「のどか」

 呼ばれて、わたしは海を見つめたまま、のんきに聞こえるような返事を、必死の思いで返す。

「んー?」

 波の音を聴こうとしていたわたしの耳に、するりとすべり込む、湊の声。

「別れたほうがいい? 先輩と」

 わたしは、なにを言われたのか理解するまでに数秒必要だった。ゆっくりと、首をもとの位置に戻す。そんな動作にすら、数秒かかったような気がする。

「え?」
「のどかが言うなら、別れるけど」

 別れるって……、柊木先輩と? わたしが言うなら? なに、それ。

 一瞬、甘い考えがよぎる。わたしのために、そう言ってくれているのか、と。

 ――でも、たぶん、ちがう。そうじゃない。

 なぜだか、わたしの胸には不安が押し寄せていた。なぜなのかは、わからない。だけどこれは、あまりよくないことだと思えた。一度ぐっとくちびるをかんでから、不安の理由を探るためにも口を開く。

「湊は……、わたしが望むから、別れるの?」
「ん。まあ、あとは、先輩もそう思ってそうだし」

 先輩が? あんなに湊のことを好きだと思ってるのに?

 顔をしかめたわたしに、湊はいつもと同じ顔で、なんでもないように言う。

「別れたほうがいいのかも、って先輩、最近考えてるみたいだから」
「みたいって……、そう言われたわけじゃないんだよね?」
「そう。俺がそう思っただけ。でも俺、そういうのよく当たるから」

 ――湊くんは、相手がしてほしいことしか提案しないの。

 先輩の言葉を思い出した。湊は、わたしたちの望むことをしてくれる。そうだとしたら、先輩は本当にそう思っているの? なんで?

 問いが頭の中をぐるぐると回る。

 ていうか、待ってよ。わたしが、別れてほしいから。先輩が、そう思っているから。だから湊は、先輩と別れるって……?

 段々と、あいまいだった不安の姿が形になって現れてきた。わかってしまったからこそ、不安はどんどん大きくなっていく。

「……湊」

 わたしは、そっと口を開いて言葉を押し出す。

「そこには、湊の気持ちって、あるの?」
「俺の?」

 湊はとても不思議そうな顔をした。

 告白されたからつきあって。願われたから別れる。そこに、湊の意志がないように思えた。そうして、わたしは、うすら寒さを感じていた。湊の感情が、わからない。どんなひとからでも、わたしは感情のほとばしりを感じることができた。それなのに、湊は一度だって、それがない。助かるなあ、と思っていたその現象が、急に薄暗いものに思えてきた。

 こくん、と緊張を呑み込む。

「湊は、どうしたいの? 先輩と別れたいの?」

 湊はなにも言わずに、わたしを見つめた。静かな、なにもない瞳。それから、わずかに首をかしげてみせる。

「ごめん、読み間違えた? 相手の望み、はずしたことって、あんまりないんだけど」
「……そうじゃなくて」

 わたしはこぶしを握って、湊の瞳をじっと見つめた。そこに感情を見つけたくて。でも、駄目なんだ。いつもみたいに感情なんて、伝わってこない。

 ううん。伝わってこない、わけじゃない……?

 それに気づいたとたん、ぞくりと、足もとから悪寒がのぼってきた。いや、そんなはず……と否定したいのに、できないことが、怖い。

「――湊、さ」
「うん」
「わたしがいま、先輩と別れて、わたしとつきあってって言ったら、どうするの」
「先輩もそれでいいって思っていそうだから、のどかの言うとおりにするよ」
「それって……、わたしのこと、ちゃんと好き? 恋愛として好きなの? 柊木先輩のことは? いままでどう思ってた? 好きだった?」

 矢継ぎ早に問いかけるわたしを、湊は見つめている。

 湊は、言ってた。柊木先輩につきあってほしいって言われたから、つきあってるだけだって。嫌いではないけど、好きでもないって。

 わたしの中で不安はますます大きくなる。なのに、湊の表情はなにも変わらない。ゆっくりと、もう一度聞いた。

「湊は、なにを考えてるの」

 湊は首をかしげる。答えは、端的なひと言だった。

「なにも」

 わたしの心臓が、緊張を身体中に運んでいく。湊を見つめているわたしの身体が、とぷんと暗い虚無に呑みこまれてしまいそうな恐怖を味わった。

「じゃあ、さ……、湊、なんでいま、わたしや彩といっしょにいてくれるの?」

 ふるえそうになるのを我慢するわたしとはちがって、湊はなんなく答える。

「のどかが、俺にそばにいてほしいって思ってるから。そうじゃないと、体調悪くなるんでしょ? 遠藤さんも、最初は俺に近づいてほしくないと思っていそうだったから、放置してた。でも最近は、俺のこと友だちだと思ってくれているみたいだし、いっしょにいる」
「湊自身が、わたしたちといたいわけじゃないってこと?」
「みんなが望んでるから、俺はここにいる。迷惑だったら、俺は消えるけど」

 なに、それ。

 足もとがぐらぐらと揺れているみたいだった。湊と結ばれていた絆が、ぷつん、と切れたような心地だった。

 湊の意思は、どこにある?

 探したいのに、見つめた湊の瞳はどこまでも澄んでいて、無垢で、虚無だ。その虚無に、わたしは溺れそうになる。湊が、怖い。だって彼の瞳にはなにもない。

 わかった気がした。湊の感情は、わたしに伝わってこないわけじゃなかったんだってことが。どうしてなのかはわからないし、そんなことがありえるとも思えなかったけど、もしかしたら最初から、湊の感情なんて、どこにもないんじゃないだろうか。

 伝えるべきものを、湊はなにも、持っていない――?

 でも、そんなの、感情がないひとなんて、いるわけないのに。そう思うのに、湊からはあいかわらず、なにも感じられなくて。まるで死んでいるように、湊は生きている。そんな湊が、怖い、と思ってしまった。

 わたしが立ち上がるのにあわせて、椅子が派手な音を立てて倒れた。

「ただいまー」
「やっほー、ふたりとも。やっと部活終わったよー……、って、どうかした?」

 図書室に入ってきた彩と美里が、目をまたたいてわたしたちを見る。ただでさえ湊の虚無に溺れかけているわたしに、ふたりの《不審》《心配》がぶつかって、身体から血の気が引いていくのがわかった。

「……ごめん、わたしもジュース買ってくる」

 わたしは鞄をつかんで、足早に彼女たちの脇を抜けた。