つぎの電車は四十五分待たなければ、やってこない。時刻表を確認して、湊は「うわあ」とこぼした。

「けっこう時間ある。のどか、うち来る? ここから近いよ」
「えっ、い、いやいやいや……!」

 彼女持ちがそんなこと言っちゃダメでしょう。わたしは全力で首をふる。たとえただのクラスメイトといっても、それはダメだ。柊木先輩に申し訳ない。

 わたしたちはホームのベンチに座った。夕焼けに燃やされていく海が見える。湊は夕焼けが嫌いだと言っていた。そんな時間につき合わせて、申し訳ないな。柊木先輩にも悪いし。気まずさに、手の甲をつねる。ぎゅっ、と。

「それ、やめたほうがいいんじゃない?」

 湊がわたしの手を見ていて、はっとした。あわてて隠すけど、もうばれているらしい。湊はたいして気にしていないような顔をしていたけれど、わたしは気になって仕方ないから、手を引っ込めたままにする。

「教室でも、ときどき見たら、手が真っ赤になっててビビる」
「湊でもビビるとか、あるんだ」
「あるよ」

 ビビっているようには見えないんだけどな、そんな無表情だと。わたしは小さく笑った。

 ――どうしよう。

 もうひと押しをしてくれたら、話せる気がしていた。だけど実際この状況になってみると、口が重くなる。面倒くさいな、自分。こんな女々しかったっけ。

 でも、つぎの電車まで四十五分もあるという事実。話さないと、この時間が無駄になるだけだ。

「……あのさ、他人の感情が読めるって、わたし、言ったでしょ」

 小さな駅でまわりにはなにもないから、つぶやくような声でも相手には伝わる。湊は「ん」とうなずいた。

「それ、中学生のときからなんだけど。その、中学のときもさ、いまと同じようなことがあったんだよね。まだこの体質になる前に」
「いまと同じ?」
「いじめっていうか……、まあ、そんな感じのヤツ」

 ちょっと浮いている女の子がいた。まわりと馴染めずにいた、というかいじめられていたその子に、わたしはなるべく声をかけるようにしていた。そのときのわたしも、ちょっと優等生って立ち位置だった。

 めちゃくちゃ優等生って子は真面目すぎて、先生もそういうことを頼みづらかったのかもしれない。わたしくらいの立ち位置の人間が、ちょうどいいんだろう。頼みは断らない、だけど深刻には考えず笑っていられるような子。だから、なにかと、その子とセットに扱われて「よろしく」と言われていた。

「でもそしたらさ、その子に、変に好かれすぎちゃったんだよね。その子が頼れるのが、わたしだけだったからだと思うんだけど、いつもべったりで、持ち物まで同じようなものを集め出して……。正直、ちょっと困って」

 わたしにだってべつの友だちがいたし、その子につきっきりは無理。それに、負担だった。そんなに頼られても、困る。だから、その子と距離をおきたかったんだ。

 だけど先生たちはあいかわらず、わたしとその子をセット扱いする。わたしもがんばってはみたけど、けっこう限界だったみたいで。すこしずつ、いや、たぶん露骨だったのかもしれない。その子から離れようとした。

「そしたらさ、その子、なんでって怒っちゃって。けっきょく、わたしとは縁切るって言って、べつの友だちをつくったのね」
「つくれたんだ。浮いてる子だったんでしょ」
「そこはまあ、こんにゃろーって感じで、がんばったんじゃない? だったら最初から、そうしてくれよって感じなんだけど。で、まあ、わたしだけが残っちゃったんだけどさ……」

 なぜだか、今度はわたしが、クラス内で浮いていた。

 先生に言われるがままになっていたわたしは、いい子ぶりっこだと思われたのか。みんなでいじっていた相手にやさしくする、空気の読めないやつだと思われたのか。

 つまりは、いまの遠藤さんとほとんど同じ立場だったというわけだ。助けに入ったら、被害を受けた。木乃伊取りが木乃伊になっちゃった。中学も高校も大差ないらしい。

「やっぱり、関わらなきゃよかったじゃんって思ったんだよね。変に目立たず、まわりに合わせて、空気みたいに生きていたほうが楽だったなあって。……って思っていたら、いつのまにか他人の感情がわかるようになってた」
「ああ、そういう流れ」
「うん」

