「おや、今日は早かったですね」
ピアノの蓋をゆっくりと開けながら萩野先生が言った。
「部活が早く終わったんです」
「そうですか」
鈍いようで鋭い萩野先生のことだ。私の表情からなにかを察したかもしれない。
ピアノから一番近い席に私が着くと、萩野先生はピアノを鳴らし始めた。
深い低音に和音が呼応する。繰り返しゆったりとリズムを刻む出だしに、私はすぐに惹き込まれた。
霧の中に射しこむ一筋の光のように、主旋律が響きだす。どこまでもシンプルな音使いなのに奥深い。もの憂げでいてほの明るい。個性的でありながら耳に心にしっくりとして、一度聞けば忘れられない曲。
サティ、『ジムノペディ』第1番。
先生のピアノの音に、今日の出来事が映し出される。
『沙樹って、私といても楽しくない?』
結奈の言葉が音に合わせてリフレインして、また心がつきりと傷んだ。
なんであのとき、「そんなことない」、とすぐに言葉を返せなかったのだろう。
結奈といて、楽しくないんじゃない。ただ、以前より孤独を感じるようになった。言えないことが増えて、カラ元気で誤魔化すようになって、疲れが増した。
一人になりたいと思うことがあるのに、寂しさは感じる。
こんな矛盾した気持ち、私だけなの?
わからない。靄の中にいるようだ。
先生のピアノを聞いているときは心が解放できた。話をしなくても、音が心をつないでくれている確かな感触があった。
今もそうだ。
先生の音は温かい。
五回目、最後の和音が鳴り終えてから私はゆっくりと目を開いた。
「先生。私は友だちを傷つけてしまいました」
私の途方に暮れた言葉に萩野先生はただ頷いた。
「私は自分勝手で、最低です」
自分からは歩み寄らないのに、結奈に望むだけだった。
結奈は私に関わろうとしているのに、正直な気持ちを伝えることで関係が壊れたらと不安で逃げていた。
自己防衛だけが強い私。
「藤田はどうしたいのですか?」
「私は謝りたいです」
それから?
謝るだけじゃなくて。
本当は仲良くなりたい。
「藤田はもっと自分を出したほうがいい。私にではなく、君の友だちに」
私は驚いて先生を見つめた。
先生は私を見て頷く。
先生は分かっていたんだ。
私は臆病で、強がりで。先生のピアノの前でなければ自分をさらけ出せない。
でも、それではいけないんだ。
本当の自分を見せられないから孤独を感じるんだ。
「はい、先生。私、がんばってみます」
***
昨日のジムノペディとは対照的に私の心臓は早鐘を打っていた。
部活前に話があると給食後、結奈に告げた。
何からどうやって話そうと今さら落ち着かない。
もうすぐ六限が終わる。
私は先生のジムノペディの音を手繰り寄せる。一定のリズムが心に響くと少しだけ落ち着いた。
大丈夫。
チャイムの音がして、机を片付ける音が教室中に響いた。
「沙樹、話って?」
結奈の声に心臓が跳ねて、私は唾を飲み込んだ。
「う、うん。あのね」
大丈夫。私の本当の気持ちを話せばいいのだから。
もう一度自分に言い聞かせて一呼吸。
私は教室から大半の生徒たちが出ていくのを確認して、ぽつぽつと話し始めた。
結奈といて楽しくないのではないこと。「マル」の死を、話せなかったこと。結奈が倉科と付き合いだして、まだ好きな人もいない自分は焦ったこと。自分が同級生といて、浮いていないか不安なこと。たまにみんなでいても孤独を感じて怖くなること。
結奈は真剣に聞いてくれた。そして、
「話してくれてありがと」
と言った。その一言は私の心に響いて、重かった気持ちを少し軽くしてくれた。
「私、こんなこと言ったら、空気悪くするかもと思って言えなかった」
「そっか。時々無理してるっぽかったのはそのせいだったんだ〜」
「こんなこと思ってるのは、私だけだったらどうしようと思って怖かった」
