ピアノの音がする。
クラシック音楽は普段聴かない。それでも私はその音色に帰宅しようとした足を止めた。
ゆったりもの憂げなこのメロディーはどこかで聞いたことがある。たぶん有名な曲なのだろう。
伸びやかでしっとりとした主旋律に規則的な伴奏。華やかさがあるわけでも、ダイナミックさがあるわけでもない。
淡々としているようでもったいぶったメロディーが、心の奥底に静かにさやかに落ちてくる。
ピアノの音がこんなにも美しいと思ったのは初めてだった。
「沙樹?」
同じソフトボール部の結奈の声に私は現実に戻された。
「帰らないの?」
私は一瞬ためらって、そして。
「忘れ物したみたい。先帰ってていいよ」
と答えた。
小さな嘘は罪悪感と秘密めいた気持ちをもたらす。
「ふーん? 暗いから気をつけなよ!」
「ありがと!」
結奈に内心謝りながら、私はスクールバッグを手に駆け出した。
***
夕方の校舎は暗くて、自分の足音が大きく聞こえる。
私はできるだけ音を立てないようにしながら、早足でピアノの音を辿った。
先ほどから同じ曲が繰り返し弾かれている。その音色は私の心を揺さぶった。この世の美しさ寂しさ静けさを詰め込んだような音。
小さな盛り上がり。音が増えて、クライマックスを迎える時、やっと私は音楽室のある四階の階段を上りきった。
音楽室の窓から音と光がもれていた。
なんて綺麗なんだろう。
高音がはらはらとこぼれて、静寂と余韻を残して曲は終わりを告げた。
私はスクールバッグを置いて、廊下に膝を抱えて座り込んだ。弾き手から見えないように。
また同じ曲が始まる。ゆったりと波間を漕ぎだす。
私の口からほぅと感嘆のため息がもれた。音がゆっくりと心の奥深くに浸透していく。
しばらく聴いていた私は、曲が再開されないのに気づいて慌てて立ち上がった。
弾き手に知られないうちに帰ろう。
そう思って歩き出そうとしたのに足が止まる。どんな人が弾いていたのかがどうしても気になった。
鶴の機織りを見てしまった心理が今ならよくわかる。こっそりと見るなんてよくないと思っても、興味に抗えずに私は窓の方を覗き見た。
えっ?
ピアノを慈しむように片付けていた人物に、私は思わず声を上げそうになって口元を手で覆った。スクールバッグを手に急いで階段を下りる。
少しの罪意識と大きな興奮。
その夜、頭の中で繰り返し響くメロディーに、私は眠ることができなかった。
クラシック音楽は普段聴かない。それでも私はその音色に帰宅しようとした足を止めた。
ゆったりもの憂げなこのメロディーはどこかで聞いたことがある。たぶん有名な曲なのだろう。
伸びやかでしっとりとした主旋律に規則的な伴奏。華やかさがあるわけでも、ダイナミックさがあるわけでもない。
淡々としているようでもったいぶったメロディーが、心の奥底に静かにさやかに落ちてくる。
ピアノの音がこんなにも美しいと思ったのは初めてだった。
「沙樹?」
同じソフトボール部の結奈の声に私は現実に戻された。
「帰らないの?」
私は一瞬ためらって、そして。
「忘れ物したみたい。先帰ってていいよ」
と答えた。
小さな嘘は罪悪感と秘密めいた気持ちをもたらす。
「ふーん? 暗いから気をつけなよ!」
「ありがと!」
結奈に内心謝りながら、私はスクールバッグを手に駆け出した。
***
夕方の校舎は暗くて、自分の足音が大きく聞こえる。
私はできるだけ音を立てないようにしながら、早足でピアノの音を辿った。
先ほどから同じ曲が繰り返し弾かれている。その音色は私の心を揺さぶった。この世の美しさ寂しさ静けさを詰め込んだような音。
小さな盛り上がり。音が増えて、クライマックスを迎える時、やっと私は音楽室のある四階の階段を上りきった。
音楽室の窓から音と光がもれていた。
なんて綺麗なんだろう。
高音がはらはらとこぼれて、静寂と余韻を残して曲は終わりを告げた。
私はスクールバッグを置いて、廊下に膝を抱えて座り込んだ。弾き手から見えないように。
また同じ曲が始まる。ゆったりと波間を漕ぎだす。
私の口からほぅと感嘆のため息がもれた。音がゆっくりと心の奥深くに浸透していく。
しばらく聴いていた私は、曲が再開されないのに気づいて慌てて立ち上がった。
弾き手に知られないうちに帰ろう。
そう思って歩き出そうとしたのに足が止まる。どんな人が弾いていたのかがどうしても気になった。
鶴の機織りを見てしまった心理が今ならよくわかる。こっそりと見るなんてよくないと思っても、興味に抗えずに私は窓の方を覗き見た。
えっ?
ピアノを慈しむように片付けていた人物に、私は思わず声を上げそうになって口元を手で覆った。スクールバッグを手に急いで階段を下りる。
少しの罪意識と大きな興奮。
その夜、頭の中で繰り返し響くメロディーに、私は眠ることができなかった。