そんなこんなから、三月になった。
 入試に関しては、一応行きたいところを受けに行った。治療中でもあり、頭の毛は寂しい。
 試験会場はみんなと違う部屋で受けるのがやはりダメみたいで一つ目立つ存在となっただろう。
 自分を少し褒めたいと感じた。
 周りからの目を気にせず、試験に挑んだ。
 気を緩めず、どこかにばら撒くこともなく、俺は紙と一対一になってそこにペンを走らす。抗う心か、何かを遂げたい最後のという意味を込めた挑戦を完結させたかったのか。
 理由は何にしろ、俺は受験を乗り越えた。
「おめでとうー!」
 おかげで、病院に帰ってみれば「受験お疲れ様」の記念に母さんは褒めてくれた。そこには香澄もいた。
 香澄も俺のいる高校への進学を志望して、一緒に受験した。
 県内で有数の進学校で偏差値もなかなか高い。だけど、自由な校則が評判で生徒からの評価がかなり良くて、本校も『自由な校風』を掲げている。
「受験終わってさ、車ですぐここに来たんだよ」
「あー、だから終わった香澄を見かけなかったわけか」
 一緒に帰るものばかりと思っていたから、帰路に香澄を見かけないのに不信感を感じた。
「まさか、一緒に帰りたかったとか言わないよね」
「そのまさかと言ったらどうする?」
「今すぐ家に帰ります!」
「じゃあ、まさかじゃない方で」
 あれから、俺と香澄の距離は一段と縮まった。
 思ったことはズバッと言える関係、けれど常識範囲内の内容でお互い合わせやすい。
 デートとかは、俺の不都合で行けないんだけど、香澄は嫌な顔せずに毎回こう言ってくれる。
「渉の顔が見れれば、渉といることができるんならこれも立派なデートだ」
 胸が音をたてて萎む音が聞こえてくる気がするんだ。
 香澄に意識が行って、それに浸ってしまう。
 鼓動はしなくなった。
 だけど、毎日は楽しいので何も文句はない。

 そして、卒業式。
 俺はみんなの輪に加わらずにこの式を迎えた。
 保護者席からみんなの卒業証書の授与を見送り、春の悲しい空気を飲み込む。けれど、悲しいの中には何かがある。
 卒業は終わりじゃない。
 これから、それぞれの道がある。
 俺も俺の道がある。
 病室に帰りしばらくベッドの中に潜り込んだ。
 きっと大輝らが来る。そして、そのあとは香澄が来るだろう。
 あのクリスマスのときのような予定になるはずだ。
 俺は胸を高鳴らせる。これから、あることは全てがおかしいわけじゃない。こんなふうに楽しいこともあるんだ。
 そのとき物音が聞こえた。
 ベッドに潜っていて、何かが落ちたり、隣の病室で何かがあったのかと思ったが、その物音の正体は自分の病室のドアのノック音だと知った。
 母さんはノックなどしない。そのまま入ってくる。
 だとしても、大輝とかでもなさそうだ。騒がしい声が聞こえない。
 香澄なのかもしれない───。
「どうぞ」
 入ってきたのは俺の治療を担当する医師だった。
「どうかなさいましたか?」
 俺は問う。医師の言うことはいつも母親越しで俺に伝わるから、彼の顔を見るのは久しぶりだった。
 しわがこんなにあったのか、とかちょっと怖い顔だなとかを、今見て思うが以前に見た医師の顔からこうした表情になっているんだなと改めて感じた。
 空気が変わった。
 医師が入ってきて、さっきまであった俺は胸が高鳴っていたのにそれも虚しく、落ち着きを取り戻した。
「お母さんはいますか?」
 医師は言った。声もやや低くて、前聞いた声ではない。
「そろそろ戻ってくると思います。コンビニで水とかを買いに行ったので、そうかからないはずです」
 それを言ったのと同時にドアがノック音を鳴らさずに開いた。
「母さん来ましたよ」
 俺が言うと医師は母さんの方へ振り返り、俺の元へ来るように手招きをした。
 母さんは困惑した表情というより、何かを察し暗い表情になる。
 宣告を覚悟した瞬間だ。
 母さんがベッドのそばにある椅子に座ると医師は低い声を変えることなく話し始めた。
「症状は安定しています。ただ、体はすでに弱体化しそれに続いて核である心臓もだんだんと衰退の傾向が見られます」
 母さんは、医師の本当に伝えたいことを待たずして泣き出した。
 両手で、目元を隠し見せてはいないものの泣く声がする。
「二週間もないかもしれません。余命はもうすぐそこまで近づいています」
 周りの空気は動くのをやめた。
 時間はやがて進むのをやめた。
 俺の耳は役割を捨てた。
 もし、あるであろう余命の宣告に自分がどんな状態にまで変わってしまうのか、少し興味があった。
 精神が限界を感じ鬱と同じぐらいになってしまうのかと思っていた。
 そんな容易に表すこともできない、考えられない思考が俺の頭に寄生した。
 
