ピシャリと言い放つ岡部先輩の声が聞こえてきて、私と高橋君はハッと同じ方へと顔を向けた。開いた生徒会室のドアの前には岡部先輩が立っていて、ちょうど今帰ってきた所の様だった。

「遅くなってごめん。岬さん、大丈夫?」
「あ……はい」
「高橋の言う事は気にしなくていいから。こういうのはちゃんと自分の意思で決める事だし、少しでも嫌だと思うならやらない方が良いよ」
「…………」

 先輩の言葉が、心に刺さる。少しでも嫌だと思うなら……という事は、先輩には私が嫌がっている事が伝わっていたのだろう。どこから聞いていたのか分からないけれど、断れない私の情けない姿を見られてしまった事がとても恥ずかしかった。

「高橋も。無理に勧誘しない」
「えー? 俺の時の先輩も結構無理矢理だったのに?」
「良いんだよおまえみたいな奴には。岬さんみたいな人には駄目」
「差別だ差別!」
「区別だよ、分かるだろ」

 納得いかない様子の高橋君に、そんな事より、と、先輩は生徒会の業務関係の話をし始めたので、私はまたプリントのホチキス留めを再開した。
 パチン、パチンと留めながら、先程の先輩の言葉を心の中で繰り返す。
『良いんだよおまえみたいな奴には。岬さんみたいな人には駄目』
 私は、先輩にとってどんな存在だろう。高橋君は先輩が頼りに思う、頼りにしても良いと思える存在なのだろう。無理を言っても大丈夫だという安心感があるからそんな風に言えるのだとしたら……じゃあ、私は?
 先輩が私に手伝いを頼むのは私の為だ。私が気を遣わないで良い様にと提案してくれた事がきっかけなのだから。実際には先輩なら一人でだって出来る事だし、出来なくても先輩にはこうして手伝ってくれる人も居るし、断れないから仕方なくやっている事でもない。
 私とは正反対。そんな事は初めから分かってたし、だから先輩の事を尊敬している。だから先輩みたいになりたいと思って、先輩の傍で先輩を知れるのが嬉しくて、先輩の為になれるのならなんだってしたいと思うけど……で、私は? そんな私はこの日々の中で、何になれた?

「でも言うて先輩他の三年生より暇そうですよね」
「もう進路決まってるからな。でも結局ここに居るんだから暇じゃねーよ」
「あーあ、俺も推薦で大学決まるといいな〜生徒会もポイントつくんですよね?」
「じゃない? よく分かんないけど」
「うわ〜来年そんな風に言いてぇ〜」

 ポスターを描きながら話す高橋君と書類の整理をする岡部先輩の言葉を黙って聞いていた。そうか、先輩はもう大学決まってたんだとホッとする。でもこれだけ一緒に居てそんな事も知らないくらい私は先輩の事より自分の事で一杯だったんだなと思うと居た堪れない……やばい、マイナス思考のループに入り出している。
 このままではダメだと急いでホチキス留めを終わらせると、次の仕事を尋ねようと書類から顔をあげた。すると、はたりと岡部先輩と目が合った。

「大丈夫? 体調悪い?」
「え? っと、大丈夫です」

 なんでだろう?と首を傾げると、なんかやけに静かだから、と先輩は私を気遣う言葉を返す。

「え、岬さんって結構喋るの? 普段どんな話しすんの?」
「……多分普段からそんな話す方では無いけど……普通に学校の事とか、普通だよ」
「えー、普通に予想通りでつまんない」
「高橋、失礼」

 先輩からの端的なお叱りの言葉に、高橋君はやれやれと呆れたように首を横に振る。

「先輩、良いんすよこれぐらいで。丁寧過ぎると気を遣わせちゃうでしょ?」
「岬さんは女子だぞ。丁寧ぐらいが良いんだよ」
「わーまた差別だ」
「区別だって言ってんだろしつこいな」

