心臓が止まるかと思った。否定することも、うなずくことも、視線を動かすこともできないわたしに、先輩は言う。

「ごめんね。わたし、邪魔だったよね」

 行儀よくそろえられていた先輩の足先が、わたしのとなりに並んだ。

「あの、先輩……?」

 困惑して、先輩を見る。先輩は空を仰いで、息を吸った。

「のどかちゃん、ちょっと話を聞いてもらいたいんだけど、いいかな?」
「え?」
「なんでそんな話をって思うかもしれないけど、いまね、話を聞いてほしくて。わたしもいろいろ考えてたんだけどね、もうなんだか、頭の中ごちゃごちゃして、だれかに聞いてほしくなっちゃった」

 駄目かな、と先輩がわたしを見る。わたしは困ってしまって、もう一度自分のつま先を見つめた。でも「駄目です」なんて言えるわけもなく。こくんとうなずき「どうぞ」と先輩の後押しまでしていた。

 ぴりぴりと静電気みたいに伝わってくる、先輩の《緊張》。それでも先輩は、声にやわらかさをつくり出す。

「ありがとう、のどかちゃん。まずね、安心してほしいな。わたしと湊くんは、恋人らしいことなんにもしてないの」
「……え?」
「名ばかりの恋人っていうのかな。好きだったのは、わたしだけ。恋人っていってるけど、ただのわたしの片思いだった」

 先輩の足がゆらゆらと揺れる。三年生なのに、ローファーはつま先までぴかぴかで、さすが先輩だな、とわたしは思った。

「つきあってほしいって言ったらね、先輩がそう望むなら、とか湊くんは言うの。わたしあのとき、湊くんはほかの女の子に告白されても、同じように返すんだろうなって思ったんだ。それで、だれかに取られちゃうくらいなら、って、つきあってもらうことにした」

 先輩の声はきれいで、耳に心地いい。だけど話していることは、心にちくりと痛い。

「いつか湊くんが好きになってくれるときまで、恋人らしいことはしなくていいよって、わたしが言ったの。だってなんだか、両思いじゃないのにそういうことするのって、寂しいしむかつくじゃない? お情けなんて必要ありませんって感じ。まあ、お情けでつきあってもらってるわたしが、なに言ってるんだって話なんだけど」

 はあ、とも、ふん、ともつかない、あいまいな相づちを打つ。わかるような気もしたし、わからないような気もした。

 先輩は、すこしの間口をつぐんだ。ぎゅっと先輩が自分の鞄を抱き寄せる。

「わたしは、ずっと待ってた。好きにさせてみせるぞ、って思ってた。だけどね、虚しくなってきちゃって。たぶん、湊くんは一生わたしのことをそういう目で見ないって、わかってきたんだよね。最近は、とくにそう思う」

 ふと心に浮かんだことが、そのまま口をついて出る。

「だから、別れたいって、思ったんですか?」

 ゆらゆら揺れていた先輩の足先が、ぴたりと止まる。

「それ、湊くんが言ってた?」

 図書室でのやり取りを思い出して、苦い思いが広がった。返事はしなかったけど、先輩は納得したらしい。また、ゆらゆらを再開させた。

「そっかあ。やっぱり湊くんにはばれてたか。……本当に、相手の望みを察する天才くんだよね」

 先輩が海に向けて手を組み、ぐーっと伸ばす。

「そう。このままつきあっていても仕方ないかなあって思った。だって、望みはゼロだなって気づいちゃったから。だからのどかちゃん、わたしに遠慮しなくていいよ」

 わたしは先輩を見つめた。笑ってる。だけど、彼女の本心はちがう、と伝わってくる。胸がきゅっとしめつけられた。

「先輩、まだ湊のこと好きなのに、いいんですか」

 湊に会うために、駅まで来ているのに。ずっと待っていたのに。

 笑顔だった先輩が、一瞬真顔になった。でもすぐに、くすっと笑う。

「好きになってもらえないんだもん。つきあってるのは、意味ないでしょ」

 でもそれは、わたしだって同じだ。きっと、湊に告白すれば、彼はいいよと言ってくれる。でもそこに、彼の心はない。

 ――どうしてだろう。

 わたしは、助けを求めるように先輩を見つめた。

「先輩は、むかし湊になにがあったのか、知っていますか?」

 ううん、と先輩は首をふる。

「湊くんは、自分の話をしてくれなかったから」

 わたしたちの間に、さあっと風が吹き抜ける。潮の匂いを含んだ風は、いつもなら心地いいのに、いまは濃厚な死臭にしか思えなかった。海からは絶えず、死の気配が運ばれてくる。先輩の泣き叫びたくなるような感情と相まって、胸がいっぱいになった。

 ふと、わたしの目がなにかをとらえた。

「あっ」

 勢いよく立ち上がると、先輩も視線を動かして、同じように「あ」とこぼす。

 駅の柵の向こうに、湊がいた。ずっと会えなかった、湊だった。こちらに気づかず歩いていく湊を、わたしと先輩の目が追いかける。たぶん、先輩もわたしも、お互いの出方を探っていた。先に動いたのは、柊木先輩だった。

「行っておいでよ、のどかちゃん」

 先輩が、そっとわたしの背を押した。

「わたしは、もう、ここから動けない」

 先輩は寂しそうに笑って、ひらひらと手をふる。

 わたしだって、動けないよ。足が重いんだもん。それでも、先輩の手で押されて、一歩を踏み出した。重い重い一歩を踏み出してしまえば、自然とつぎの足も動く。よろよろと数歩進んで、わたしは先輩を見た。先輩は微笑みとともにうなずく。

 湊の姿が道の先に消えてしまう。

 先輩の顔から、感情から、わたしは視線をはずして背を向けた。今度は自分の力で駆け出して、自動改札機に定期を叩きつける。

 ――わたしは、湊に会いたい。

 開かれた改札機を抜けて、わたしは走った。