いつの間にか梅雨が明けて、空には白い積雲が浮かぶようになった。
私はレギュラーになれなかった。それでもだんだんと夏へ向かっていく夕方の大半をグラウンドで過ごした。
「藤田ぁ! ぼーっとしてんじゃないぞ!」
ノックをする顧問の林先生に言われ、
「はい!」
私は大きく返して、額の汗を拭い、グローブを構えた。
白い球をこんなにも見たくないと思う日はなかった。それは小さなときの「マル」がぴょこぴょことび跳ねるように走っていたのに似ていた。
私はもう一度目と額を袖で拭った。
あと少しの我慢だ。
今日は水曜日。部活が終われば「あの人」のピアノが聴ける。
私はひたすら自分に言い聞かせて、空がだんだんと茜色に染まっていく時間を耐えた。
「今日調子悪いよね、沙樹」
部室で着替えている時、倉科と付き合い出した結奈に声をかけられ、私は口を開こうとして、やめた。あいまいに笑ってごまかす。話したら楽になるのかもしれない。でも、私は幸せそうな結奈になんとなく言いだせなかった。
「今日暑かったからかな」
「確かに暑かったね。具合悪いなら、よく寝て明日は元気になってよ」
「ありがとう、結奈。ほら、倉科と帰るんでしょ? また明日ね」
「うん。バイバイ沙樹」
結奈に手を振ってから、私はスクールバッグを持って走った。部室から音楽室までの距離がもどかしい。
ピアノの音が聞こえ始めていた。
静かな重たい低音にアルペジオの前奏。
暗がりの中、何度もさざ波が押し寄せるように。
主旋律なのに主張しない音が密やかに、それでいて重く悲しく歌い出す。
音楽室の一番後ろの窓の下、定位置に私は音を立てずに座り込んだ。
初めてこの曲を聞いた時、なんて単調な曲なんだと思った。今日は違った。
音が落ちてくる。なんて静かで深い。
ゆるやかに主旋律が上り始めた。上がっては戻ってまた上がる。頂点の音が響くのは一瞬。なんと切なく美しいことか。儚く脱力するように音が下っていく。私の心のように深い暗がりに落ちていく。
その音すべてが私の心の奥底に降りつもった。
音だけじゃない。
降りつもる。認めたくない事実が。
主旋律が低音に移った。慰めるように深く心に染み渡る。
曲が終わる頃には堪えられなくなって、私はぼたぼたと涙を膝上にこぼした。
昨日愛猫の「マル」が死んだ。
私は泣けなかった。実感が湧かなかった。
結奈にも言えなかったのは、認めたくなかったからかもしれない。
ベートーヴェン、三大ソナタの一つ。第十四番『月光』第一楽章。
こんなに心に響くなんて。
「マル」を失った悲しみが押し寄せ、私はいつの間にか嗚咽をもらしていた。
三回目がなかなか始まらない。いつもは同じ曲を五回は弾くのに。もう今日は終わりなのだろうか。
私は涙を拭って立ち上がる。そのとき、音楽室の扉が開いた。
驚いた顔をしたのは、私だけじゃなかった。
「珍客は……君だったのですか」
「はい……。すみません、私です。萩野先生」
「お入りなさい」
萩野先生の言葉に、私はおずおずと音楽室へ足を踏み入れた。
先生は濃紺のスーツの胸ポケットから真っ白なハンカチを取り出して、私に差し出した。私は黙ってそれを受け取って、ひたすら泣いた。萩野先生はその間何も言わなかった。沈黙を破ったのは『月光』の曲。
私の涙は止まらない。
「マル」との思い出が音と一緒に私の中に降りつもる。
私はその思い出の底にゆっくりと沈んでいく。それなのに、水面がほの明るいのを感じる。ピアノの音がそうさせる。
やがて泣き疲れた私は、ただ萩野先生の指が鍵盤の上を滑るのを見ていた。
「落ち着きましたか?」
「はい」
萩野先生は静かに私を見つめていた。
「マルが死んだんです」
私の口から言葉がすべり出た。
「そうですか」
答える萩野先生には「マル」のことがわかるはずない。それでも私は先生に話した。
「私が幼いときから一緒にいた猫なんです。とってもかわいくて、気まぐれなのさえ愛しくて。大好きだったんです。でも、もうどこにもいない」
萩野先生はピアノを弾いていた大きな手で私の頭にそっと触れた。