 母さんは俺に何も声を掛けない。
 けれど、それでいい。
 俺は余命宣告を受けてから「何も言わなくていい」と母さんが無理に話さないように仕向けた。
 萎れた心こそ母の愛情だとか古臭い理論はこの場において、通用しない。
「母さん、一人にして欲しいからちょっと出てくれる?」
 余命に追われていない様子を装って俺は言った。
「嫌だ。ここにいたい」
 母さんは拒んだ。視線を合わせようとせず、下ばかり見る。
「無理。出てけ、一人になりたいんだ!」
 自分に何があるかわからない。それを言ったときに、咳が出た。かなり酷い。喉が焼けるみたいだ。
「わかったわ。何か欲しいものとかあったらすぐに買ってくるから」
 今の精神状態を理解したのか、その状態がどれほど体に影響しているのかを悟ったようだった。
 どんなに頑張ってもこれくらいで俺を癒す言葉なんかない。
 小説とかアニメじゃないんだから、あってたまるか。
 ドアの閉まる音がして、母さんが完全に病室から出ていったと判断したとき、俺は寂しくなった。 
 自分から追い出しといて、言うのもあれだけど一人がまずいみたい。それで母さんのありがたさを知った。
 一人じゃないから守られていて、一人じゃないから寂しくなくて、心強くて頼もしい。
 今はその逆だ。
 一人だから無防備で弱々しく、一人だから寂しく、頼れるものも頼られるものもいない。
 その状態でいることが一番に自分を壊すのだ。
 ドアが開く音が聞こえる。
「だから、来るなって言っただろ!」
 母さんが間も無く来て俺は俺を抑えられない。だから、こう怒鳴ってしまった。一人が寂しいってことは今さっきわかっていたのに。
「お前、どうしたいきなり?」
 黒い制服に身を包む学生が四人いた。
「大輝? なんでここに?」
 俺は初めて来ることを聞かされたような幼稚な姿と脳を恨んだ。
「来るとか思ってなかったのかよ。親友を舐めんじゃねーぞ」
 いきなり近づいて大輝は腕を俺の頭に回す。肩を組む姿だ。
「なんか叫んでたけど、来てほしくなかったか?」
 わかったことは、母さんと同じ人間はいないということ。さっきの鬱憤が俺の中の別のところへと積まれることになった。
「まあいいわ。祝おう! 卒業おめでとう!」
 だけど、わかる。
 今の俺の感情は今の彼らに相応しくない。
 彼らを傷つけたくない。
「ごめんだけど、帰って欲しい……」
 盛り上がる中悪いのはわかっている。だってそうだ。今日は人生に数回しかない卒業式だったのだ。
 三年間お世話になった制服。
 三年間お世話になった先生方。
 三年間お世話になった友達。
 三年間お世話になった中学校にさよならを告げる日なのだ。
 そんなムードを俺なんかが無駄にしていいわけない。
「なんでだよ。お前も卒業生だろ。盛り上げって損はない」
 真っ向に否定したいけど、それは事実だ。
 感情だけの俺になってしまう。
「今はそんな気分になれないから……」
「気分気分って、こんなときに盛り上がれないやつが気分を語るな」
「盛り上がれるわけないだろ!」
 咳をした。
 さっき、母さんの前でしたのと同じくらいの痛さだ。
「もう、今日は帰って欲しい。また、機会があったら遅れないように行くから……」
 同じ苦悩を味わった友達がこの世にどれだけいるかと数えて、いないとわかる。それもすでにわかっていた問題だ。
 大輝らは一言も漏らすことなく病室を後にした。
 病室のドアがまたしっかりと閉まる音が聞こえる。
 母さんはこの世で一人の母さんだ。
 寿命のことを親友である彼らに言えなかった。
 心配するのはわかっていた。
「大丈夫か?」と聞かれるのも把握していた。だから、辛かったんだ。卒業した雰囲気にお別れが加わって、でもそれはまた会えるかもしれないお別れで。
 もう会えることのないお別れなんて、卒業式にいらないんだよ。
「この、くそ心臓がー!」
 声は廊下へと透けていく。
 変だ。ドアは大輝らがしっかりと閉めたはずだ。
「心臓、何かあった?」
「香澄……」
「なんか、ここの空気重いね」
「ま、まあね」
 本当に予想通りの展開と、いきなりの香澄に戸惑う自分がいる。
「今、これ私来てよかったの?」
「うん。問題ない」
 嘘で問題はある。気持ちが今深海の奥深くまで落ちているのに、香澄がいるのは少しおかしくなりかねない。
「ちょっと外出よう、いろいろ話したいことがある」
 この空間を言い訳にして、俺は病院から抜け出した。

