「海で先輩といたとき、なにか言われた?」
「え?」
「あれからのどか、笑えてる。午前中は、へんな顔ばっかりだった」
首をかしげたわたしは、ああ、と納得した。
柊木先輩と話して、すっきりしたのは事実だった。泣くって行為は、悲しいとか寂しいだとか、そういう感情を涙に変えて身体の外に出そうとする現象なんだろう。いっぱいいっぱいだった心から感情を流し出してしまえば、すこしだけ余裕ができる。
たしかに、いまのわたしは笑うことができているんだと思う。
「我慢しなくていいんだよ、って言われた」
「我慢」
「うん。……湊は、我慢してない?」
「してない」
うそ。
わたしはさっき先輩から紙皿に乗せられたお肉を、口に放り込む。じゃれるように近寄って来た一年生から、湊は嫌いなはずのピーマンを紙皿に乗せられたけど、とくに表情も変えずに食べてしまった。
――湊も、泣けるようになるといいのに。
彼が、静かな瞳のその奥に、渦巻く感情を抱いていることを知っている。でもいまは、それをなかったことにしてしまっている。我慢してばかりじゃ、もっとしんどくなるのに。
わたしの涙は、柊木先輩が引き出してくれた。それなら、湊の涙は、わたしが引き出してあげられるだろうか。そうしたい、と思った。
やり方は、まだわからない。どうすれば湊の心の深いところに触れられるのか、手段はひとつも浮かばない。それでも、これがわたしの望みだと思う。湊が泣いて、それから、笑えるようになるまで。いっしょにいたい。湊が自分の心を見つけられるように。
すこし離れたところで、柊木先輩の声がした。
「まだ食材って調理室に余ってるよね、足りなさそうだから取ってくる。湊くん、手伝ってもらっていいかな?」
手招きをする先輩に、はい、と湊はうなずいた。彼らの関係を知っているからか、ふたりきりにさせてあげようという意向らしく、ほかの部員は動かなかった。わたしも、黙って見送った。
きっと先輩は、いまからけじめをつけるんだろう。一度、関係を終わりにして。そこからまた、歩き出すために。彼女の感情がひりひりと、わたしの肌を焼いた。それでも先輩の表情は穏やかな仮面を被っているから、わたしも見て見ぬふりをするのが正しい選択だろう。
見上げた空は、燃えるような色をしていた。
――湊は、夕焼けが苦手なんだっけ。
世界が燃えているようで、嫌いだと言っていた。そう思い出して、いまさら気づく。彼が夕焼けを嫌いだと言った理由、その底にある意味に。わたしは空を見つめたまま、くちびるをかんだ。きっと湊は、いまもずっと、過去を生きている。
じわりじわりと、夕焼けが私の記憶を蘇らせていく。教室から逃げ出した湊、夏祭りから逃げ出した湊。そのとき感じた彼の感情。
湊は、もう限界なんじゃないだろうか。そう思うと怖くなる。
部員のひとりがつぶやいたのは、わたしが不安と戦いはじめて、しばらくしてからだった。
「柊木先輩たち、遅くない?」
「やめなって。ふたりの時間を満喫中なんでしょ」
くすくすっと笑う女の子たち。たしかに、すこし、遅い気がする。
「というか三糸先輩たちって、どういう関係なんです? 湊先輩とめっちゃ仲いいですよね? 三角関係?」
一年生たちが楽しそうにからかってくるから、わたしは苦笑で返した。それから紙皿を置いて、こっそりとその場を抜け出す。夕焼けは、いまが一番濃い色を落としていた。その赤黒さに、胸騒ぎがした。湊もこの空を見ているだろうか。
調理室にふたりはいるはずだ。夕焼けの赤は、廊下にも及んでいた。一瞬その赤さに驚いて足を止めてしまうほど。
――たしかに、世界が燃えてるみたい。
調理室は二階。わたしは無言で廊下を進む。しだいに早歩きになっているのは、無意識だった。そうして、階段へ曲がろうとしたときだ。わたしは衝撃を受けて、倒れ込んでしまった。なにが、と思って見ると、そこには柊木先輩が座り込んでいた。彼女とぶつかったんだと気づいて、あわてて謝ろうとする。そこで、先輩の様子がおかしいことを知った。
先輩の肩が小刻みにふるえているんだ。
《不安》《恐怖》《困惑》
いろいろな感情が混ざり合って、冷水のようにわたしに浴びせかけられた。どくんと心臓が強く打ち、胸をおさえる。それでも喉を鳴らして押し留め、どうにか言葉を押し出した。
「先輩? どうかしましたか」
「あ、のどかちゃ……、あの、わたし……」
先輩の瞳もふるえている。くちびるからこぼれだす言葉もまた、ふるえている。瞳から、涙があふれだした。
なにかあった。そう思わせるには、充分だった。
先輩が階段を指さす。階段の先にあるのは、調理室だ。
――湊に、なにかあった?