 先輩からキツめの一言を貰った高橋君は文句を言いながら次は依怙贔屓だと訴え、先輩はそれに頷いていた。でも私としてはもうそれどころじゃない。
『岬さんは女子だぞ。丁寧ぐらいが良いんだよ』
 確かに、先輩から雑に扱われた事は無い。でもそれは先輩の普通だと思っていたし、先輩がわざわざ丁寧に扱ってくれてるのだとは気づいていなかった。現に高橋君とのやり取りを見てると分かる。高橋君に対する先輩の対応は、私にとって初めて見る先輩の一面だった。

「あーあ、女馴れしてる人はやっぱ違うな〜」
「変な言い方すんな」

 ……そういえば、教室でみんなで話してる時も言ってた。女馴れしてるのかもって……先輩が?
 だからこんなに優しくて、気持ちが分かって、丁寧にしてくれるの? 女の人に慣れてるから、それが当たり前に出来るの?

「……これ、終わりました」

 完成したプリントの束を先輩に手渡すと、先輩はニッコリといつもの明るい笑顔で受け取ってくれた。いつも通りの先輩。いつも通りの、優しくて丁寧な、女の人用の先輩。

「……すみません。今日はもう帰ります」

 それだけ言うと、私は自分の荷物を手に逃げる様に生徒会室を出ていた。
 もう何がなんだか分からない。分からないけれど、とにかくここを離れたい一心で、ひたすらに足を動かしている。すると後ろからバタバタと慌ただしい足音が聞こえて来たと思ったら、グッと肩に手を置かれて振り返る。
 そこには、慌てた顔の岡部先輩が居た。

「急にどうしたの?」
「……いえ」
「何か嫌な事でもあった? あ、高橋に何か言われた?」
「……何も言われてませんし、何も無いです」
「じゃあなんで?」
「…………」

 先輩の目が見れない。先輩の問いに答えられない。

「何かあるなら言ってよ。もしかして、俺が何かした?」
「……別に、何も」

 なぜか、どうしても嫌な言い方になってしまう。先輩は悪く無い。何も悪くないし、わざわざ追いかけて来てくれたっていうのに、それなのに私は、

「私は大丈夫です。そんなに気を遣ってもらわなくて大丈夫だし、高橋君みたいにしてくれて大丈夫です」
「…………」
「他の女の人と同じ扱いしなくても大丈夫」

 そこまで口から飛び出して、ハッと我に返った。何言ってるんだろう私。何言ってるんだろう……!

「あ、あの、その、変な意味ではっ、先輩に気を遣わせていたなら悪いというか、もっと雑に扱って欲しいというか……」
「…………」
「お、女の人に慣れてるなんて知らなかったから……私、先輩の事なにも知らないなと思って、それがまたなんか……」

  ——なんか?

「……あの、も、申し訳ない、というか……こんなによくしてもらってるのに、申し訳ない……」

 ——申し訳ない?
 ……違う、違うのだ。確かに申し訳ない気持ちもある。私の事ばかりの自分が嫌になるくらいは。でもそれよりも今感じているこの嫌な気持ちを表す言葉は、

 “他の女の人と同じ扱いは嫌。だって私は、先輩の事が好きだから”

「…………」

 ——でも、その大事な気持ちが口から出ない。出す事が出来ない。
 グッと手を握りしめて自分のつま先を見つめる。
 本当の気持ちが言葉にならない。だってこんな事、先輩に言うなんて可笑しい。先輩は迷惑に思うに決まってる。先輩を嫌な気持ちにさせてしまう。そんなの、絶対に嫌だ……!

