教室に向かう廊下で湊に会うと、彼は全部察しているみたいだった。
「遠藤さん、大丈夫だったでしょ」
「うん」
湊は、昨日の遠藤さんと美里の会話を聞いていたのかもしれない。それなら、教えてくれればよかったのに。いやでも、今日遠藤さんの口から聞けたから、よかったのかも。
「遠藤さんは、強いね」
「ん、そうだね」
教室に入ると、須川さんがわたしを見た。日に日に、須川さんの視線はチクチクしているような気がする。《不愉快》って感情も、強くなる。クラスのみんなも、なるべくわたしに関わらないようにしているのがわかった。みんなの感情は、お腹の底からわたしの不安をあおる。
いまの教室は、暗い感情ばかりが渦巻いていて、気を抜くと倒れそうになる。
遠藤さんが教室に来なくなったからといって、クラスにたいした変化はない。
当たり前だ。自分ひとりの考えを変えることだってむずかしいのに、他人の考えを変えるなんて、凡人のわたしには無理だ。このクラスの空気を入れ替えるなんて、無理。
それでも遠藤さんは、世界のすべては無理でも、自分を変えて、前を向いて生きようとしている。
――わたしにも、なにかできるかな。
美里は、やっぱりわたしを見ようとしない。彼女が放つのは《緊張》。トゲみたいに突き出していて、近づくのが怖い。臆病なわたしは、なかなか動けない。それでも昼休みに入って、美里の姿を見たとき、声をかけたくてたまらなくなった。
美里は、廊下の端にある学生用のコピー機を使っていた。遠藤さんに渡すノートをつくっているんだと思う。でもここだと、自分でお金を出さなきゃいけない。遠藤さんに渡す分は、職員室で頼めば、教師用のコピー機を無料で使わせてもらえる。その話までは、美里も知らないんだ。
美里がわたしを警戒して緊張しているなら、ここで話しかけちゃいけない。美里のために、話しかけないことを選ぶべき。だけど……。
須川さんたちのために、わたしは、美里との仲を捨てるの?
そう考えると、心がちくりと痛い。
どうしてわたしが、我慢しなきゃいけないんだろう。わたしはわたしの気持ちを殺してまで、この小さな世界に溶けていたいの?
「……美里」
びくっと美里が振り返った。
《緊張》《小さな恐怖》
わたしはこくりと喉を鳴らす。ふるえそうになっていることを隠したくて、ゆっくり慎重に口を開いた。
「それ、遠藤さんに渡すコピーでしょ? 職員室で、ただでやらせてもらえるよ」
「え、あ……、そうなんだ」
「うん」
そわそわと落ち着かない美里の視線。彼女の《緊張》が高まる。
――やっぱり、話しかけちゃ迷惑だったかな。
弱気がむくりと首をもたげた。残念ながら、わたしはそんなに強くない。というか臆病だから、耐えきれずに、くるっと背を向けてしまおうとする。
「……じゃあ、わたしは行くね」
でも。
「あ、待って、のどか!」
美里があわててノートを抱えて、一歩を踏み出す。
「職員室って、えっと……、どうすればいいの? 先生に頼む系?」
「そうだけど。事情話せば、職員室のコピー機を使わせてもらえるから」
「えええ、わたし、職員室入ったことない。……いっしょに来てよ」
「え?」
わたしは目を丸めた。いっしょに、って言葉に驚いた。だけどわたしの口からは、なぜだか悪態が飛び出した。
「ちょっと美里、日直とかで職員室行くでしょ? 日誌取りに行ったり」
「あー、それは、ね……! ずっとペアの子に任せてる!」
「えええ。ウソでしょ」
「ホント。いやあ、悪いとは思ってるんだけどさ。職員室怖いじゃん」
「怖くないって。ただ先生がいるだけじゃん」
「それがやだ。先生の巣窟とか、行きたくない」
不思議なくらいに、ふつうの、いままでどおりの、平凡な会話に、わたしたちは顔を見合わせる。そうして同時に、ぷっと噴き出した。
――なんだ、ちゃんと話せるじゃん。
拍子抜けした。拍子抜けしすぎて、ちょっと泣きそうだった。
「もう、仕方ないなあ。いいよ、いっしょに行こう」
「ありがと。あとあのー、あれ……、のどか、もうお昼食べた?」
「まだ」
美里が恥ずかしそうに、笑みをこぼした。
