夏祭りは海岸沿いの車道にいくつもテントが並び、ふだん車が通っている道をみんなが歩いて、思い思いの賑やかな時間を過ごしていた。すっかり陽が落ちて暗いはずなのに、提灯の明るさでまばゆく彩られている。潮騒も、今日ばかりはひとの声にかき消されていた。
「のどかー、なにから食べる? わたしはフランクフルト!」
「ベビーカステラ。彩はりんご飴だっけ?」
「うん」
浴衣で行こうかという話にもなったけど、けっきょくわたしたち娘三人衆は普段着で祭りに参加していた。ひと混みを歩くなら、こっちのほうが楽だろうという、かわいげのない理由だ。
わたしは振り向いて、後ろを歩く湊を見た。
「湊は? なに食べる?」
「……じゃあ、ベビーカステラ」
こちらも普段着の湊が、すこし迷ってから答えた。制服じゃない湊は新鮮だ。……そんなこと言ったら美里や彩だってそうなんだけど、こう湊は……ちょっと特別枠だから。
それぞれ目当ての品を買ってから合流することになり、わたしは湊といっしょにベビーカステラの屋台に並ぶ。
「祭りといえば、ベビーカステラなんだよね。わたし」
「そうなんだ。俺はあんまり、祭り自体来ないから」
そう言う湊は、わたしが「お祭りいっしょに行かない?」と誘ったら、とくになんの迷いもなく「わかった」とうなずいたのだった。図書室での柊木先輩とのやり取りはだれにも言っていないけれど、美里と彩は「湊来るんだ⁉」ととても驚いていた。それから、ちょっと不安げな顔になっていた。
彼女たちには、わたしと湊と柊木先輩の関係図が、よくわかっていないんだろう。でも大丈夫。わたしもよくわかっていない。
湊は、わたしのことも柊木先輩のことも、とくになんとも思っていない。柊木先輩は、まだ湊のことが好きなのに、どこか冷めた態度。
――もしかして先輩も、湊の心が自分に向いていないことを知ってしまったんだろうか。
わたしは、湊をじっと見つめた。今日こそは、彼の心を見ることができるのではないかと淡い期待を持って。だけど駄目だった。わたしに伝わってくるのは、祭りに来ているその他大勢の賑やかな感情だけ。
どっどっど、と心臓がリズムを刻むのは、その他大勢の感情を受けて、わたしまで妙に気分が上がってきているからだろう。これだけのひとに囲まれていたら、普段なら気持ち悪くなるところだけど、みんながみんな似たような明るい感情だから、そこまで脳に不可がかからなかった。ただただ、わたしを妙な空元気に誘うだけ。
屋台のおじちゃんからベビーカステラの入った鮮やかな紙袋を渡されて、袋のあたたかさに、なんとなく幸せな気分になる。
「楽しそうだね、のどか」
「うん。湊は楽しい?」
湊はすこし考えるような瞳をしてから、「ん」とうなずいた。でも《楽しい》の感情は、湊からは伝わってこない。本当に、そう思ってるのか、わからない。
美里と彩と合流して、わたしたちは歩き出す。ベビーカステラは、毎年変わらない甘さだ。どこの祭りに行こうと、どの屋台で買おうと、だいたい同じなつかしい味がする。残念ながら、そこまで繊細な味覚を持っていないから、屋台のちがいとかわからない。
それぞれ買ったものをひと口分け合いながら、わたしたちは提灯の明かりの下を練り歩く。湊もベビーカステラを食べながら、ついてくる。
金魚すくいやりたいけど、金魚持って帰っても仕方ないよね、だとか。射的の景品って、高校生にもなるとしょぼくてやる気にならないよね、だとか。冷やかしとしか思えないようなことをささやき合い、笑い合いながら、わたしたちは歩いた。そんなだから、ろくに屋台で遊ぶこともできていない。
だけどわたしは、なにも生み出さないその無駄な時間が愛おしくて、楽しかった。
「湊」
「ん?」
「楽しい?」
