放課後になって、宿題をする気力もない。早く教室から去りたくて、わたしは遠藤さんへの任務も果たして早々に駅に向かった。すると、そのとなりに湊が並んだ。最初、驚いて、口をぽかんと開けてしまった。湊は背が高いから、見上げる形になる。

「湊。なんでいるの。部活は?」
「今日は調子悪いから、パス」
「え、風邪?」

 眉をひそめると、湊はゆるく首をふる。

「そうじゃなくて、気分乗らなかったから」

 なんだ。ほっとしたけど、それでいいのかとつっこみたい気持ちもあった。そんなわたしに気づいたのか、湊は「いいんだよ」と言った。

「気分乗らないときは、写真も調子悪いから」
「そういうもんなんだ」
「そういうもん」

 まさか、わたしといっしょに帰るために……なんて考えが一瞬よぎったけれど、まあ湊なら本当にそれだけの理由なんだろう。でも、この状況、恋人の柊木先輩的には大丈夫だろうか。

 ……いやわたし、ただのクラスメイトだし。うん、大丈夫だ。他意はない。ただのオトモダチだ。

「俺、普通だけど。のどかは急行?」
「あ、いや、急行でも行けるんだけど、いつも普通に乗ってる」
「へえ。時間かかるのに」

 ホームから海を眺めながら、電車がやってくるのを待つ。いつもより早い時間帯だから、空も海もまだ青さをたもっている。

「だって急行、混むじゃんか」
「まあね」

 ちらっと、湊の横顔を盗み見る。つんと高い鼻に、すっとした顎。横顔のシルエットからして、きれいだ。あ、なるほど。美里の言っていたシルエットからイケメン臭って、こういうことか。

 黒い前髪がかかった瞳に、海の輝きが反射していた。なにを考えているかわからない湊だけど、海のことをきれい、とか思ったりするのかな。湊の澄んだ瞳に映る海は、実際の海より美しく見えるような気がした。

 電車がホームにすべり込んでくる。この駅で五分停車。

 車内はひんやりと涼しかった。当然のようにとなり同士の席に座るけど、すこし緊張する。だってほら、教室だと前後なんだもん。慣れない。

「のどかは、海見るの好きだね」
「え?」
「教室でもよく見てる」

 後ろの席の湊にはお見通しらしい。

「あー、まあ、きれいだからね」

 ホームから、笑い声が聞こえてくる。須川さんだった。あれ以来いっしょの車両になることはなかったのに。なんてタイミングだ。せっかくちょっと、湊といられて気分よかったのに。

 わたしは黙って海に視線を投げる。

 あ、なんか、気持ち悪いかも。

 お腹のあたりで、なにかがくすぶっている。指先から、じんわりと熱が引いていく。うつむいて、深呼吸を繰り返す。やっぱり、急行で帰ればよかった。湊には見られないように髪で横顔を隠して、眉をひそめる。今回ばかりは、湊に意識を集中しようとしても、不調が治まらない。

 唐突に、湊が「あ」と声をあげた。

「……え、なに? どうかした?」

 どうにか気合いを入れて顔をあげたわたしに、彼はあいかわらずの無表情で言う。

「喉渇いた」
「え?」
「おすすめのジュースある?」
「んん?」
「俺、普段ジュース飲まないから。おすすめ教えて」
「あ、ちょっと……!」

 さくさくと電車からおりてしまった湊の後ろ姿を、あわてて追いかける。

 車両から出ると、不思議なくらい、すっと呼吸がしやすくなった。潮風を胸に吸い込む。気持ちいい。

 自動販売機は、すこし離れた場所にある。湊はそこまで歩いていって五百円玉を入れると、「どれがおすすめ?」と首をかしげた。どこまでもマイペースだな。ちょっと笑えた。

「じゃあ、えっと、炭酸とか……?」

 これ、と指で示すと湊は迷うことなくボタンを押した。落ちてきたペットボトルのふたを開けると、プシュッとさわやかな音。湊はひとくち飲むと、「うん、炭酸」と、そのままの感想を言った。

「そろそろ電車出る。行くよ」
「あ、うん」

 言われるがまま、電車にもどる。自動販売機から近い、さっきとはちがう車両だった。

 アナウンスが流れて、扉が閉まる。電車はゆっくりとすべり出した。となり同士で座って、電車の揺れに身を任せる。イヤホンをつけずに電車に乗るのは、久しぶりだ。なんだか、へんな感じ。

 がったん、ごっとん。海辺を走るこの電車は、観光客に人気らしい。土日や観光シーズンはけっこうにぎわう。でも平日は、わたしたちみたいに流されるまま日々を生きる地元民が使う、ふつうの電車。

「のどか」
「うん?」
「なんかあった?」

 ぴくっと身体が反応してしまって、あわてて笑顔をつくろった。

「いや、べつに」
「そう?」
「うん。なんもない」

 会話はそこで終了した。新しくぽつぽつと話はするけれど、話題はもどってこなかった。

 なんもない……、わけじゃない。湊だってそれくらいわかるだろうに。同じクラスで、席は前後なんだし。美里のこととか、教室の空気感はよくわかるはずだ。でも深く聞かないのは、虚勢をはりたいわたしに対してのやさしさか。それとも、湊は本当にわからないのか。湊って、たとえわたしの立場になったとしても、ぜんぜん気にすることなく普段と同じ表情をしていそうだもん。

 なにをしても、湊は静かな瞳をしている。

 いいな。だったら、湊が担任からの任務を受けてくれればいいのにさ。わたしには、こういうのは荷が重い。

 ぎゅっと、肌に爪を立てた。

 それからどれだけ電車に揺られていたのだろう。たぶん、二十分くらいだろうか。

「俺、この駅」

 湊が腰をあげた。はっとして、笑顔をつくる。

「へえ、ここでおりたことないや」

 小さな駅だった。なんとなく物珍しくて、わたしはドアのところまでついていく。ひょいとのぞいてみたけれど、本当になにもない場所だった。湊はホームにおりたつ。

 べつに、名残惜しかったわけじゃない。

 本当は、なんかあった、ってもうひと押しくらいしてくれたら、相談できそうだったのに、とか思ってない。そこまで高望みはしない。できない。だってわたしは、湊の彼女でもないし。そこまで彼に頼れない。

「じゃ、また明日」

 わたしはそう言って手をふった。

 扉が閉まります。ご注意ください。定型文の、つまらないアナウンス。

 また明日、変化しない日常にもどっていく。まあ、なんとかなるでしょ。たぶん。おろした手をもう片方の手で支えながら、陰でぎゅっとつねった。

 ――大丈夫、うん、大丈夫だ。わたしは、がんばれる。

 すこし顔を伏せて、よし、と目線をあげる。湊の瞳を見る。静かな瞳に、もう一度笑みを送る。その直後だった。

 あ、と言う間もない。手首をとられて、ぐいと引かれた。背後で扉の閉まる音がする。

 へ、とやっと出た声は、電車の発車音にかき消された。

 わたしを置いて、電車はすべり出していく。夕焼けに染まっていく薄暗い世界で、車内の煌々とした明かりが湊の顔に影を落としては流れていった。わたしはその様子をぼんやりと眺める。

 握られていた手が、あっさりと離れていった。

 すっかり電車がいなくなると、駅のホームには静寂が満ちる。

「のどか。なんかあった?」