「じゃあさ、いっしょに食べよ」
「いいの?」
「もち。……それと、ごめんね、あのぉ、あれ……」
「あの、と、あれ、しかなくてわかんない。でも……、いいよ。とりあえず、職員室ね」
美里が今度はぱっと笑顔になる。《緊張》はかき消えた。ふわっとわたしの肌をなでる感情はやさしくて、また泣きたくなってしまった。
――なんだ、そうだったんだ。
美里が緊張していたのは事実。だけど、その緊張は「のどかといっしょにいたら、自分もいじめられるかも」って緊張だけじゃなかったのかもしれない。「それでも話しかけたい。でも、どうしよう……」そういう《緊張》だって、あったのかも。
わたしたちは職員室でコピーをつくって、司書室の遠藤さんに届けた。遠藤さんは「ありがとう」とはにかんで、わたしたちはまた笑った。
「あ、のどかのから揚げおいしそー」
「食べる? その代わり、美里の玉子焼きちょうだい」
教室で、取引に応じた美里の弁当箱に、ひょいっとから揚げを放り込んであげる。空いたスペースに、玉子焼きが入れられた。頬張った玉子焼きは甘くて、おいしかった。
今度は、遠藤さんともいっしょにご飯を食べてみようか。それもいいかもしれないな。
わたしがまわりの顔色をうかがって、世界に溶けたまま生きていたら、遠藤さんの笑顔を見ることはできなかった。遠藤さんのえくぼがかわいいな、って思うことも、なかった。こうして美里とお弁当を食べることも、できないままだったんだろう。
そのために払った代償は、小さくない。いまも須川さんたちのチクチクが刺さる。でも彼女たちのために、自分の心を殺すなんて、わたしが損をしてばかりだと思う。
それなら、いまの状況がつらくても、自分の行動に後悔はないと思えた。
かたん、と後ろの席から椅子を引く音が鳴った。主不在だった席に、湊がもどってきたんだ。振り向くと、静かな瞳と目が合った。
「よかったね」
湊はそれだけ言って、きれいな瞳を海に向けた。
「――うん。ありがとう」
「遠藤さん、大丈夫だったでしょ」
「うん」
湊は、昨日の遠藤さんと美里の会話を聞いていたのかもしれない。それなら、教えてくれればよかったのに。いやでも、今日遠藤さんの口から聞けたから、よかったのかも。
「遠藤さんは、強いね」
「ん、そうだね」
教室に入ると、須川さんがわたしを見た。日に日に、須川さんの視線はチクチクしているような気がする。《不愉快》って感情も、強くなる。クラスのみんなも、なるべくわたしに関わらないようにしているのがわかった。みんなの感情は、お腹の底からわたしの不安をあおる。
いまの教室は、暗い感情ばかりが渦巻いていて、気を抜くと倒れそうになる。
遠藤さんが教室に来なくなったからといって、クラスにたいした変化はない。
当たり前だ。自分ひとりの考えを変えることだってむずかしいのに、他人の考えを変えるなんて、凡人のわたしには無理だ。このクラスの空気を入れ替えるなんて、無理。
それでも遠藤さんは、世界のすべては無理でも、自分を変えて、前を向いて生きようとしている。
――わたしにも、なにかできるかな。
美里は、やっぱりわたしを見ようとしない。彼女が放つのは《緊張》。トゲみたいに突き出していて、近づくのが怖い。臆病なわたしは、なかなか動けない。それでも昼休みに入って、美里の姿を見たとき、声をかけたくてたまらなくなった。
美里は、廊下の端にある学生用のコピー機を使っていた。遠藤さんに渡すノートをつくっているんだと思う。でもここだと、自分でお金を出さなきゃいけない。遠藤さんに渡す分は、職員室で頼めば、教師用のコピー機を無料で使わせてもらえる。その話までは、美里も知らないんだ。
美里がわたしを警戒して緊張しているなら、ここで話しかけちゃいけない。美里のために、話しかけないことを選ぶべき。だけど……。
須川さんたちのために、わたしは、美里との仲を捨てるの?
そう考えると、心がちくりと痛い。
どうしてわたしが、我慢しなきゃいけないんだろう。わたしはわたしの気持ちを殺してまで、この小さな世界に溶けていたいの?