わたしはしつこく、そう訊いてしまう。湊はうなずいた。彼の感情はわからないけれど、楽しいなら、いいか――いいのかな。なんとなく、湊は楽しいとは思っていない、だけど退屈とも思っていない、そんな気がしてしまう。だからわたしは、そっと湊のとなりに並んだ。背の高い湊を見上げる。
「なに?」
湊の黒い瞳に、屋台の明かりが反射する。その光の奥の静けさを見つめながら、わたしは首をふる。
「なんでもない。……湊、寄りたい屋台あったら言ってよ? 言わなきゃ、美里主導の屋台巡りになっちゃう。あ、彩もけっこう先導してるけど」
美里はそうだろうなあと思っていたけど、彩もいっしょになって、わたしと湊を引っ張っていた。もともとは、わたしの気分転換のためのお出かけだったはずなんだけど、ふたりとも、もうそんなことは忘れているらしい。
いいんだけどね。ふたりが楽しければ。
近くにいるからか、美里と彩の《楽しい》は、ほかのだれよりも強く伝わってきて、笑えてくる。エンジョイしすぎ。
「いいよ、俺は、みんなについて行くから」
湊は静かに言う。わたしはちょっと、眉をひそめた。
そうして、すこし、油断していた。
「あ、こら! 待ちなさい!」
そんな女のひとの叫びが、ぱっと閃光のように駆け抜けた。
びくっと、思わず肩をふるわせる。だけど、なんてことはない。はしゃいで走って行こうとする子どもを、その母親が叱ったというだけの場面だった。ちょっとお母さんの声が大きかっただけで、ふつうの光景だ。びっくりしたー、と安堵する。ひとの大声って、けっこう耳に痛い。
美里も彩も驚いていたけれど、気を取り直して歩いて行こうとする。わたしもつづこうとした。だけど振り返る。
「湊?」
湊はじっとその場に立ち尽くしていた。彼の瞳が、さっき叫んでいた親子を見ている。わずかにいつもよりも大きく開かれた瞳で、見つめている。食い入るように、見つめている。声をかけても、こちらを見ない。まるで聞こえていない。まわりの喧騒のせいではないだろう。どうしたの。さすがにへんだ。
わたしは声を大きくして、呼んだ。
「湊!」
雷に打たれたように、湊が身体を跳ねさせた。わたしを見る、その瞳の奥。そこに見出した感情が、わたしに一瞬で迫った。
ぐっと刃物を喉もとに突きつけられたような《恐怖》。
「……ごめ、んなさい……」
そんな、小さな湊の声が、聞こえた気がした。
わたしは動けなくなった。指一本動かせず、呼吸もできず、身体を硬直させる。でもそれは、湊だって同じらしい。彼は微動だにせず立ち尽くしていた。かと思えば、くるりと背を向けた。彼が走り出す。
「え、ちょっと、なに? どうしたの?」
異変に気づいた美里があわてる。彩も「湊くん!」と呼び止める。だけど湊は振り返らない。そこにきて、ようやくわたしの硬直も解けた。だけど直後に、なにがなんだかわからないという困惑の硬直が訪れた。
三秒ほど、かかったと思う。
はっとして、名前を呼びながら、湊を追いかける。ただでさえひとの多いお祭り会場だ。わたしはひとにぶつかってしまって、まともに走ることはできなかった。それなのに、湊は驚くほど素早く駆けていく。
わけがわからない。なにがどうなってるの。困惑はしている。でもそれは頭のすみに追いやって、前に進む。必死に進もうとした。それでも、いつのまにか湊の姿を見失っていた。それどころか美里や彩ともはぐれてしまった。ひとりで不安顔をさらしているわたしを、まわりのひとが訝しむ。
そうだ、スマホ。
ポケットから出して、湊に電話をかけた。だけど、出ない。メッセージも送る。既読はつかない。よくわからない。だけど、ただごとではないだろう、とそれだけはわかる。
「湊……」
まわりを見渡すけど、湊の姿はない。それどころか、大勢のひとの感情に、わたしの不安が圧し潰されてしまいそうで、今度ばかりは気持ち悪くなってきた。ひとの波から離れてうずくまる。
スマホがふるえて、もしかしたら湊かな、と思ったけれど、それは彩からだった。心配してくれた彩たちとなんとか合流して、行方知れずの湊を探しはじめる。あいかわらず、湊に送ったメッセージの既読はついていない。
