*

 僕は起きた後にすぐ勉強を再開させた。
 "やり直したいこと"に思い当たりはない。ただ、香澄はあの後に何をしたかったのか。僕のだったらいいなみたいな願望も混ざってしまうがこれだとしたらどれほど僕は日々を縫うだろう。
 無音の部屋には寝る前と同じ音だけが響いた。

 この壊れた日々を縫うと新しい発見がある。

 外の空気を吸うと体の全てが喜びに満ちて笑ってくれる。

 心にどっしりとした雪が覆い被さるときは夢を見る。

 緊張するときは胸を撫で下ろす。

 ときは受験の結果発表。
 やりたいことはとりあえず見つかった。
「先生とかどうだ? 私みたいな先生憧れるだろう?」
 保健室の先生はそんなことを言うけど、僕は生まれて男の保健室の先生は見たことがなかったし、医療機関を一時見てきた人間だからこそわかるものがある。
 傷まれた患者の心を僕は救うことはできない。
 傷まれない心にしよう。
 でも、スクールカウンセラーとかにも興味はなかった。
「教師になります。高校の教師になって生徒に寄り添いたいなと」
「気持ちはいいけど、そんな志望理由はちょっとな……」
「応援してくださいよ。やっと見つけた夢ですよ」
「冗談をわかれ、冗談を」
 そんな放課後の保健室での会話だ。
 それからと言うものは人生に見えない価値がついた気分だ。
 勉強に励み、少しの空き時間も単語帳などを眺める毎日。
「都会の有名な私立大学を目指そうかと……」
「お前ならいける。臆するな。戦え!」
 日が近づくにつれて保健室の先生の言葉は冷たいけど、僕にしかわからない暖かさが芽生えている。
 受験を終えて、しばらくは保健室にずっと引き篭もる毎日から数日経ち、僕は保健室でパソコンを立ち上げて結果を見る。
「番号あったか?」
「ありませんでした……」
「へ、ダサいな。滑り止め大学がんばんな!」
 先生には番号は言わなかった。なぜなら、とっておきのお返しができないからだ。
「残念! 僕の番号はこれです。先生騙されてやんの」
「は、何! 私騙されたのか、このお前に! 己、ちくしょー!」
 冷蔵庫からお酒を取り出そうとしたけど、僕はその手を止めた。
「心臓もきっと喜んでるよ。いや絶対だ。一年も続いていないこの関係でこんなに私は嬉しいんだ。数十年の長い付き合いがいるその子ならきっと心から褒めてくれる」
「そうだといいですね。できるなら、言葉がよかったけど……」
「夢に出てくるんじゃないの? なんかすごく心配してそう」
「あ、確かに! 今夜会ってきます」
 そうは言ったものの、あれから三ヶ月も香澄に会っていない。
 そんな夢物語はやはり、おかしいのだと改めて知らされた。

「今日だけでも、出てこないかな……」
 そう呟いた午後二十三時。

 *

「私はいるから。心配するなよ」
「するわ! いきなり消えるし、どこ行ってたんだよ」
「ずっと渉を見てた。頑張ってるなーって。なんだか嬉しくなったよ。私のためでもないのにねって、あ! ごめんごめん、私のためだったかー」
 自分で言って自分で笑って、お腹を抱えて。
 こんな香澄を現実で見たかった。
「本当に、死んじゃったんだよね……」
「じゃなきゃ、こんなところにいないよ。悲しいの?」
「それはやっぱり。直接謝れなかったし……」
 香澄は勢いよく僕に近づく。僕の手を持って強く握った。
「それが後悔。私はそれを聞いて少し苦しくなったよ。苦しい思いは周りを巻き込むよ」
「わかったよ……」
 僕は香澄の腕を振り解く。
「サクラ見に行きたいな」
 そういえば思い出した。苦しい思いも未だ捨てれずに僕は聞いた。
「桜じゃなくてサクラになったよね。あのとき、夢でノートに書いてたじゃん」
「ああ、あれね」
 香澄は言った。僕にできることはもうないのかもしれない。
「萎れた桜を思い出してしまうから、サクラって言うことにしたんだ。でも、見たら治るかもね。渉にできることはまだいっぱいあるよ」
 振り解いてしまった手はまた繋がっていた。そして、香澄はそれを引っ張る。
「ほら、見に行こうよ。たくさん笑える私たちだけのもの」
 花言葉。
 もし、香澄が急に姿を消したらこの言葉を心に唱えよう。
 きっと、僕は僕を離さない。
 サクラへと向かう香澄。
 甘い匂いがした。
 新しい陽光を探して、僕を探す。
 
 香澄の明るい笑顔に並ぶものはこのあとも僕の前に出ることはなかった。

 ただ幸せを楽しみすぎた年老いた嬉しそうな顔が横に倒れる。

 その男は渉と言って誰かの名前を呟くかのように口が開いていた。