「患者がこんなところまで来ていいの?」
「良いんだよ。一応医師には自由許可されてるし───」
「なら、良いんだけど……」
 俺が香澄を連れてきたところは、公園だ。ブランコのある、俺の思い出の場所。
「思い出のところにさ、来たかったんだけど。しばらく、時間いいかな?」
「大丈夫だって。それより、何話したいの?」
 俺らはブランコに腰がけた。
 目の前に広がる桜はこの公園を俺らごと包み込む。
 だからか、言える気がしてきた。
「長らく付き合いあるから、言うんやけど……」
 グッと堪えた。
 言いたいけど言えなくて、言わないといけないのに言えなくて。
 思い返される香澄と過ごした日々には笑顔が全部つきものだ。ときには、喧嘩もした。けど、それの最後は笑顔で締めくくっている。
 どこかしらに付きまとうのだ。
 香澄は悪くない。
 その笑顔が水をもらえずに萎れていくように、香澄の顔から笑いの文字さえも消えてしまったらどうしよう。
 けど、言いたい。
 逆に言わなきゃ後悔しそうだ。
「まさか……、病気のこと……?」
 忘れていた。
 香澄はこういった物事の答えに鋭いことを。そして、俺のここまでの行動をなぞると、いかにも病院を敵視していた。
 病院関連の項目から逃れたい。
 行動がもうそれだった。
「ねえ。言ってよ。私に内緒にしないで」
 相手に行動を強制されたり、お願いされるとさっきまでの制御が面白いくらいに緩くなる。
 俺の口も躊躇うことなく開いた。
「寿命がもう……ない……」
 必死に何かを堪える。
 見てて心がぶん殴られる。
 過去の香澄の笑顔を思い出した。今の香澄の笑顔もう違う。
 現実逃避のようなものだ。
 でも違った。
 一度それを見てしまった以上、俺の中にある過去の香澄はぶん殴られるかのように跡形もなく変わっていく。
「違う! まだ死なないから。まだ渉は生きていられるから!」
「そんなんじゃない!」
 公園内に香澄の叫び声が響く。
 繊細で美しい心を持ちたかった。
 俺という人間は香澄と相性は合わない人間だ。
「庇わないでくれ! 俺はもう俺なんだ。香澄なんか関係ない」
「違う!」
 香澄は背を向けた。
「渡したいものがあるから、もうそのときなら仕方ない。私は渉を動かすこともできないし、私のものにすることもできない。明日の昼、ここに来てほしい……」
 小さく、か弱い姿がまた小さくなっていく。
 その背中が俺の目に映ってしまう。
 俺は、もう香澄のことなんか見たくないのかもしれない。
 早く病室に戻らないと気づいたときには空は黒とオレンジで作られていた。

 もうすぐ昼になる。
 ちょうど、お腹も空いてきた頃だ。
 昨日、病院に帰るといつも点滴を打ってくれる看護師がいた。
「明日の昼に行かないといけないところがあるから、点滴はなしで」
 看護師にそう告げると、何も言わずに点滴を打つための準備を止めた。
 この俺なんかに、看護師も気を遣っている。それが自分が申し訳ないと思っているのかもしれないけど、俺はただ単に弱者と読み取った。
 声すら出す勇気がない。
 そして、次の日を迎える。
 そもそも俺は今日喋ったか?
 朝起きてしばらくに母さんが来た。
 おそらく病院のコンビニで買ったであろう水とフルーツをレジ袋に入れて持ってきた。
 確か、何かしら母さんは俺に声をかけた。
 何を返しただろう。音がなかった空間に母さんも黙っていた様子だ。
 そして、無言のまま昼を迎えようとしている。
「ちょっと行ってくる」
 会話はそれだけだ。
 ベッドで呆然と座る母さんにそれだけ言って、俺はすぐに私服に着替えて病院を出た。
 
