ピアノの音が響いている。
 名もわからない曲が繰り返し繰り返し。
 授業中のチョークが立てる音さえあのピアノの音色を思い出させる。

 私はぼんやりと「あの人」の指を見つめていた。大きな手だ。節くれだった長い指。気づかなかった。この手がピアノを弾くなんて。

「藤田」

 頭の中で高音が煌めく。これは間もなく曲が終わるところ。

「藤田」

 怒気をはらんだ声に私ははっと我に返った。
 
「私の授業はそんなに退屈かね?」

 数学の萩野先生が冷たい目で私を見下ろしていた。

「いえ、その、そういうわけでは……。すみません」
「君には特別な課題をあげましょう。放課後やってから帰りなさい」
「はい……」

 苦手な数学のプリントを大量に出されて、私はため息をついた。

「沙樹、おかしくない? 心ここにあらずって感じ。大丈夫?」

 給食後に結奈が私の席前にやってきて言った。

「大丈夫。でも、今日は部活行けないかも。このプリントの量じゃ」
「萩野先生って厳しいよね。私苦手」
「でも、今回は私が完全に悪いから」

 そう。私が指に気を取られていたから。
「あの人」の指だけでなく、他の男子の指も見てしまう。そして比べて、この男子はピアノ弾くのかな? と思ってしまう。

 人は意外な特技があるもんだ。

「ぼんやりしないで早く終わらせて部活来なよね」
「うーん、がんばる」

 その日、私は結局部活に出られなかった。
 課題のプリントが終わったのは十八時過ぎ。昨日ピアノが聞こえてきたのがこのくらいの時間だったなと思った。
 今日は弾かないのかな。 

「藤田」

 声にはっとして教室の扉の方を見ると、萩野先生が立っていた。

「もう遅いので今日は家に帰りなさい」
「今さっき終わりました。ちょうど職員室に行こうと思っていたところです」
「そうですか」
「あの、先生。今日はすみませんでした」

 私の言葉に萩野先生は少し表情を和らげた。

「反省しているならよしとしましょう。気をつけて帰るように」
「はーい」
「返事は伸ばさない」
「はい。萩野先生さようなら」
「さようなら」


 ピアノの音が聞こえる。私の脳内で、心の中で。美しく、伸びやかに。
 でも、もうこの曲はお腹いっぱい。違う曲も聞いてみたい。

 「あの人」の長い指がピアノを弾いているのを想像しながら、私はいく度目かのため息をついた。


***


 部活後、音楽室前にこっそり通う日々が続いた。
 時には違う人が弾いていることもあった。そんな時は音色ですぐにわかる。
 毎週水曜日の十八時過ぎに「あの人」はピアノを弾いているようだ。そう気付くまでに、初めてピアノを聞いた日から二ヶ月かかった。

 私はピアノ曲を普段にも聴くようになった。よくわからないなりに有名なピアニストのを聞いたけれど、それでもやっぱり「あの人」のピアノが一番好きだと思った。
 
 今日の曲はワルツだった。この曲も最近iTunesで聞いた。
 音が軽やかにクルクルと駆け回る、可愛らしさも感じる旋律。私の体が拍子をとるように自然と揺れ出す。「あの人」はショパンが好きなのだろうか。

 人気のない暗い校舎。漏れ出すのは音楽室の蛍光灯の光と「あの人」の奏でる音だけだ。
 私は「あの人」との秘密の時間を共有する。


 何度か教室で話しかけてみた。
 もちろん「あの人」は尻尾を出さない。そして、私が聴いていることにも気づいていない。それでいい。

***

「沙樹さ、部活後何してんの?」

 結奈に尋ねられた時は心臓が口から飛び出そうになった。
 なんとしても秘密の時間を守らなければならない。
 それなりに仲のいい結奈にも話したくないと思った自分に私は驚いた。

「ええっと、勉強」
「は? うちらまだ中一だよ?」
「そ〜だね〜、あはは」
 
 我ながら嘘が下手すぎる。
 いや、あながち嘘でもないかもしれない。

「教えたくないなら聞かないけど……。でもさ。もしかして。もしかしてだけど、彼氏できたとかじゃないよね?」
 
 結奈の言葉に私は吹き出した。

「ないない。音楽の勉強してるだけ」
「音楽の勉強? なんで?」
「急に興味が湧いたんだ〜」
「変な沙樹」

 結奈は少しほっとしたように笑って言った。

「沙樹、好きな人できたら教えてよね」
「好きな人?」
「私、実は野球部の倉科が気になってて……」

 私は大きく目を見開いた。
 
「そうなんだ〜。倉科。ふうん。う〜んと、私はまだいないかな」
「えー、いないの? じゃあ、応援してくれる?」
「え? もちろん」

 なんだろう。
 倉科のことを特別に思ったことはないし、結奈のことを応援したいのは本当なのに。
 出遅れた感じがした。

 部活も、勉強も、友だち付き合いも、普通に楽しくやってるつもりだ。ただ、ときどき疲れるなと思う。私だけかな。
 だから「あの人」のピアノが聴きたくなる。別の時空にいるような、そんな時間が心地いいと思う。「あの人」のピアノの音に浸っているときは、時がゆっくりと流れる気がする。それは私を安心させた。