——岡部先輩はすごい。
 間違えてしまったと分かった私は何も出来ないまま落ち込む事しか出来なかったのに、岡部先輩は私が嫌がってると感じた後、こんな風に自分の心を話してくれて、気遣ってくれて、幸せな結果に導いてくれた。だから今、私の気持ちはポカポカと幸せで一杯になっている。あんなにずっと心が重たくなっていたのに。
 私にはこんな事は出来ない。嫌だと否定されたと感じたらすぐに逃げてしまうし、グズグズ考え事をしてばかり。でも先輩は違う。先輩は行動に移すのだ。そんな私ともう一度向き合ってくれて、新しい答えを見つけてくれた。だから岡部先輩はすごくて、素敵で——憧れる。

 尊敬する気持ちが心に生まれると、途端に日々の生活の中に岡部先輩の存在感が増していった。みんなが言う通り、岡部先輩を目にする機会はよくあって、先輩はいつもなんだか忙しそうな人だった。誰かと居る時も、一人で居る時も、いつも先輩は、なんというか……楽しそう。いろんな仕事をしているのに、忙しそうだし大変そうなのに、それでも、楽しそう。
 そこも私と違う所だなぁと感じながら、私は裏庭の花壇の花に水をやっていた。例の環境委員の男子に頼まれて断れなかったのだ。部活があっても水やりくらい出来るよね?と思ったけど、やっぱりそんな事は口に出せなかった。どうせその水やりくらいを出来るのは私も一緒なのだから、だとしたら私がやった方が丸くおさまる。
 さてと、これで終わりかなとジョウロを置いて花壇を見渡した。植えたパンジーの花も増えてきて、なんだか少し嬉しかった。決して前向きな気持ちで受け入れた仕事では無かったけれど、これはこれで良かったかもしれない。

「お、だいぶ咲いてきたな」
「ですね。ちゃんと水やりしてるおかげかな」
「!」

 まさかと聞こえてきた声の方に目をやると、岡部先輩が居た。環境委員の先生と一緒だ。

「なかなか集まらないから困ってたんだよ、環境委員は意識の低い奴が多い」
「仕方ないっすよ、高校生は忙しいので」
「岡部に言われるとねぇ」

 やれやれと先生が溜息をつくと、花壇を見渡すついでに私と目が合った。先生は、お!と、嬉しそうな声をあげる。

「今日の水やり当番か? 頑張ってるな〜」
「! あ、はい……」

 ニコニコと機嫌が良さそうに、じゃあ俺は戻るなと、先生が校舎の方へ戻っていくのと反対に、私に近付いて来たのは岡部先輩。

「あれ? 環境委員じゃないんだよね?」
「はい。えっと、頼まれまして……」
「なんで?」
「部活が忙しい……とか」
「とかって」

 先輩はチラリと私の足元にあるジョウロへ目をやると自然な動きでそれを拾い、片付け用の倉庫の方へと持っていくので、あたふたと私もついて行く。

「用があって先生の所行ったら花壇の話になって、そのまま環境委員の愚痴聞かされてたんだよ。でも君が仕事してんの見て先生の機嫌なおって良かった」
「そ、そうですか……それは良かったです」
「でも花壇結構広いよな? ジョウロ一個で何回も往復したの? 大変だったでしょ」
「……まぁ、そうですね」

 すると、こちらを向いた先輩の眉間にグッと力が入ったので、しまった!と私は慌てて弁解する。

「で、でもこの間植えたパンジーの様子が見られて良かったので、これはこれで良いなと思ったというか……なので大変ではあったけど、そんなに大変ではなかったです。本当です」
「…………」

 ガラリと倉庫の扉を開けると、黙ったままの先輩はジョウロをしまって扉を閉める。

「あ、あの、ありがとうございます。その、すみませんやってもらって……」
「全然。全然やるから言ってよ。俺が出来る事なら」
「…………」
「そうだなぁ、例えば、その頼んでくる環境委員に一言いってやるとか」
「!」