 だから、やっぱりわたしは、無意識にみんなを観察しまくっているのかもしれない。まわりに合わせて、溶け込むために。それで感情がわかるようになった、ってことだろうか。

 わたしにだって、悪いところはあったと思う。こっちの都合で仲よくなって、こっちの都合で離れようとしたんだから。あの子も、わたしに振り回された被害者だと言えるだろう。でもわたしだって、しんどかったのは事実で。

 んー、と腕をのばした。

「だからね、いまの状況は、まったくの予想外なわけですよ。遠藤さんとは関わる気なかったのに、けっきょくまた、先生からよろしくーって頼まれるし、教室ではわたしが浮きはじめてるし」

 ぜんぜん空気になれてないじゃん、わたし。

「それでも助けたんだ? 遠藤さんのこと」

 湊の言葉に、うーん、とあいまいに笑う。

「なんでだろうねえ。本当にさ、そんな気なかったんだよ」
「やさしいからじゃない?」

 やさしい? わたしが……?

 あははっと嘲笑がこぼれた。

「ずっと見ないふりしてきたわたしが、やさしいわけないじゃん」

 思いのほか強い口調になってしまって、自分で驚いた。湊の言葉を真っ向から否定してしまったことを謝ろうかと思ったけど、開いた口を閉じた。

 でもだって……、そうでしょ?

 傍観者だって、罪はある。わたしはもうすこしで、遠藤さんを殺すところだった。彼女が世界から消えてしまう一歩手前の場所まで、追い詰めた。こんなわたしが、やさしいわけない。

「ほんっとにもう、うまくいかないよねー」

 くすくすと笑うわたしの視界がぼやけた。ものの境界がなくなって、溶けてぐちゃぐちゃになる。ああもう、と目もとをこすった。本当に、うまくいかない。

「遠藤さん、なんにも悪くないのにさ。なんであんなに追い詰められなきゃいけないんだっての。いじめる須川さんの考えが、ほんっと、わけわかんない。わたしだって、なにも悪いことしてないしさ……あ、いや、遠藤さんには悪いことしたんだけど、でも美里と離れなきゃいけないようなことはしてないのに、ギクシャクしちゃうし」

 ぬぐってもぬぐっても、涙があふれてくる。声がふるえる。

 美里が悪いわけじゃない。だけど、距離をおかれるのは、寂しい。教室のあの肌を刺すみんなの感情が、しんどい。

 ……でもそれは、遠藤さんがずっと耐えてきたものだろう。ならわたしも耐えるべき?

 お腹の底が重たくて、ぐっと下くちびるをかむ。遠藤さんのことを見捨てておいて、自分だけ寂しいつらいって騒ぐのは、どうなんだろう。ずるくない?

 そう思うと、言葉が喉のあたりでつっかえて、ぎゅっと目を閉じた。言葉を呑み込んで、涙も抑えようと努力する。これ以上は、たぶん、湊にも迷惑をかけるから。だからもうちょっと、がんばってよわたし。

「言わないの?」

 湊の声がした。

「え?」
「言わないの?」

 湊の澄んだ瞳に、わたしの顔が映る。

 言いたい。聞いてほしい。助けてほしい。そんな感情が、湊にはすっかり伝わっているような気がした。湊には、わたしみたいに感情を読む力はないはずなのに。

「聞くよ」

 湊は、わたしの欲しい言葉をくれる。

 ぽろっと、瞳から涙が落ちた。

 ――逃げてもいいよ。

 湊が、遠藤さんに言った言葉。もしかしたら、あのときの遠藤さんもわたしと同じ気持ちだったのかもしれない。遠藤さんも、逃げていいよって、言ってほしかったのかもしれない。

 湊の言葉には、そういう不思議な力があった。