つぎの日、わたしは登校してから教室ではなく、司書室に最初に顔を出した。スマホに遠藤さんからの連絡があったからだ。ノートのコピーを渡すときに、連絡先は交換していた。でも、遠藤さんから呼び出されるのははじめてだ。

 草本先生にあいさつすると、「遠藤さん、もういるわよ」と微笑まれた。

 すこし不安になりながら扉を開ければ、遠藤さんは司書室で本を読んでいた。立ち上がって、わたしに「おはよう」と言う。

 ぴりっと《緊張》の波が来た。わたしはバッグの持ち手を握る。昨日決意した想いが、すこし揺らぐ。いったい、なんなんだろう。感情は伝わっても、遠藤さんの考えていることまで伝わらないのは不便だ。彼女が緊張しなきゃいけないことって、なに。

 それでもわたしは笑顔をはりつける。

「おはよう。どうしたの、遠藤さん」
「あの、今日のノートなんだけど……」

 ノート?

「今日は、その、美里さんにお願いしたから、三糸さんは気にしなくていいよ」
「え?」

 わたしは驚いて目を丸めた。なんで美里? 急にどうしたの?

「き、昨日ね、美里さんにお願いしたら、いいよって言ってくれて」
「そうなんだ……、でもなんで?」

 ぜんぜん話が読めなくて、眉が寄ってしまう。遠藤さんはびくっとしたけれど、目を閉じて、それからゆっくり開いた。

「三糸さんにばっかり頼っていちゃ、駄目だと思って」

 いよいよわたしの目はまん丸になる。だって、ぜんぜん、こんなの予想していなかった。

「あの、ね、……三糸さん困ってるみたいだったし、このままじゃ悪いなって……」

 ばれていたのか。緊張が走った。だって、中学のときそれで、いろいろとこじれてしまった。一気に不安になってわたしも目線を落とす。でも遠藤さんはちがった。

「けっきょく、ノート貸してもらうことになるから、三糸さんにも美里さんにも、迷惑かけちゃうんだけど……。だけど、三糸さんばっかりに頼らなくていいように、最後はちゃんと自分の足で立てるように……、がんばってみたい、から」

 遠藤さんと美里は、去年同じクラスだったそうだ。だから美里なら、助けてくれるかも、と思ったらしい。あとわたしと仲がよさそうだったから、美里もいい子なんだろう、と思ったのもあるらしくて。

 そういう事情を、遠藤さんは緊張しながら、ゆっくり話してくれた。

「……ねえ、遠藤さん。なんで学校やめないって決めたの?」

 わたしはついそう訊いていた。

 逃げてもいいよって、湊も言ってた。たしかに遠藤さんは、教室から逃げた。それでも、学校に来てる。そのうえ、美里にまで声をかけるなんて。たぶん、すごく怖かったはずなのに。

 世界なんて、わたしたちに冷たいじゃんか。

「須川さんたちに、心入れ替えてごめんなさい、って言わせるなんて、たぶん無理だよ。逃げちゃったほうが、早くない?」

 きっとわたしなら、そうする。いや、逃げることもできないから、状況を受け入れる。なるべくなら、目立たないように、ひっそりと生きてやり過ごす。……まあ最近それができてないんだけど。とにかく、逆らおうなんて、思わない。

 遠藤さんは沈黙を落とした。視線を伏せてから、「いろいろ、考えたんだけどね」とつぶやく。

「やっぱり、このまま負けるのは、嫌だな、と思って」
「負けるって……?」
「自分の生活を犠牲にするのって、嫌。その……、死のう、って思ったときは、本当に死ぬ気だった。だけど、いまは、なんでそんなことしたんだろう、って思うんだ」

 胸に緊張が走った。そうだよね、遠藤さんは死のうとしたんだもんね。いまこうして話ができているけど、そんな未来がなかったかもしれないんだ。そう思うと、ひやりと胸に氷を突きさされたような心地になった。

「わたし、この図書室好きだし。草本先生と話すの楽しいし。転校したり学校やめたり、死んじゃったりしたら……、その楽しいことも手放さないといけないから。それは嫌だなって。須川さんたちのために、そんなことしたくないなって」

 遠藤さんは、わたしを見て、小さな笑みを浮かべる。

「それに、ここには、三糸さんもいるし」
「わたしは――、そんなにやさしくないよ。ずっと遠藤さんのこと見捨ててきたし」

 つい、強い口調でそう言っていた。だって罪悪感につぶされてしまいそうなんだ。わたしが本当にやさしかったら、もっとはやく、遠藤さんを助けてあげられた。死のうなんて、思わせなかった。

 でも遠藤さんは首をふる。

「それでも、助けてくれた。あのとき、もう今日で終わりにしようって、たしかに思ってた。だけど、怖くもあったんだと思う。だれにも邪魔されたくなくて、でもだれかに助けてほしくて、止めてほしくて――そこに、三糸さんが来てくれたから。だから、ありがとう」

 小さく微笑んだ彼女の頬に、えくぼができる。かわいらしいな、と思った。瞬間、じわっと、涙がにじんだ。

「……そっか」

 遠藤さんの笑顔は、とても、とても、かわいらしい。

 遠藤さんが、生きていてくれて、よかった。

 目もとをこするわたしに遠藤さんがあわてたから、手をふって大丈夫と伝える。どうも昨日から涙腺がおかしい。湊のせいだ。それでも伝えなければと思って、私は無理やり口を開いた。

「遠藤さん」
「なに……?」
「遠藤さんは、なにも悪くないからね」

 息を整えて、必死に伝える。

「ごめんね、ずっと。あとノートのこと、あんまり気にしないで。遠藤さんに見せなきゃって思うと、いつもより授業に集中できるから助かるし」
「そう、かな……うん、なら、よかった。いつもありがとう、三糸さん。でも今日は、大丈夫だからね」
「美里がいるもんね。わかった、了解」

 せっかく、遠藤さんが勇気を出して美里に頼んだんだ。美里もそれを了承した。それなら、わたしが心配することじゃない。

 遠藤さんは、ちゃんと前に進もうとしている。その姿は、まぶしく見えた。

 予鈴が鳴った。もうすこし話していたいなと思ったけれど、わたしたちは手をふって別れた。つい「また昼休み」と言おうとして、今日は美里がいるんだった、とあわててしまう。遠藤さんは、ほんのすこしだけ、愉快そうに笑ってくれた。