そうして、そのまま、湊は見つからなかった。
「のどかー、なにから食べる? わたしはフランクフルト!」
「ベビーカステラ。彩はりんご飴だっけ?」
「うん」
浴衣で行こうかという話にもなったけど、けっきょくわたしたち娘三人衆は普段着で祭りに参加していた。ひと混みを歩くなら、こっちのほうが楽だろうという、かわいげのない理由だ。
わたしは振り向いて、後ろを歩く湊を見た。
「湊は? なに食べる?」
「……じゃあ、ベビーカステラ」
こちらも普段着の湊が、すこし迷ってから答えた。制服じゃない湊は新鮮だ。……そんなこと言ったら美里や彩だってそうなんだけど、こう湊は……ちょっと特別枠だから。
それぞれ目当ての品を買ってから合流することになり、わたしは湊といっしょにベビーカステラの屋台に並ぶ。
「祭りといえば、ベビーカステラなんだよね。わたし」
「そうなんだ。俺はあんまり、祭り自体来ないから」
そう言う湊は、わたしが「お祭りいっしょに行かない?」と誘ったら、とくになんの迷いもなく「わかった」とうなずいたのだった。図書室での柊木先輩とのやり取りはだれにも言っていないけれど、美里と彩は「湊来るんだ⁉」ととても驚いていた。それから、ちょっと不安げな顔になっていた。
彼女たちには、わたしと湊と柊木先輩の関係図が、よくわかっていないんだろう。でも大丈夫。わたしもよくわかっていない。
湊は、わたしのことも柊木先輩のことも、とくになんとも思っていない。柊木先輩は、まだ湊のことが好きなのに、どこか冷めた態度。
――もしかして先輩も、湊の心が自分に向いていないことを知ってしまったんだろうか。
わたしは、湊をじっと見つめた。今日こそは、彼の心を見ることができるのではないかと淡い期待を持って。だけど駄目だった。わたしに伝わってくるのは、祭りに来ているその他大勢の賑やかな感情だけ。
どっどっど、と心臓がリズムを刻むのは、その他大勢の感情を受けて、わたしまで妙に気分が上がってきているからだろう。これだけのひとに囲まれていたら、普段なら気持ち悪くなるところだけど、みんながみんな似たような明るい感情だから、そこまで脳に不可がかからなかった。ただただ、わたしを妙な空元気に誘うだけ。
屋台のおじちゃんからベビーカステラの入った鮮やかな紙袋を渡されて、袋のあたたかさに、なんとなく幸せな気分になる。
「楽しそうだね、のどか」
「うん。湊は楽しい?」
湊はすこし考えるような瞳をしてから、「ん」とうなずいた。でも《楽しい》の感情は、湊からは伝わってこない。本当に、そう思ってるのか、わからない。
美里と彩と合流して、わたしたちは歩き出す。ベビーカステラは、毎年変わらない甘さだ。どこの祭りに行こうと、どの屋台で買おうと、だいたい同じなつかしい味がする。残念ながら、そこまで繊細な味覚を持っていないから、屋台のちがいとかわからない。
それぞれ買ったものをひと口分け合いながら、わたしたちは提灯の明かりの下を練り歩く。湊もベビーカステラを食べながら、ついてくる。
金魚すくいやりたいけど、金魚持って帰っても仕方ないよね、だとか。射的の景品って、高校生にもなるとしょぼくてやる気にならないよね、だとか。冷やかしとしか思えないようなことをささやき合い、笑い合いながら、わたしたちは歩いた。そんなだから、ろくに屋台で遊ぶこともできていない。
だけどわたしは、なにも生み出さないその無駄な時間が愛おしくて、楽しかった。
「湊」
「ん?」
「楽しい?」
わたしはしつこく、そう訊いてしまう。湊はうなずいた。彼の感情はわからないけれど、楽しいなら、いいか――いいのかな。なんとなく、湊は楽しいとは思っていない、だけど退屈とも思っていない、そんな気がしてしまう。だからわたしは、そっと湊のとなりに並んだ。背の高い湊を見上げる。
