図書室を飛び出したわたしは、中庭に向かっていた。自然と中庭に足が向いてしまうのは、湊がよくここにいたからだ。助けてほしいときは、湊にすがってしまう。もう癖になっていた。
でもその湊が、いまこの瞬間、よくわからなくて怖い。
なんの感情も意思もない。深淵をのぞいてしまったような恐怖を、わたしはついさっき感じたばかりだった。生きていて、感情がないひとなんて、いるんだろうか。
それに、わたしが望むからいっしょにいただけ、なんて……。そんなの、わたしの一方通行の思いでしかなかったのかな。湊は、わたしのことなんてどうでもよかったってこと? いっしょにいて楽しいって思っていたのは、わたしだけだった? わたしが望まなくなれば、すぐ離れてしまうくらいの、そんな関係だった?
どうして。なにが起きているの。
「あれー、三糸さんじゃん」
びくっと肩がふるえて、わたしは立ち止まった。
最悪だ。
そこには、須川さんたちがいた。
「どしたの? 気持ち悪い? 熱中症?」
案じるような言葉とは裏腹に、彼女たちには《悪意》がある。わたしの手足を絡めとって喰らおうとする彼女たちから離れたくて、後ずさった。
須川さんが眉をひそめた。
「えー、まじ、どうしちゃったわけ?」
「ごめ……、あの、いまはちょっと……」
お願い、近寄らないで。
一歩一歩、後ろにさがる。その足が、とん、と段差にぶつかって、わたしはその場に崩れ落ちた。
「ちょっとー、大丈夫? 三糸さんって、けっこうどんくさい系?」
くすっと笑いを含ませながら、須川さんが歩み寄ってくる。でも、その足音が止まった。彼女の動きを止めたのは、わたしの呼吸音だった。乱れはじめた呼吸音。
息を吸おうとするのに、身体が言うことをきかない。やっと吸えたと思っても、わずかな酸素しか取り込めずに、でも息をつくことすらできない。
「え、三糸さん? ねえ、大丈夫なの?」
さすがの彼女も、困惑した顔をする。近づいて来ようとする気配に、わたしは叫んだ。
「来ないで!」
その声は、おもいのほか大きく中庭に響いて、わたし自身驚いた。
「……はあ? なに、心配してんのに」
須川さんの困惑や不愉快の感情が大きくなって、わたしをなぶる。どくん、と心臓が跳ねる。胸を押さえて、必死に身体に命令を出す。落ち着いて。息をして。お願い……。でも身体はちっとも応じてくれない。空気にアレルギー反応でも起こしているみたいだ。呼吸ひとつすることすら拒んでいる。どうしよう。どうしたらいい?
「のどか……? のどか、どうしたの!」
美里の声がした。あわてて駆け寄ってくるような気配。伸ばされる手。でもわたしにとってそれは、わたしを脅かすものでしかなくて、反射的に美里の手を払いのけてしまった。
《心配》《怪訝》《驚愕》《不気味》《不快》
感情がうねって叩きつけてくる。冷や汗が噴き出した。
お願い。いまは、ひとりにして。お願い。
頭を抱えて、爪を立てる。肌に食い込む鈍い感覚がする。そのとき、わたしの手が、ぐいと引かれた。
湊だ。
わたしはすぐさまうつむこうとする。いまの湊は見たくない。でもそれは、湊が許さない。彼は、わたしの頬を両手で挟んで、わたしに上を向かせた。いやいやと首をふるわたしの耳に、湊の声がすっと飛び込む。
「俺を見て」
見たくはないのに、抗えずに、わたしは湊の瞳を見てしまう。
以前までなら、静かできれいだと言えた瞳。でもいまは、虚無としか思えない。それでも、わたしの呼吸は次第に落ち着きを取りもどしていた。うるさいほどの感情が抜き取られていったから。最後には、わたしの心にぽっかりと穴があいたような虚脱が襲ってくるだけになった。
わたしは地面にへたりこんだまま、呆然と息をする。
須川さんたちは、不気味なものを見る目でわたしを一瞥して、去っていった。
「の、のどか……?」
すこし離れた場所では、彩に腕をつかまれた美里が、立ちすくんでいた。