 再会の合図は健気なものだ。
 お互い言葉というものを交わさずに挨拶をした。
「渡すものって何? 早く病院に戻らなくちゃなんだ」
 頭に撃たれ続ける小石。
 これらは俺の悪の醜態だ。
 今俺が俺をしているのもその一つで、寿命の宣告もその一つだ。
 全てが俺を悩ますという名目で圧を与える。
 彼らは自分勝手だ。
「渡すものならわかってるし、その手に持ってるやつでしょ。気分悪いから、早く病院に帰りたい」
 ああ……、これを聞いて香澄はどう思っただろう。
 嘘だとか思ってたりするのかな。私と話したくないくせにとか思っていないだろうか。
「早く渡したいのは山々。だけど───」
 これが起こった原因を探り出す。
「ねえ、いつまで生きれるの? 私、まだ信じることができない……」
 泣く顔はやっぱり好きじゃない。それが彼女だとしても。
 でも、体は言うことを聞いていない。
「言わねえ。絶対に言わねえ」
 俺の体はそれを聞くたびに頑なに拒んでしまう。別に言っても変わらないじゃないか。
 香澄はすでにそれを受け止めようとしているじゃないか。
「覚えてる? タンポポだよ。これあげる!」
 何かの望みを込めて、何かの思いを込めて。
 そんな一輪のタンポポ。
「俺のこの病気を"運命"とでも言いたいのか?」
 俺はそのタンポポを香澄の手から奪い取った。
「ねえ! それどうする気?」
 淡々と冷酷な口調に変わったのは俺でも気づく。
「タンポポにはな"運命"じゃなくて"神のお告げ"って花言葉があるんだよ。けど、それも対して意味は変わらない」
 何を言っている。何を言っているんだ俺。
「大切なものがなくなればそれで終わりだ」
 緑色の茎から出る汁のようなもの。これを人間で例えるなら血なのだろう。
 黄色い花びらがいっぱいついている。
 それは一枚ずつ下へと落ちていく。軽いそれは羽毛のようにひらひらと落ちていく。
「寿命はもう二週間もない。だから、教えてやるよ。俺はお前なんかとは合わない。だから、別れろ。俺がいるだけでお前は果てるだけだ」
 
 運命は香澄ではなく病気を引き寄せた。

 足元にたたずむ黄色い花びらは悲鳴の導引。

 香澄は悲鳴をあげる。それをなんとも思っていない俺と動揺を隠せない僕がいる。香澄の手にある桜は萎れていた。

 香澄からもらったものは何一つない。
 タンポポは解体し、桜はそもそも香澄の眼中から消えてしまっていた。
 悪いことした。
 謝らないといけない。そう思っているのになかなか、進まない俺の足。
 体は言うことを聞かない。
 何も声を掛けることなく俺は病院へと帰ってしまった。
 でも、これで良かったのかもしれないと取り乱す自分もいる。
 香澄の意識が俺から、タンポポへと一瞬変わった。
 ある意味これは一つの証明で気が変わりやすいという、なんてあるわけない。
 ついに俺は死ぬこととなる。
 なぜなら、二週間がそろそろ経とうとしていた。
 体もわかったみたいだ。
 俺は病室をこっそり抜け出し、香澄の家へと向かう。服を着替えて、帽子を深く被る。時刻は二十一時を過ぎた頃だ。
 市街地を通る。
 この時間帯は人がいっぱい通る。
 夜の街は僕にとって少し怖く感じた。
 なんとかなくの想像で、夜の街には酔っ払いがいっぱいいてとか荒れ果てたイメージでいっぱいだった。
 けど、間違っていない。
 向こうの信号付近で何やらトラブルがあったみたいで、騒いでいる。
 けれど、そんなのには興味はない。 
 香澄の家へ急ごう。