 やっぱり怒ってたんだ……!と、その言葉に、先ほどの先輩の表情の動きの答え合わせをして、どうしようかと緊張する。怒らせてしまった。先輩には何も関係ない話なのに。

「い、いえっ、それはいいんです! 私いつも暇ですし、学級委員長だったりするからやっぱり頼まれやすいというか」
「君が学級委員長なの?」
「あ、はい……そんな感じに見えないですよね……」
「いや、えっと、やりたくてやってんなら良いんだけど」
「……でも、やる人が居ないと困っちゃうので」
「…………」

 納得がいかない様子の岡部先輩。どうしよう……もしかしたら今の私、変な事言っていろんな所に迷惑掛けようとしてるのかもしれない……先輩はもちろん、クラスとか、環境委員とか。先輩もこんな私の話を聞いて呆れちゃったのかもしれない。

「……あのさ、俺も色々やってるから同じような物かもしれないけど、でも嫌なら嫌って言えた方がいいよ」
「……はい……嫌だったらちゃんと断るべきなのにそれが出来ない私が悪いというか、出来るならやるべきだし、やるって言ったならグズグズするなって話ですよね……」
「いや、否定してるんじゃなくて、優しすぎると思って。このままじゃ君が消費されちゃいそう」
「……消費、ですか」

 そんな事初めて言われたと驚いていると、先輩は俯いて黙ってしまった。……どうしよう、何か余計に変な事を言ってしまった? いや、きっとそう。私の受け取り方も、返し方も、きっと全部間違っているんだ、だから先輩も元気が無くなってしまったんだ。
 どうしよう、なんて言う? 先輩に、先輩に伝えたい事……っ、

「わ、私、先輩みたいになりたいです!」
「……え?」
「私、嫌って言えないから、分かってるのに出来ないから、結局色々やる事になるなら先輩みたいになりたい。先輩みたいに前向きに向き合えて、行動出来る人になりたいです!」
「…………」
「そしたらきっと、少しは自分の事が好きになれる……気がするんです。だから、先輩みたいになりたい、と、思います」

 どうしようかと悩んだ後、口から飛び出したのは私の本心だった。自分でも気づいていなかった心の奥で様子を窺っていた私の願望。先輩みたいになれたら自分の事が好きになれる気がする、なんて、自分で言った言葉に納得させられる。本当にそうだなと思う。そうなれたのならどれほど素敵な事だろう。

「……そっか」

 それは、染み込むような、染み渡らせるような頷きだった。

「じゃあ、嫌だって言えない分は俺が手伝うよ……手伝いたいし。一緒に頑張ろっか」

 その時の先輩の瞳があまりにも優しくて、その先輩の言葉に思わずはい、と返事をした——その翌日の事だった。

「あ、岬さん来ました、岬さーん!」
「!」

 放課後の掃除当番を終えて教室へ戻ると、なんとそこには私を呼んで手を振るクラスメイトと一緒に、岡部先輩の姿が。

「え、え?」
「お疲れ様! 掃除当番だった?」
「あ、はい……え?」

  なんで? なんで先輩が?
 先輩はクラスメイトにお礼を言うと、私と向き直ってにこやかに微笑んでいる。

「そういえば名前も知らなかった。岬さん、俺は岡部です」
「はい。あの、知ってます……」
「あ、そっか。先生に聞いてくれたんだっけ」
「はい……」

 一体このやり取りは何?!
 
「ところで岬さんさ、今日はこの後何か仕事あるの?」
「い、いえ、今日は特には……」
「そう? じゃあこのまま帰りか。気をつけて帰ってね」

 そして、何かあったら言ってねと、先輩はにっこり笑顔を残して教室を去って行き……取り残されたのは放心状態の私。
 一体、何の確認だったのだろう。仕事があるかって先輩は聞いていた。私の仕事? それをわざわざ確認しに私のクラスに? もし仕事があったらどうするつもりだったのだろう。
 何も分からないままの私にやって来た次の日の放課後も、先輩は同じ様にやって来た。何か仕事無い?と。それに大丈夫ですと答えた次の日も、その次の日も……。

「あ、あの、先輩はなんで毎日来てくれるんですか?」

 始めは何だろうと思っていた事もこう何回も続くと理由を知るべきだと思う様になる。なんといってもあの岡部先輩の時間を割いてもらってる訳なのだから、よくよく考えたらこれは大事件だ。

