 過去にとらわれて、そのまま湊がもどってこない気がして。もう死んでしまっている母親に、湊を連れ去られてしまいそうで。怖かった。それだけは嫌だった。まぶたをぎゅっと閉じる。

 息をしろ。目を開けろ。感情に呑まれるな。

 わたしは、どうしたいの。自分に問いかけ、強く答える。

 湊を引き止めたい。

 息継ぎをするように大きく息を吸い込む。

「湊、湊! わたしを見て!」

 湊がいつも、わたしに言ってくれた言葉。つらいときに、助けてくれた言葉。こっちを見てくれない湊に、もっともっと大きく息を吸って、これ以上ないほどの声で叫ぶ。


「わたしを見て!」


 ゆっくりとまばたきをした湊の瞳。いまはじめて、わたしがいることに気づいたみたいに、彼の目がわずかに大きく見開かれた。のどか、とくちびるが動く。

「お願いだから、やめて。お願い」

 湊の腕を抱きしめる力を強める。彼はただ呆然とわたしを見つめていた。

「死んじゃ、だめだよ。お願い、死なないで」

 これほどの感情を浴びたことは、いままでなかった。わたしも死んでしまいそうなほど、胸が痛かった。こんなものをずっと胸の内に抱えていた湊が、どれだけつらかったのかわかる――いや、たぶん、わたしの想像以上につらかったんだと思う。

 湊、湊、と彼の名を呼び続ける。そうすることしか、できなかったから。

「……わからないんだ」

 やがて、湊が、小さな声でつぶやいた。かたん、とかすかな音がして、包丁が床に転がる。血を流しつづける左手が、だらんとさがった。

「母さんがいなくなって、どうすればいいか……、ずっと、わからなくて」

 ずるずると座り込んだわたしの背中に回された右手は、ふるえていた。

「ぜんぶ、母さんの言うとおりに生きてきたのに、なにが、駄目だったのかな。生きることを否定されて、それなのに、俺だけいまも生きてて、母さんの言うこと聞けなかった……」
「聞かなくていいよ、そんなの」
「でも、俺は、そうじゃないと、生きていけないから」

 ふるふると首をふったわたしに、湊がか細い息をする。

「どうすればいいのか……、俺に教えてよ。のどか」
「……それは、無理」

 ぎゅっと、服をつかまれたのがわかる。

 でも、わたしには無理なんだよ。

「それじゃ、いままでとなにも変わらないよ。湊」

 わたしから、湊に言えることなんて、なにもない。それは、わたしが言っちゃいけないんだ。湊が見つけないと、意味ないんだよ。

 ポケットからハンカチを探し出して、垂れ下がった湊の左手首に押し当てる。流れ出る血に、また泣きたくなって、必死にこらえて、指先に力を込めた。

「湊は、どうしたいの」
「わからない」

 耳もとで渇いた声がする。こんなになっても、たぶん、湊はまだ泣いていない。涙に濡れているのは、わたしのほうだった。

「湊のしたいこと、教えてよ」
「ない、よ、そんなの」
「小さいことでいいんだよ。たとえば……、ピーマン苦手だから、食べたくないな、とか。炭酸が飲みたいな、とか」

 湊は、まるで怪我なんてしていないようないつもの声で……ううん、いつもより弱い声で、いつもみたいに話そうとする。

「ピーマンは、食べれるし、炭酸は、のどかが選んだものだ。俺には、なにもない」

 湊の背中に空いている片腕を回して、抱きしめる。

「絶対あるよ、湊の心。……わたしもね、自分の心は殺しちゃったほうが楽だって思って、生きてた。みんなに合わせて、傷ついてる彩から目を逸らして、むかつく須川さんのご機嫌うかがって、いっしょにいたいのに美里と距離置いて。そうしないと生きていけないって思ってた。でもさ、嫌だった、そんなの。自分の心は大切にしてあげなきゃ、しんどいよ。わたしはあのとき、自分の心を無視していたときのほうが、いまよりずっと、つらかった」

 湊の首筋に顔をうずめる。大丈夫、まだあたたかい。生きてる。死なない限り、なんとかなるよ。死ななかったから、彩はいま、笑っていられるんだ。死んでいたら、あのとき、彩を止められなかったら、わたしは彩の笑顔を見ることがなかった。生きていてくれて、本当によかったって思う。

 だから死ぬことだけは、しないでほしい。わたしはまだ、湊といっしょにいたい。

 でもそれは、わたしの願いだから。湊もそう思ってくれないと、意味がないから。

 あふれてくる涙を知られないように、わたしは静かに泣いて、湊の肩を引っ張った。身体が離れて、体温が遠くなる。

「湊は、どうしたい?」