「悲しいときは思いっきり泣くのもいいでしょう。君の悲しみは他人にはわからない。君だけのものだ」
「はい」
「いい思い出は優しく、悲しい思い出は重く心に降りつもるものですが、どちらも大切な過去です」
それはまさに私が先生の音を聞いて感じたことだった。
「マルの思い出も君の心にある。君が覚えている限り、マルは死なない。私はそう思いますよ」
「……はい」
枯れ果てたと思っていた涙がまた私の瞼に溜まってくる。
「萩野先生。もう一度だけ『月光』を弾いてください」
先生は返事の代わりに鍵盤を触りだす。
私の頬を温かい涙が伝った。
たくさんの「マル」が私の脳裏に蘇る。初めて連れて来られたときの、ビクビクとした「マル」。毛糸の球を懸命に追いかける「マル」。チューブのおやつを最後まで美味しそうに食べる「マル」。日の入る窓のそばでくつろぐ「マル」。レギュラー落ちしたときに、私の足もとから離れず、ずっと頭を擦り付けていた「マル」。
マル。今までありがとう。これからもずっと大好きだよ。私、マルのこと忘れないから。だからこの音と共に私の心にいてね。
私は、萩野先生の『月光』の音で、悲しみが悲しみのまま浄化されていくのを感じた。
「藤田は元気な印象がありましたから、私のピアノを聞きに来ているのが君だとは思いませんでした」
弾き終えた萩野先生は言った。
私が普段、無理してテンションを上げているなんて、先生にはわからないことだろう。
「先生こそ、ピアノを弾くなんてイメージはありませんでした」
「そうでしょうね。私は日ごろ感情を表すのが下手なので、こうしてピアノに話をするのです」
誰もが少なからず生きづらさを抱えて生きているのだ。私だけじゃない。
「先生のピアノの音、好きです。また聴きに来てもいいですか?」
「ご自由に」
それからは毎週水曜日、私は音楽室で萩野先生と会話するわけでもなく、ただピアノを聴かせてもらった。
私の心にはたくさんの音が美しいメロディ(おもいで)となって降りつもった。
私はレギュラーになれなかった。それでもだんだんと夏へ向かっていく夕方の大半をグラウンドで過ごした。
「藤田ぁ! ぼーっとしてんじゃないぞ!」
ノックをする顧問の林先生に言われ、
「はい!」
私は大きく返して、額の汗を拭い、グローブを構えた。
白い球をこんなにも見たくないと思う日はなかった。それは小さなときの「マル」がぴょこぴょことび跳ねるように走っていたのに似ていた。
私はもう一度目と額を袖で拭った。
あと少しの我慢だ。
今日は水曜日。部活が終われば「あの人」のピアノが聴ける。
私はひたすら自分に言い聞かせて、空がだんだんと茜色に染まっていく時間を耐えた。
「今日調子悪いよね、沙樹」
部室で着替えている時、倉科と付き合い出した結奈に声をかけられ、私は口を開こうとして、やめた。あいまいに笑ってごまかす。話したら楽になるのかもしれない。でも、私は幸せそうな結奈になんとなく言いだせなかった。
「今日暑かったからかな」
「確かに暑かったね。具合悪いなら、よく寝て明日は元気になってよ」
「ありがとう、結奈。ほら、倉科と帰るんでしょ? また明日ね」
「うん。バイバイ沙樹」
結奈に手を振ってから、私はスクールバッグを持って走った。部室から音楽室までの距離がもどかしい。
ピアノの音が聞こえ始めていた。
静かな重たい低音にアルペジオの前奏。
暗がりの中、何度もさざ波が押し寄せるように。
主旋律なのに主張しない音が密やかに、それでいて重く悲しく歌い出す。
音楽室の一番後ろの窓の下、定位置に私は音を立てずに座り込んだ。
初めてこの曲を聞いた時、なんて単調な曲なんだと思った。今日は違った。
音が落ちてくる。なんて静かで深い。
ゆるやかに主旋律が上り始めた。上がっては戻ってまた上がる。頂点の音が響くのは一瞬。なんと切なく美しいことか。儚く脱力するように音が下っていく。私の心のように深い暗がりに落ちていく。
その音すべてが私の心の奥底に降りつもった。