美里には、わたしの体質のことを話していない。わたしのことを知っている彩が、いまは近寄らないほうがいいと判断して、美里をわたしから遠ざけてくれたんだろう。
わたしはぽつりとつぶやく。
「美里、ごめん」
「それはいいんだけど、大丈夫なの?」
彼女がにじませているのは《不安》。拒んでしまったことを不快には思われていないようで、ほっとした。平気だよ、とどうにか笑顔をつくる。
わたしは湊を見ることなく、立ち上がった。
「わたし、もう帰るね。ちょっと夏バテかも」
「え、休んでからのほうがよくない?」
「ううん。さっさと家帰って寝ちゃうから」
「じゃ、じゃあ、家まで送る。鞄取ってくるから、ちょっと待って!」
「平気だって。ありがと。気持ちだけもらっておくね」
それでも心配してくれる美里に手をふって、わたしは校門まで小走りで駆け抜けた。湊と彩は、ひとりにしたほうがいいと察したのか、なにも言わずに見送ってくれた。
そうだ。いま、わたしは、ひとりになりたい。
イヤホンをつけて、音楽を大音量で流す。ひと通りのすくない道を選んで、駅まで無心で足を動かす。だれの感情にも触れていたくない。そっとしておいてほしい。お願いだから。
心を落ち着ける時間をちょうだい。
ただ、それだけを願った。
でも世界は、わたしに冷たい。
つぎの日の、文化祭の準備がはじまろうとする、すこし前のことだった。みんなが教室に集まりだす時間のこと。
クラス全員が参加しているメッセージアプリのグループに、写真が一枚送られた。
『三糸さんと湊くん、つきあってたの?』
文面からは、いつもみたいに感情を読むことはできない。だけどわかる。よくわかる。
ちょうど教室の扉を開けようとしたわたしの手が、動かなくなった。
でもその湊が、いまこの瞬間、よくわからなくて怖い。
なんの感情も意思もない。深淵をのぞいてしまったような恐怖を、わたしはついさっき感じたばかりだった。生きていて、感情がないひとなんて、いるんだろうか。
それに、わたしが望むからいっしょにいただけ、なんて……。そんなの、わたしの一方通行の思いでしかなかったのかな。湊は、わたしのことなんてどうでもよかったってこと? いっしょにいて楽しいって思っていたのは、わたしだけだった? わたしが望まなくなれば、すぐ離れてしまうくらいの、そんな関係だった?
どうして。なにが起きているの。
「あれー、三糸さんじゃん」
びくっと肩がふるえて、わたしは立ち止まった。
最悪だ。
そこには、須川さんたちがいた。
「どしたの? 気持ち悪い? 熱中症?」
案じるような言葉とは裏腹に、彼女たちには《悪意》がある。わたしの手足を絡めとって喰らおうとする彼女たちから離れたくて、後ずさった。
須川さんが眉をひそめた。
「えー、まじ、どうしちゃったわけ?」
「ごめ……、あの、いまはちょっと……」
お願い、近寄らないで。
一歩一歩、後ろにさがる。その足が、とん、と段差にぶつかって、わたしはその場に崩れ落ちた。
「ちょっとー、大丈夫? 三糸さんって、けっこうどんくさい系?」
くすっと笑いを含ませながら、須川さんが歩み寄ってくる。でも、その足音が止まった。彼女の動きを止めたのは、わたしの呼吸音だった。乱れはじめた呼吸音。
息を吸おうとするのに、身体が言うことをきかない。やっと吸えたと思っても、わずかな酸素しか取り込めずに、でも息をつくことすらできない。
「え、三糸さん? ねえ、大丈夫なの?」
さすがの彼女も、困惑した顔をする。近づいて来ようとする気配に、わたしは叫んだ。
「来ないで!」
その声は、おもいのほか大きく中庭に響いて、わたし自身驚いた。
「……はあ? なに、心配してんのに」
須川さんの困惑や不愉快の感情が大きくなって、わたしをなぶる。どくん、と心臓が跳ねる。胸を押さえて、必死に身体に命令を出す。落ち着いて。息をして。お願い……。でも身体はちっとも応じてくれない。空気にアレルギー反応でも起こしているみたいだ。呼吸ひとつすることすら拒んでいる。どうしよう。どうしたらいい?