「ごめんねって、え、渉くんじゃないの!」
 香澄のお母さんが出てきて、香澄は不在。
「香澄なら渉くんに会いに行くってこんな時間なのに出て行ったわよ」
「病院ですかね、行き違いかな」
「相性が合うんだよ。香澄の彼氏で本当心強いわ」
 香澄は俺の別れのことを言っていないらしい。
 ああ、そうだ。
 僕は先週の香澄との会話を思い出す。別れを告げていた。
 だけど、ここで別れましたなんて言えるはずがない。
「なら、病院戻ってみます。夜遅くに失礼しました。おやすみなさい」
 ドアを閉めるとき、家の中から電話の音が聞こえた。
 完全に閉まると、外に取り残された俺は無音の空間に取り残される。
 自我を取り戻した。
 そんな瞬間がまさに奇跡的に舞い込んだ。
 香澄が俺を探している。これは、あの公園のときの光景とよく似ていた。
 二度目の挑戦だ。初めての一回目は公園にいた。
「一度、そこに行ってみよう」
 あのときのように俺は街中を走って駆け巡った。
 足は驚くくらいに疲れなくて、疲れるのは自分の有り様だ。
 酷く後悔する自分の精神を恨みながら多数ある路地を駆け巡る。
 いつだろう───。
 
 目覚めたときには俺は四月を迎えていた。

「ドナーが見つかったのよ……」
 なんだか、テンションが違った。
 生きている自分。
 僕は街中を駆け巡っているときに心臓をおかしくして倒れたみたいだ。それを近所の人が目撃して、救急車で搬送するとそれは病院から姿を消した田中山渉と気づく。
 状態は酷いものだった。
 少しでもと思い、いろいろな投薬で寿命を繋ごうとする医師と看護師。
 けれど、効果がいまいちで最終的にあっても効果が薄れていく一方で意味のない手となってしまった。
 そこでドナーが現れたのだ。
 車に撥ねられ、意識を失い植物状態と判断された。
 けれど、植物状態になる前にその方はこんなことを告げた。
「私の両親にドナーができるか、連絡してください」
 そんなことを告げて、意識を引き抜かれた。
 その後、すぐに心臓移植の手術が行われて僕は今こうやってあったことを回想で使えている。
 
 月日も経って、俺は入学式前に退院することができた。
 髪も元通りになって、残すはあと一つ。
 本当は大輝らにも謝りたいけど、向こうも入学とかの準備で会うのは難しいだろう。
 近所の香澄なら、会えると思った。
「明日の準備も終わったし、僕、香澄の家に行ってくる。謝らなくちゃいけないんだ」
 そう言って靴を履こうとしたときに母さんからこんなことを聞かされた。
「香澄のね、お父さんが急な転勤があって。引っ越すことになったらしいから、香澄ちゃんも転校しちゃったのよ」
「え、どこだよ! ここからどれだけ離れてるとこなの?」
「そこは詳しく聞かなかったからわからないけど、きっと遠いんじゃないの? 転校とか引っ越しまでするくらいだし……」
 自分の命の現実。
 恋人の現実。
 俺は後者の方が圧倒的に悔やんでしまう。一つの人間関係を失うこととなった。
 自分のとったありえないくらいの非常識な行動が、自分をここにきて突き刺した。
 母さんの前でありながら泣いてしまう。
「こら、泣かないの。高校生でしょ」
 こんなことを母さんは言うけど、気持ちはわかってくれた。
「お花を摘みに行こう」なんて、そんな言葉をもう聞くこともかけられることもないんだ。
 あの笑顔も見ることはないんだ。
 後悔ってこれを言うんだ。
 その言葉がまだ可愛く見えてくる。
 体を痛めて、心を痛めて、心臓を痛めて。
 そして、僕はようやく気づいた。

 心がもし香澄と繋がっているなら、僕は伝えたい。
 
 僕をどこまでも愛してくれてありがとう。

 ごめんね。

 ・

 夢を見た。
 香澄がいた。
「いつ気づくんだよばーか。そして、私に気付け。けど、泣くなよ。お前が最高な人間になったら出てきてやる。あ、お前ってのはこの前のお返しね」
 香澄はこう言った。
 そして、俺はあることも聞かされた。
 香澄の言う通りに、泣くのは我慢した。
 その代わりに、香澄を思いっきり抱きしめた。
「ありがとう。そして、本当にごめん」
 共に人生を歩もう。
 そんな意味も心に刻んだ。
「心に刻んだら、私読めちゃうんだけどな」
「読んでもいい。てか、読んでほしい。香澄にはどこまでも助けられてるから、そのお礼に」
 これが俺の精一杯だ。
 香澄はそれ以上のものをくれた。
「今度さ、夢で公園とかお花畑とかにきたらさ、お花摘みに行こうよ」
 香澄のお願いを、流石におかしいのは聞かないけど真っ当しようと思う。
「香澄、大好きだ───」

