「俺の父さんは、俺が小一のときに、外に女のひとをつくったんだ。それが母さんにばれて、ケンカばっかりするようになって、けっきょく離婚して出ていった。そこからは母さんがひとりで、俺を育ててくれた」

 思い出すように、湊はわずかに目を閉じて、また開く。

「母さんは、世間からは厳しいって評価を受けそうなひとだったんだと思う。実際、朝香さんなんかはよくうちに来て、俺のことを心配してたし。もともとは、そんなひとじゃなかったと思うんだけど、父さんへの恨みつらみもあって、それを俺にぶつけてたんだと思う。母さんの言うことを聞かないと怒られるし、父さんの面影が俺にあると、あんなひとに似てはダメ、とか言われた」

 わたしは静かに息をしながら、その話を聞いていた。口を挟む余裕はない。

 湊の声は揺らがない。

「それが二年つづいた。でも母さん、けっきょく父さんのことを忘れられなかったみたいだ。立ち直ることもできなくて、最後は俺といっしょに死のうとした。家に火をつけて」

 火、放火。死のうと……、して。

 わたしはこくんと喉を湿らせる。死、という言葉がわたしの胸を引っかいた。話している湊より、わたしのほうが緊張しているみたいだった。

「でも暑くて、俺は家から、抜け出した。それで俺は助かったけど、母さんは駄目だった。そのあと俺は、朝香さんに引き取られた」

 わたしの頭の中で、ぐるぐると、いろいろなことが巡る。


 最近町に出没する放火魔。その犯人が湊だといううわさ。
 柊木先輩とわたしに二股をかけているという、言いがかり。
 心中騒ぎがあったという、須川さんの言葉。
 あのとき、あふれ出した、湊の感情。
 夏祭りで聞こえた、だれかの母親の大声。


 二股が原因でこじれた、湊の家族。
 家を燃やして心中しようとした、湊の厳しい母親。


「教室で、須川さんにむかしの話を持ち出されて、すこし驚いた。その騒ぎがあったのは前に住んでた町だったから、この町で知ってるひとがいるとは思わなかったんだ。それから夏祭りのときは、女のひとの声が母さんの声と重なって聞こえて、これもすこし驚いた」
「驚いた……」
「そう。最近むかしのことは忘れてたから、いろいろ思い出してきて、それでたまにはゆっくり想い出に浸ってもいいかと思って、家にいた。だから文化祭準備も部活も行かなかった」

 ただそれだけのことだ、と言いたげな、平坦な口調だった。だけど……、それだけ、なんてことないはずだ。

 だってたしかに、湊の感情があふれた瞬間があった。湊にとって、その過去は、軽いものじゃない。重くて暗くて、叫び出したい、死にたい、消えてしまいたい――そんな思いが、たしかに彼の中にあったはずなんだ。

 それなのに、いまこうして話をしてくれている湊から、なにも感じないのは、どうしてだろう。間違いなく、湊は過去に傷ついているのに。どうしてここまで静かな瞳で語ることができるのか、わたしにはわからない。

 どうして、全部の感情がなかったみたいに、振る舞っていられるの? 悲しいことにはふたをしたくて、心まで閉ざしてしまったってこと?

 ぎゅっと、手のひらに爪を立てる。

 わたしは、たぶん、泣きたかった。湊の抱えているものを知って、泣きたくなった。だけど湊が、それを許してくれなかった。湊から伝わる静かな感情が、わたしの心まで平らにならしてしまう。涙なんてひとしずくも出なかった。むしろ目が乾いているくらいだった。それでも、声を絞り出す。

「……湊は、嫌だったんだよね、怖かったんだよね、それを思い出すことが」
「嫌、なのかな」

 湊は首をかたむける。前髪が、さらりと瞳にかかった。

「ちがうの?」
「好きとか嫌いとか、よくわからない。俺は、ずっと母さんの言うとおりに生きてきただけだから」

 瞬間、ぞくり、と悪寒がした。ちがうのかもしれないと気づいてしまう。わたしの考えは間違いなのだ、と。

 心を閉ざしたのは、過去の傷を隠すためじゃなくて、もしかしたら湊は、いまもずっと、お母さんに縛られているんじゃないだろうか。

 湊の心は、母親の手の中にあって。湊自身では扱うことができないもので。だから、母親がいなくなったいま、彼は宙ぶらりんになってしまって、だれかに言われたとおりにしか生きていけなくなってしまった。

 だから、柊木先輩に言われるがままに、つきあって。
 朝香さんに言われるがままに、写真部に入って。
 わたしに望まれるがままに、そばにいて――……。

 叫び出したいくらいの悲しみも、自分では扱えなくて、なかったことにしてしまう。

「のどかは、俺にどうしてほしい?」

 湊の澄んだ、虚ろな瞳が、わたしを見つめる。

「のどかが望むこと、叶えるよ。俺にできることなら、文化祭の準備も部活も行くし。先輩と別れてほしいなら、そうする」
「なんで……、わたしなの。湊が学校に来たくないなら、べつにわたしがなんて言おうと、無理して来る必要ないよ。湊は湊の好きなように生きていいんだよ」
「好きも嫌いも、俺には、とくにないから」

 視線が重なって、わたしはなにも言えなくなる。

「のどかのことは嫌いじゃない。だから、のどかの望みなら叶える。それだけだ」

 わたしは、こくん、と喉を鳴らした。

「わたし、は――」

 わたしがこうして、と言えば、きっと湊はそのとおりに動く。嫌いじゃないと言ってくれたことは、うれしかった。自分のすべてを任せようと思ってくれているのなら、湊がわたしをそれに値するだけのひとだと思ってくれているのなら、頼ってくれるのなら、うれしいことではあった。

 だけど……、わたしはそんなこと望んでない。わたしは、湊を縛りたいわけじゃない。そんな責任、わたしは持てないし、持ちたくない。

 じっと彼の瞳を探る。

 せめて、湊の感情が読めたらいい。そうしたら、彼自身のしたいことを教えてあげられる。わたしの体質は、こういうときのためにあるように思えた。それなのに湊には、なにもないんだ。わたしには、湊の心はわからない。

 答えられない。

 願うことは、湊が自由になること。だけど、湊にその意思がない。

 うつむいて、握ったこぶしを見つめる。

「わたしには……、わかんないよ」

 湊は「そっか」とうなずいた。落胆なんてなかった。いつものように、なんでもない話をしているような態度は、余計にわたしの心を苛んだ。頼ってくれたのに、役に立てなかった? でもわたしに、どうしろっていうの。わからないよ。

「合宿にはちゃんと行くから。のどかもおいでよ」

 すこしだけ目を上げれば、彼は小さく首をかしげた。

「そういうの、参加したかったんでしょ?」

 そう。わたしは、青春というものを、彼といっしょに過ごしたかった。でもそれは、わたしだけの願いで、湊はひとかけらも思っていないんだ。ただ、わたしの願いを叶えようとしているだけで。わたしが求めているだけで。湊の心はない。

 きっとわたしは、泣いてしまいたかった。なのに、湊の前では泣けない。

 耳ざわりな冷房の稼働音を聞きながら、わたしは窓の外を見た。思ったとおり、この家からは海がよく見える。

 海は、今日も青かった。