「のどか……? のどか、どうしたの!」
美里の声がした。あわてて駆け寄ってくるような気配。伸ばされる手。でもわたしにとってそれは、わたしを脅かすものでしかなくて、反射的に美里の手を払いのけてしまった。
《心配》《怪訝》《驚愕》《不気味》《不快》
感情がうねって叩きつけてくる。冷や汗が噴き出した。
お願い。いまは、ひとりにして。お願い。
頭を抱えて、爪を立てる。肌に食い込む鈍い感覚がする。そのとき、わたしの手が、ぐいと引かれた。
湊だ。
わたしはすぐさまうつむこうとする。いまの湊は見たくない。でもそれは、湊が許さない。彼は、わたしの頬を両手で挟んで、わたしに上を向かせた。いやいやと首をふるわたしの耳に、湊の声がすっと飛び込む。
「俺を見て」
見たくはないのに、抗えずに、わたしは湊の瞳を見てしまう。
以前までなら、静かできれいだと言えた瞳。でもいまは、虚無としか思えない。それでも、わたしの呼吸は次第に落ち着きを取りもどしていた。うるさいほどの感情が抜き取られていったから。最後には、わたしの心にぽっかりと穴があいたような虚脱が襲ってくるだけになった。
わたしは地面にへたりこんだまま、呆然と息をする。
須川さんたちは、不気味なものを見る目でわたしを一瞥して、去っていった。
「の、のどか……?」
すこし離れた場所では、彩に腕をつかまれた美里が、立ちすくんでいた。
美里には、わたしの体質のことを話していない。わたしのことを知っている彩が、いまは近寄らないほうがいいと判断して、美里をわたしから遠ざけてくれたんだろう。
わたしはぽつりとつぶやく。
「美里、ごめん」
「それはいいんだけど、大丈夫なの?」
彼女がにじませているのは《不安》。拒んでしまったことを不快には思われていないようで、ほっとした。平気だよ、とどうにか笑顔をつくる。
わたしは湊を見ることなく、立ち上がった。
「わたし、もう帰るね。ちょっと夏バテかも」
「え、休んでからのほうがよくない?」
「ううん。さっさと家帰って寝ちゃうから」
「じゃ、じゃあ、家まで送る。鞄取ってくるから、ちょっと待って!」
「平気だって。ありがと。気持ちだけもらっておくね」
それでも心配してくれる美里に手をふって、わたしは校門まで小走りで駆け抜けた。湊と彩は、ひとりにしたほうがいいと察したのか、なにも言わずに見送ってくれた。
そうだ。いま、わたしは、ひとりになりたい。
イヤホンをつけて、音楽を大音量で流す。ひと通りのすくない道を選んで、駅まで無心で足を動かす。だれの感情にも触れていたくない。そっとしておいてほしい。お願いだから。
心を落ち着ける時間をちょうだい。
ただ、それだけを願った。
でも世界は、わたしに冷たい。
つぎの日の、文化祭の準備がはじまろうとする、すこし前のことだった。みんなが教室に集まりだす時間のこと。
クラス全員が参加しているメッセージアプリのグループに、写真が一枚送られた。
『三糸さんと湊くん、つきあってたの?』
文面からは、いつもみたいに感情を読むことはできない。だけどわかる。よくわかる。
ちょうど教室の扉を開けようとしたわたしの手が、動かなくなった。