「それはさ、違うかも。私も同じようなこと思うときある」
「結奈も?」
「うん。度合いは違うけど、誰もが思っているかもね」
そっか。そっかあ。
私は力が抜けていくのを感じた。
私だけじゃない。結奈もなんだ。
安堵と恥ずかしさ。
私は特別なわけじゃない。先生も結奈もみんな悩みを抱えてる。
「もっと早くに話せばよかった」
「まあ、タイミングもあるよ」
「ごめんね。結奈を信頼してなかったんじゃなくて」
「うん。大丈夫。話してくれたから許す!」
「ありがとう」
私は言って、次の言葉を口にするのにほんの少し躊躇った。結奈がどうしたの? というように私を見ている。
「あのね。水曜日の部活後のことなんだけど……」
私は先生のピアノを聴きに行っていることを話した。
結奈は「あの萩野先生が?!」と驚く。
萩野先生は話しても怒らないだろう。連れてきてもいいですよ、と言うだろう。
「結奈も、聴きたい?」
私の問いかけに、結奈は、
「そうだなあ、聴いてみたい気もするけど、沙樹、思ってるでしょ?」
と言って笑った。
「え? 何て?」
「独り占めしたいって」
私はどきりとした。
「そんなこと……ある、けど……」
「素直でよろしい!」
「で、でも、毎回じゃなければいいよ?」
「じゃあ、一回は行こうかな。沙樹が部活で疲れてても走って行くぐらいだもん。上手いんだろうね〜」
「そうだなあ。上手なだけじゃなくて、心に沁み通る感じ」
そう。先生のピアノの音は特別で、私の心をふんわり温かく、楽にしてくれる。
「沙樹、いい顔。大切な時間なんだね」
「うん!」
***
一週間後。
部活の後、結奈と二人で音楽室に行くと、萩野先生は少し驚いた顔をしてから微笑んだ。
その日の曲はショパン、ポロネーズ第6番変イ長調。『英雄ポロネーズ』の名で親しまれている曲。
勝利を祝うような誇らしげで力強い音だった。
ピアノの蓋をゆっくりと開けながら萩野先生が言った。
「部活が早く終わったんです」
「そうですか」
鈍いようで鋭い萩野先生のことだ。私の表情からなにかを察したかもしれない。
ピアノから一番近い席に私が着くと、萩野先生はピアノを鳴らし始めた。
深い低音に和音が呼応する。繰り返しゆったりとリズムを刻む出だしに、私はすぐに惹き込まれた。
霧の中に射しこむ一筋の光のように、主旋律が響きだす。どこまでもシンプルな音使いなのに奥深い。もの憂げでいてほの明るい。個性的でありながら耳に心にしっくりとして、一度聞けば忘れられない曲。
サティ、『ジムノペディ』第1番。
先生のピアノの音に、今日の出来事が映し出される。
『沙樹って、私といても楽しくない?』
結奈の言葉が音に合わせてリフレインして、また心がつきりと傷んだ。
なんであのとき、「そんなことない」、とすぐに言葉を返せなかったのだろう。
結奈といて、楽しくないんじゃない。ただ、以前より孤独を感じるようになった。言えないことが増えて、カラ元気で誤魔化すようになって、疲れが増した。
一人になりたいと思うことがあるのに、寂しさは感じる。
こんな矛盾した気持ち、私だけなの?
わからない。靄の中にいるようだ。
先生のピアノを聞いているときは心が解放できた。話をしなくても、音が心をつないでくれている確かな感触があった。
今もそうだ。
先生の音は温かい。
五回目、最後の和音が鳴り終えてから私はゆっくりと目を開いた。
「先生。私は友だちを傷つけてしまいました」
私の途方に暮れた言葉に萩野先生はただ頷いた。
「私は自分勝手で、最低です」
自分からは歩み寄らないのに、結奈に望むだけだった。
結奈は私に関わろうとしているのに、正直な気持ちを伝えることで関係が壊れたらと不安で逃げていた。
自己防衛だけが強い私。
「藤田はどうしたいのですか?」
「私は謝りたいです」
それから?