「ん? そりゃあ、仕事を手伝おうと思って」

 一緒に頑張ろうって言ったじゃん? なんて、キョトンと首を傾げる先輩を見て、ガンッと頭を思いっきり殴られた様な気持ちになる。
 ……確かに。確かにあの日先輩はそう言ってくれた。つまり、私がしょうもない事を言ってしまったばかりに、そして私が頷いてしまったばかりに、先輩はこれを約束だと捉えてくれて、その約束を守る為に毎日こうして私のクラスまで顔を出してくれていたのだと、そういう事だったのだ。
 信じられない……っ、私ってば本当に、本当に私って奴は……!

「岬さーん、日誌お願いしていい?」
「! あ、うん、机に置いといて」
「日誌? 日直の?」

 先輩の尋ねる声にハッとした。そうだ、日誌どころでは無い。

「えっと、先輩。あの……」
「先生の所持ってく? 先生誰だっけ?」
「いえっ、その、私の仕事ですので、良いんです」
「うん。岬さんの仕事なら俺の仕事でもあるでしょ?」
「……!」

 な、なぜ、なぜこんな事になってしまったのだろう。
 私の仕事が先輩の仕事な訳が無い。でも先輩は毎日毎日そう思いながらここまで来てくれていて、それなのに私は何も分かってない顔で先輩の質問にただ答えるだけで、無駄な時間を使わせてる事の理解なんてこれっぽっちもしてなくて、

「……あー、岬さん?」

 先輩が、困った様な表情で私の事を見つめている。

「もしかして、迷惑だった?」
「! ち、ちがっ……その、迷惑なのは私の方です!」

 そしてグズグズしているうちにこうしてまた先輩に気を遣わせてしまうのだ。本当に、本当に私ってダメな奴。

「先輩にこうして時間を使わせてしまっているなんて、そんなの耐えられない。すみません、本当にすみません。どうお詫びをすれば良いか……」
「お、お詫び? いやいらないってそんなの」
「でもこれじゃあ先輩の今までの時間は返って来ないですし、」
「返すも何も昨日もその前もずっと全部俺の時間だし。俺がやりたくてやってるんだよ」
「なんで?」

 つい食い気味になったその言葉。なんで? だって先輩がやりたくてやってるなんておかしい。私の名前も知らなかった先輩が、そんなのおかしい。

「……んー。まぁ、嬉しかったからかな」
「? 嬉しい?」
「うん。俺みたいになりたいって言ってくれて、そしたら自分を好きになれるって、なんか、そんな風に言われたの初めてだったから」
「…………」
「今までの俺のやって来た事とか、俺自身の全部が受け入れられた様な気がして、それがすごく嬉しかったから。だから俺も岬さんの為になりたいなって思ってるってだけなので、そんなに深刻に考え無いで下さい」
「…………」

 そう言ってもらえたのは、嬉しい。先輩に少しでも喜んでもらえたのなら。先輩に私の感じた気持ちが少しでも伝わったのなら嬉しい。でも、だからといって先輩に毎日私を手伝わせるのは違う。そんな事をしたいとは思わない。
 すると、どうやらそれでも納得いかない私が居ると先輩は察したらしく、じゃあ分かったと、一つ手を叩いた。

「岬さんも俺の仕事を手伝ってよ。何かある時頼んでいい?」
「! い、いいんですか……? 私が手伝って」
「うん。で、俺も岬さんの仕事を手伝う。それなら一緒に頑張るって事になるよね? どうかな」
「はいっ……それなら、ぜひ!」

 私も先輩の力になれる。日々の先輩の仕事を傍で手伝う機会がもらえるなんて、それは私にとってもすごく素敵で幸せな事だった。
 だって私は先輩の様になりたい。だから先輩をもっと知りたいし、もっと傍に行ってみたい。
 始めからこうすれば良かったねと、楽しそうに笑う先輩に、私も一緒に笑いながら頷いた。
 岡部先輩はすごい。こうしていつも私に新しい世界を届けてくれて、こんなグズでダメな私も先輩と居ると前向きに進んでいけるのだから。