「なに?」
湊の黒い瞳に、屋台の明かりが反射する。その光の奥の静けさを見つめながら、わたしは首をふる。
「なんでもない。……湊、寄りたい屋台あったら言ってよ? 言わなきゃ、美里主導の屋台巡りになっちゃう。あ、彩もけっこう先導してるけど」
美里はそうだろうなあと思っていたけど、彩もいっしょになって、わたしと湊を引っ張っていた。もともとは、わたしの気分転換のためのお出かけだったはずなんだけど、ふたりとも、もうそんなことは忘れているらしい。
いいんだけどね。ふたりが楽しければ。
近くにいるからか、美里と彩の《楽しい》は、ほかのだれよりも強く伝わってきて、笑えてくる。エンジョイしすぎ。
「いいよ、俺は、みんなについて行くから」
湊は静かに言う。わたしはちょっと、眉をひそめた。
そうして、すこし、油断していた。
「あ、こら! 待ちなさい!」
そんな女のひとの叫びが、ぱっと閃光のように駆け抜けた。
びくっと、思わず肩をふるわせる。だけど、なんてことはない。はしゃいで走って行こうとする子どもを、その母親が叱ったというだけの場面だった。ちょっとお母さんの声が大きかっただけで、ふつうの光景だ。びっくりしたー、と安堵する。ひとの大声って、けっこう耳に痛い。
美里も彩も驚いていたけれど、気を取り直して歩いて行こうとする。わたしもつづこうとした。だけど振り返る。
「湊?」
湊はじっとその場に立ち尽くしていた。彼の瞳が、さっき叫んでいた親子を見ている。わずかにいつもよりも大きく開かれた瞳で、見つめている。食い入るように、見つめている。声をかけても、こちらを見ない。まるで聞こえていない。まわりの喧騒のせいではないだろう。どうしたの。さすがにへんだ。
わたしは声を大きくして、呼んだ。
「湊!」
雷に打たれたように、湊が身体を跳ねさせた。わたしを見る、その瞳の奥。そこに見出した感情が、わたしに一瞬で迫った。
ぐっと刃物を喉もとに突きつけられたような《恐怖》。
「……ごめ、んなさい……」
そんな、小さな湊の声が、聞こえた気がした。
わたしは動けなくなった。指一本動かせず、呼吸もできず、身体を硬直させる。でもそれは、湊だって同じらしい。彼は微動だにせず立ち尽くしていた。かと思えば、くるりと背を向けた。彼が走り出す。
「え、ちょっと、なに? どうしたの?」
異変に気づいた美里があわてる。彩も「湊くん!」と呼び止める。だけど湊は振り返らない。そこにきて、ようやくわたしの硬直も解けた。だけど直後に、なにがなんだかわからないという困惑の硬直が訪れた。
三秒ほど、かかったと思う。
はっとして、名前を呼びながら、湊を追いかける。ただでさえひとの多いお祭り会場だ。わたしはひとにぶつかってしまって、まともに走ることはできなかった。それなのに、湊は驚くほど素早く駆けていく。
わけがわからない。なにがどうなってるの。困惑はしている。でもそれは頭のすみに追いやって、前に進む。必死に進もうとした。それでも、いつのまにか湊の姿を見失っていた。それどころか美里や彩ともはぐれてしまった。ひとりで不安顔をさらしているわたしを、まわりのひとが訝しむ。
そうだ、スマホ。
ポケットから出して、湊に電話をかけた。だけど、出ない。メッセージも送る。既読はつかない。よくわからない。だけど、ただごとではないだろう、とそれだけはわかる。
「湊……」
まわりを見渡すけど、湊の姿はない。それどころか、大勢のひとの感情に、わたしの不安が圧し潰されてしまいそうで、今度ばかりは気持ち悪くなってきた。ひとの波から離れてうずくまる。
スマホがふるえて、もしかしたら湊かな、と思ったけれど、それは彩からだった。心配してくれた彩たちとなんとか合流して、行方知れずの湊を探しはじめる。あいかわらず、湊に送ったメッセージの既読はついていない。
そうして、そのまま、湊は見つからなかった。