「え?」
「あれからのどか、笑えてる。午前中は、へんな顔ばっかりだった」
首をかしげたわたしは、ああ、と納得した。
柊木先輩と話して、すっきりしたのは事実だった。泣くって行為は、悲しいとか寂しいだとか、そういう感情を涙に変えて身体の外に出そうとする現象なんだろう。いっぱいいっぱいだった心から感情を流し出してしまえば、すこしだけ余裕ができる。
たしかに、いまのわたしは笑うことができているんだと思う。
「我慢しなくていいんだよ、って言われた」
「我慢」
「うん。……湊は、我慢してない?」
「してない」
うそ。
わたしはさっき先輩から紙皿に乗せられたお肉を、口に放り込む。じゃれるように近寄って来た一年生から、湊は嫌いなはずのピーマンを紙皿に乗せられたけど、とくに表情も変えずに食べてしまった。
――湊も、泣けるようになるといいのに。
彼が、静かな瞳のその奥に、渦巻く感情を抱いていることを知っている。でもいまは、それをなかったことにしてしまっている。我慢してばかりじゃ、もっとしんどくなるのに。
わたしの涙は、柊木先輩が引き出してくれた。それなら、湊の涙は、わたしが引き出してあげられるだろうか。そうしたい、と思った。
やり方は、まだわからない。どうすれば湊の心の深いところに触れられるのか、手段はひとつも浮かばない。それでも、これがわたしの望みだと思う。湊が泣いて、それから、笑えるようになるまで。いっしょにいたい。湊が自分の心を見つけられるように。
すこし離れたところで、柊木先輩の声がした。
「まだ食材って調理室に余ってるよね、足りなさそうだから取ってくる。湊くん、手伝ってもらっていいかな?」
手招きをする先輩に、はい、と湊はうなずいた。彼らの関係を知っているからか、ふたりきりにさせてあげようという意向らしく、ほかの部員は動かなかった。わたしも、黙って見送った。
きっと先輩は、いまからけじめをつけるんだろう。一度、関係を終わりにして。そこからまた、歩き出すために。彼女の感情がひりひりと、わたしの肌を焼いた。それでも先輩の表情は穏やかな仮面を被っているから、わたしも見て見ぬふりをするのが正しい選択だろう。
見上げた空は、燃えるような色をしていた。
――湊は、夕焼けが苦手なんだっけ。
世界が燃えているようで、嫌いだと言っていた。そう思い出して、いまさら気づく。彼が夕焼けを嫌いだと言った理由、その底にある意味に。わたしは空を見つめたまま、くちびるをかんだ。きっと湊は、いまもずっと、過去を生きている。
じわりじわりと、夕焼けが私の記憶を蘇らせていく。教室から逃げ出した湊、夏祭りから逃げ出した湊。そのとき感じた彼の感情。
湊は、もう限界なんじゃないだろうか。そう思うと怖くなる。
部員のひとりがつぶやいたのは、わたしが不安と戦いはじめて、しばらくしてからだった。
「柊木先輩たち、遅くない?」
「やめなって。ふたりの時間を満喫中なんでしょ」
くすくすっと笑う女の子たち。たしかに、すこし、遅い気がする。
「というか三糸先輩たちって、どういう関係なんです? 湊先輩とめっちゃ仲いいですよね? 三角関係?」
一年生たちが楽しそうにからかってくるから、わたしは苦笑で返した。それから紙皿を置いて、こっそりとその場を抜け出す。夕焼けは、いまが一番濃い色を落としていた。その赤黒さに、胸騒ぎがした。湊もこの空を見ているだろうか。
調理室にふたりはいるはずだ。夕焼けの赤は、廊下にも及んでいた。一瞬その赤さに驚いて足を止めてしまうほど。
――たしかに、世界が燃えてるみたい。
調理室は二階。わたしは無言で廊下を進む。しだいに早歩きになっているのは、無意識だった。そうして、階段へ曲がろうとしたときだ。わたしは衝撃を受けて、倒れ込んでしまった。なにが、と思って見ると、そこには柊木先輩が座り込んでいた。彼女とぶつかったんだと気づいて、あわてて謝ろうとする。そこで、先輩の様子がおかしいことを知った。
先輩の肩が小刻みにふるえているんだ。
《不安》《恐怖》《困惑》
いろいろな感情が混ざり合って、冷水のようにわたしに浴びせかけられた。どくんと心臓が強く打ち、胸をおさえる。それでも喉を鳴らして押し留め、どうにか言葉を押し出した。
「先輩? どうかしましたか」
「あ、のどかちゃ……、あの、わたし……」
先輩の瞳もふるえている。くちびるからこぼれだす言葉もまた、ふるえている。瞳から、涙があふれだした。
なにかあった。そう思わせるには、充分だった。
先輩が階段を指さす。階段の先にあるのは、調理室だ。
――湊に、なにかあった?