「……もし今ここでさ、俺が岬さんの事を特別に思ってるって言ったら?」
「……え?」

 顔を上げると、そこには先輩の真剣な表情があった。ジッと私を見つめる先輩の口が、ゆっくりと次の言葉にあわせて動き始める。

「もし、岬さんだからこんな風に一緒にいられる時間を作ろうとするし、これからも一緒にいられたら良いなと思ってるって言ったら?」
「……あのっ、」
「俺がもし岬さんに付き合って欲しいって言ったらさ、きっと岬さんは戸惑いながら困った顔して、はいって頷くよね」
「っ!」

 驚きのあまり言葉を失ってしまった。
 なんで? なんで先輩にバレているのだろう。私が先輩の事を好きだって、私だって今知ったのに、いつ先輩に伝わって、

「だって岬さんは、頼まれたら断れない人だから」
「……え?」

 ……けれど、その次に続いたのは、無情にも思える現実の話。

「お願いされたら自分の気持ちと違う事でも受け入れて頑張っちゃう人だから、きっと君は俺がそんな事を言い出したら本心と関係無く頷いちゃうんだ。俺を傷付けないようにって」
「そ、そんな事……」
「うん。でもね、俺の中にはそう思ってしまう気持ちがあって、だからいつか岬さんを辛い目に合わせてても気づけなかったら嫌だと思うし、その時の自分に自信が持てない事が不安で、知らない所で我慢が積み重なって、一緒にいるのが窮屈で嫌な気持ちになっていたらと思うと……そんなのは悲しいと思う」
「…………」

 ……不安だと、岡部先輩は言った? 私が、ちゃんと嫌だと断れないから。だからそんな私に気づけないのが不安だと……いつか私達が悲しい気持ちになると、思ってる?

「嫌だって言えない事は岬さんの優しさだって分かってるし、それは良い所だよ。だからそんな岬さんに簡単に自分の気持ちを押し付けたりは出来ないって思ってる。岬さんは俺にとって特別な女の子だから」

 先輩の私を見つめる視線に力がこもる。先輩が、そんなことを考えていたなんて……先輩の言葉一つ一つがあまりにも重かった。重すぎて、私は何も言葉にする事が出来なかった。

「勝手に卒業までこのままいられたらなって思ってたんだ。岬さんの前を向く手伝いが出来て、そんな不安もなくなるかもって思いながら。でも、もうすぐ俺は卒業だし、長い目でみていられないなって。それでこうやって中途半端な事になるんなら……傷つける事になる前に、やめた方が良いよな」

 その瞬間、あぁ、これで最後なんだと私は悟ったし、それに対して嫌だと心の中の自分は叫んでいた。そんなのは嫌だ、私のいけない所は全部直すから、だからずっと一緒にいて欲しいと縋りつきたいとすら思っていた。
 でも、そんな事は言えなかった。だって先輩はきっと私がそんな事をしたら、先輩こそ受け入れてしまう。折角先輩が本当の気持ちを話してくれたのに。私との関係をこんなに沢山考えてくれたのに。それなのに不安を抱えたままの先輩に私を受け入れさせる事なんて出来なかった。全部私が悪いのに。
 これは完全に、私の自業自得の現実の話。

「……今まで色々付き纏ってごめんね」
「……い、いえ、そんな……先輩は何も悪くない」
「違うよ。俺がもっと器の大きな奴だったら良かったってだけで……結局俺がいけない。全部俺がいけないんだ」

 そっと頭に先輩の大きな手のひらが乗る。きっと岬さんにはもっと良い人が居るよ、なんて優しい声が降ってきた。
 辛そうだった。泣いてしまいそうだった。それはきっと私もそうで、今私たちは同じ気持ちでいるのだろうと感じた。伝わってくる先輩の気持ちが辛い。でも、今の私たちにはきっとこの選択肢しかない。

「後もう少し……学校生活最後まで、一緒に居られなくてごめんね。ありがとう、岬さん」
「……こちらこそ、ありがとうございました、岡部先輩」

 ——もうすぐ冬休みの頃。こうして、私と岡部先輩のやり取りは終わりを迎えるのだった。
 あれだけ一緒に居たのに。終わりは突然やってくるのだと知った。ほんの一瞬の出来事。気づいた恋心はその一瞬で終える事となり、私は抜け殻の様な日々を過ごし、何も考えられないまま冬休みを越えて新学期が始まっても、心は何も変わらず晴れないままだった。