「……美里」
びくっと美里が振り返った。
《緊張》《小さな恐怖》
わたしはこくりと喉を鳴らす。ふるえそうになっていることを隠したくて、ゆっくり慎重に口を開いた。
「それ、遠藤さんに渡すコピーでしょ? 職員室で、ただでやらせてもらえるよ」
「え、あ……、そうなんだ」
「うん」
そわそわと落ち着かない美里の視線。彼女の《緊張》が高まる。
――やっぱり、話しかけちゃ迷惑だったかな。
弱気がむくりと首をもたげた。残念ながら、わたしはそんなに強くない。というか臆病だから、耐えきれずに、くるっと背を向けてしまおうとする。
「……じゃあ、わたしは行くね」
でも。
「あ、待って、のどか!」
美里があわててノートを抱えて、一歩を踏み出す。
「職員室って、えっと……、どうすればいいの? 先生に頼む系?」
「そうだけど。事情話せば、職員室のコピー機を使わせてもらえるから」
「えええ、わたし、職員室入ったことない。……いっしょに来てよ」
「え?」
わたしは目を丸めた。いっしょに、って言葉に驚いた。だけどわたしの口からは、なぜだか悪態が飛び出した。
「ちょっと美里、日直とかで職員室行くでしょ? 日誌取りに行ったり」
「あー、それは、ね……! ずっとペアの子に任せてる!」
「えええ。ウソでしょ」
「ホント。いやあ、悪いとは思ってるんだけどさ。職員室怖いじゃん」
「怖くないって。ただ先生がいるだけじゃん」
「それがやだ。先生の巣窟とか、行きたくない」
不思議なくらいに、ふつうの、いままでどおりの、平凡な会話に、わたしたちは顔を見合わせる。そうして同時に、ぷっと噴き出した。
――なんだ、ちゃんと話せるじゃん。
拍子抜けした。拍子抜けしすぎて、ちょっと泣きそうだった。
「もう、仕方ないなあ。いいよ、いっしょに行こう」
「ありがと。あとあのー、あれ……、のどか、もうお昼食べた?」
「まだ」
美里が恥ずかしそうに、笑みをこぼした。
「じゃあさ、いっしょに食べよ」
「いいの?」
「もち。……それと、ごめんね、あのぉ、あれ……」
「あの、と、あれ、しかなくてわかんない。でも……、いいよ。とりあえず、職員室ね」
美里が今度はぱっと笑顔になる。《緊張》はかき消えた。ふわっとわたしの肌をなでる感情はやさしくて、また泣きたくなってしまった。
――なんだ、そうだったんだ。
美里が緊張していたのは事実。だけど、その緊張は「のどかといっしょにいたら、自分もいじめられるかも」って緊張だけじゃなかったのかもしれない。「それでも話しかけたい。でも、どうしよう……」そういう《緊張》だって、あったのかも。
わたしたちは職員室でコピーをつくって、司書室の遠藤さんに届けた。遠藤さんは「ありがとう」とはにかんで、わたしたちはまた笑った。
「あ、のどかのから揚げおいしそー」
「食べる? その代わり、美里の玉子焼きちょうだい」
教室で、取引に応じた美里の弁当箱に、ひょいっとから揚げを放り込んであげる。空いたスペースに、玉子焼きが入れられた。頬張った玉子焼きは甘くて、おいしかった。
今度は、遠藤さんともいっしょにご飯を食べてみようか。それもいいかもしれないな。
わたしがまわりの顔色をうかがって、世界に溶けたまま生きていたら、遠藤さんの笑顔を見ることはできなかった。遠藤さんのえくぼがかわいいな、って思うことも、なかった。こうして美里とお弁当を食べることも、できないままだったんだろう。
そのために払った代償は、小さくない。いまも須川さんたちのチクチクが刺さる。でも彼女たちのために、自分の心を殺すなんて、わたしが損をしてばかりだと思う。
それなら、いまの状況がつらくても、自分の行動に後悔はないと思えた。
かたん、と後ろの席から椅子を引く音が鳴った。主不在だった席に、湊がもどってきたんだ。振り向くと、静かな瞳と目が合った。
「よかったね」
湊はそれだけ言って、きれいな瞳を海に向けた。
「――うん。ありがとう」