謝るだけじゃなくて。
本当は仲良くなりたい。
「藤田はもっと自分を出したほうがいい。私にではなく、君の友だちに」
私は驚いて先生を見つめた。
先生は私を見て頷く。
先生は分かっていたんだ。
私は臆病で、強がりで。先生のピアノの前でなければ自分をさらけ出せない。
でも、それではいけないんだ。
本当の自分を見せられないから孤独を感じるんだ。
「はい、先生。私、がんばってみます」
***
昨日のジムノペディとは対照的に私の心臓は早鐘を打っていた。
部活前に話があると給食後、結奈に告げた。
何からどうやって話そうと今さら落ち着かない。
もうすぐ六限が終わる。
私は先生のジムノペディの音を手繰り寄せる。一定のリズムが心に響くと少しだけ落ち着いた。
大丈夫。
チャイムの音がして、机を片付ける音が教室中に響いた。
「沙樹、話って?」
結奈の声に心臓が跳ねて、私は唾を飲み込んだ。
「う、うん。あのね」
大丈夫。私の本当の気持ちを話せばいいのだから。
もう一度自分に言い聞かせて一呼吸。
私は教室から大半の生徒たちが出ていくのを確認して、ぽつぽつと話し始めた。
結奈といて楽しくないのではないこと。「マル」の死を、話せなかったこと。結奈が倉科と付き合いだして、まだ好きな人もいない自分は焦ったこと。自分が同級生といて、浮いていないか不安なこと。たまにみんなでいても孤独を感じて怖くなること。
結奈は真剣に聞いてくれた。そして、
「話してくれてありがと」
と言った。その一言は私の心に響いて、重かった気持ちを少し軽くしてくれた。
「私、こんなこと言ったら、空気悪くするかもと思って言えなかった」
「そっか。時々無理してるっぽかったのはそのせいだったんだ〜」
「こんなこと思ってるのは、私だけだったらどうしようと思って怖かった」
「それはさ、違うかも。私も同じようなこと思うときある」
「結奈も?」
「うん。度合いは違うけど、誰もが思っているかもね」
そっか。そっかあ。
私は力が抜けていくのを感じた。
私だけじゃない。結奈もなんだ。
安堵と恥ずかしさ。
私は特別なわけじゃない。先生も結奈もみんな悩みを抱えてる。
「もっと早くに話せばよかった」
「まあ、タイミングもあるよ」
「ごめんね。結奈を信頼してなかったんじゃなくて」
「うん。大丈夫。話してくれたから許す!」
「ありがとう」
私は言って、次の言葉を口にするのにほんの少し躊躇った。結奈がどうしたの? というように私を見ている。
「あのね。水曜日の部活後のことなんだけど……」
私は先生のピアノを聴きに行っていることを話した。
結奈は「あの萩野先生が?!」と驚く。
萩野先生は話しても怒らないだろう。連れてきてもいいですよ、と言うだろう。
「結奈も、聴きたい?」
私の問いかけに、結奈は、
「そうだなあ、聴いてみたい気もするけど、沙樹、思ってるでしょ?」
と言って笑った。
「え? 何て?」
「独り占めしたいって」
私はどきりとした。
「そんなこと……ある、けど……」
「素直でよろしい!」
「で、でも、毎回じゃなければいいよ?」
「じゃあ、一回は行こうかな。沙樹が部活で疲れてても走って行くぐらいだもん。上手いんだろうね〜」
「そうだなあ。上手なだけじゃなくて、心に沁み通る感じ」
そう。先生のピアノの音は特別で、私の心をふんわり温かく、楽にしてくれる。
「沙樹、いい顔。大切な時間なんだね」
「うん!」
***
一週間後。
部活の後、結奈と二人で音楽室に行くと、萩野先生は少し驚いた顔をしてから微笑んだ。
その日の曲はショパン、ポロネーズ第6番変イ長調。『英雄ポロネーズ』の名で親しまれている曲。
勝利を祝うような誇らしげで力強い音だった。