「先生、久しぶりです」
「お、あれからめっちゃ保健室通うじゃん」
 僕は保健室が欠かせない場所となった。
「あれ、なんか泣いてるけど。どうした?」
 僕の目元に滴る水滴が肌に触れているのを感じた。
「やっぱ、自分泣いていますか?」
「ああ。泣いてるよ。何かあったか? 高校生で、しかも君みたいなやつがそうなるなんて。賢いのに」
「少し、聞いてほしいことがありまして───」
「何?」
「実はこの前、海二にやられて───」
「あー、やっぱり?」
 先生は僕の言うことを見通していたかのような口調だった。
「実はさ、さっき海二の顧問の先生にお願いしたんだよ。いじめをしていますってド直球にさ。叱ってたわ。そして、泣いてた」
 先生はゲラゲラ笑う。
 お酒を飲んだ大人のテンションだけど安心して欲しいのが、今は飲酒中ではないし、お酒も入っていない。
「もう、しませーんだって。笑えるよ全く」
「そんなことまでしてもらって、ありがとうございます」
 僕は深々と頭を下げて最大の敬意を払う。それに気づいていたこと、何も言わずにそれを解決してくれたこと。
「口ならなんでも言えるわけだから、またなんかされたら言えよ。退学にしてやるからさ」
 ガッツポーズを繰り出してニタっと笑う先生。
 環境なんかに負けてはならない。
 そういうメッセージなのかもしれない。

 家に帰って、自分の部屋に向かう。
 机に座って、参考書を開いて筆記用具を机に出す。シャープペンシルを一本取り出して、シャー芯を出す。
 こんなところで僕は何をしている。
 そんな感情を出すと何故かやる気が出る。けれど、もっとやる気が出るのはこの命を夢で見たときだ。
 僕は成し遂げないといけない。
「死にたい……」
 こんな言葉、この生きている人生の中で吐いてみろ。香澄を裏切ることになるぞ。
 シャーペンを走らせる。部屋の中には紙が擦れる音と、時計の秒針の気持ちいい音だけが残る。音はリズムを奏でる。
 参考書の文字が滲むとき、目は開いているかわからなかった。

 *

「勉強お疲れさん!」
 机に突っ伏す僕の横には香澄がいた。
「まさか、心臓のこと知らなかったの?」
「そのまさか。香澄が夢に出てくるのも、なんか納得だなって思う」
 机から顔を上げて香澄を見上げる。座ってるから身長は香澄が高くなるだろうけど、僕は香澄より歳を重ねるから対して変わらない。
 そこがちょっぴり悲しく思えた。
「とっさの判断だけど、今の渉を見てその判断が間違いじゃないってわかってよかったよ。あのときの渉は自分を変えてしまっていたから、何も気づかなかったと思うけど。渉を信じてた。というか、信じたかった」
 香澄は視線を変えた。僕から窓の景色へと体の位置も変える。僕はそれを香澄が怒っているのだと思った。前の話を聞く限り僕はやっぱりこう思う。
「僕は僕を手放し、俺へとなった。俺は僕を離れた。感謝したいと思う。じゃなきゃ、僕は今、俺になっていたと思う」
「タンポポの姿をまた見ることになるなんてあのとき思わなかった。ただただ、タンポポが可哀想だった。誰がやったのか、顔を上げたらそれは渉じゃなかった」
 香澄はまた体の向きを変えた。今度は僕の方へと向き直した。
「これは私のわがままなのかな? 好きな人が嫌になって、別れも告げたでしょ。けど、受け入れたくなかったから誰にも言わないでおいた。思ってることと行動が合っていないし、自分勝手すぎる」
「だからなんだ。香澄の心臓が今僕の中にあるなら、僕は香澄の分も生きなきゃいけない。そのためには俺を抗ってみせるよ。僕は気づいたんだ」
 無意味じゃない今に制限をつけた。
 
 意味ある時間を過ごす。

 それは単純なのかもしれない。じゃあ、無意味を心臓に注ぐか。それも嫌だ。
「私は消えたくなかった。それだけなのかもしれない。渉にいっぱい話しかけたけど、私が渉の中から消えるんじゃないかなと思った。なら死ねばいい。そんなふうにも思ったときがある。『やり直したいことばかりだ!』。でも叶わない……」
 香澄は息を思いっきり吸った。
 胸が張り裂けるくらいに、肺胞が限界を叫ぶように。今少し、肺が痛むのは香澄のそれが原因だろう。
「そんな私の夢を、あんなふうな別れ方をした私の夢を渉に託したいです!」
 言った衝動で体は力を失い、香澄は倒れる。