音だけじゃない。
降りつもる。認めたくない事実が。
主旋律が低音に移った。慰めるように深く心に染み渡る。
曲が終わる頃には堪えられなくなって、私はぼたぼたと涙を膝上にこぼした。
昨日愛猫の「マル」が死んだ。
私は泣けなかった。実感が湧かなかった。
結奈にも言えなかったのは、認めたくなかったからかもしれない。
ベートーヴェン、三大ソナタの一つ。第十四番『月光』第一楽章。
こんなに心に響くなんて。
「マル」を失った悲しみが押し寄せ、私はいつの間にか嗚咽をもらしていた。
三回目がなかなか始まらない。いつもは同じ曲を五回は弾くのに。もう今日は終わりなのだろうか。
私は涙を拭って立ち上がる。そのとき、音楽室の扉が開いた。
驚いた顔をしたのは、私だけじゃなかった。
「珍客は……君だったのですか」
「はい……。すみません、私です。萩野先生」
「お入りなさい」
萩野先生の言葉に、私はおずおずと音楽室へ足を踏み入れた。
先生は濃紺のスーツの胸ポケットから真っ白なハンカチを取り出して、私に差し出した。私は黙ってそれを受け取って、ひたすら泣いた。萩野先生はその間何も言わなかった。沈黙を破ったのは『月光』の曲。
私の涙は止まらない。
「マル」との思い出が音と一緒に私の中に降りつもる。
私はその思い出の底にゆっくりと沈んでいく。それなのに、水面がほの明るいのを感じる。ピアノの音がそうさせる。
やがて泣き疲れた私は、ただ萩野先生の指が鍵盤の上を滑るのを見ていた。
「落ち着きましたか?」
「はい」
萩野先生は静かに私を見つめていた。
「マルが死んだんです」
私の口から言葉がすべり出た。
「そうですか」
答える萩野先生には「マル」のことがわかるはずない。それでも私は先生に話した。
「私が幼いときから一緒にいた猫なんです。とってもかわいくて、気まぐれなのさえ愛しくて。大好きだったんです。でも、もうどこにもいない」
萩野先生はピアノを弾いていた大きな手で私の頭にそっと触れた。
「悲しいときは思いっきり泣くのもいいでしょう。君の悲しみは他人にはわからない。君だけのものだ」
「はい」
「いい思い出は優しく、悲しい思い出は重く心に降りつもるものですが、どちらも大切な過去です」
それはまさに私が先生の音を聞いて感じたことだった。
「マルの思い出も君の心にある。君が覚えている限り、マルは死なない。私はそう思いますよ」
「……はい」
枯れ果てたと思っていた涙がまた私の瞼に溜まってくる。
「萩野先生。もう一度だけ『月光』を弾いてください」
先生は返事の代わりに鍵盤を触りだす。
私の頬を温かい涙が伝った。
たくさんの「マル」が私の脳裏に蘇る。初めて連れて来られたときの、ビクビクとした「マル」。毛糸の球を懸命に追いかける「マル」。チューブのおやつを最後まで美味しそうに食べる「マル」。日の入る窓のそばでくつろぐ「マル」。レギュラー落ちしたときに、私の足もとから離れず、ずっと頭を擦り付けていた「マル」。
マル。今までありがとう。これからもずっと大好きだよ。私、マルのこと忘れないから。だからこの音と共に私の心にいてね。
私は、萩野先生の『月光』の音で、悲しみが悲しみのまま浄化されていくのを感じた。
「藤田は元気な印象がありましたから、私のピアノを聞きに来ているのが君だとは思いませんでした」
弾き終えた萩野先生は言った。
私が普段、無理してテンションを上げているなんて、先生にはわからないことだろう。
「先生こそ、ピアノを弾くなんてイメージはありませんでした」
「そうでしょうね。私は日ごろ感情を表すのが下手なので、こうしてピアノに話をするのです」
誰もが少なからず生きづらさを抱えて生きているのだ。私だけじゃない。
「先生のピアノの音、好きです。また聴きに来てもいいですか?」
「ご自由に」
それからは毎週水曜日、私は音楽室で萩野先生と会話するわけでもなく、ただピアノを聴かせてもらった。
私の心にはたくさんの音が美しいメロディ(おもいで)となって降りつもった。