これ、どうしよう。
 とぼとぼと歩きながらポケットに入れっぱなしの百円玉に触れる。
 結局昨日はそのまま帰宅して、お財布に合流させるのもなんか違う気がしたままどうしようかといまだに悩んでポケットに入っている。だってこれは他のとは違う。これはただのお金じゃない。岡部先輩のお金……受け取ってもらえなくて、貰ってしまった、なんだか重たい百円玉。

 先輩に返します、なんてもう言えない。だって受け取ってしまったから……私がちゃんと断れなかったばっかりに。
 いつもそう。私はいつも人にノーと言えない。だってそれで嫌な気持ちにさせてしまうのが怖いから。
 人を怒らせてしまったり、悲しませてしまうのが怖くて、つい自分の本心と違う事でも受け入れてしまうのだ。嫌だと跳ね除けて相手が嫌な気持ちになるよりも、受け入れて我慢する方がよっぽどマシだった。
 でも……嫌だと言えない自分を素敵だなとは思えない。グズグズして自分の意見も言えないなんて情けないと感じるし、ダメな奴だなと思う、自分の事を。
 自分が嫌いだ。だからせめて誠実な人間でいたかった。このお金はちゃんと持ち主に返せる自分でいたかった。それなのに、私がまだ持っている。
 ダメだな……本当に。ダメな私。

(みさき)さん、ちょっと良い?」

 どんよりと落ち込んだ心で過ごした一日の最後。ホームルームが終わるとうちのクラスの環境委員の男子に声を掛けられた。彼は両手を胸の前で合わせた所謂ごめんのポーズをして私に申し訳なさそうに言う。

「あのさ、今日何か予定ある?」
「無いけど……」
「じゃあ一日! 今日一日でいいから委員会の仕事変わってくれない?」

 彼が言うに、どうやら今日の放課後は環境委員が担当している裏庭の花壇の手入れをしなければならない日で、自分は部活がある為もう一人の環境委員が代わりにやってくれる事になっていたのだけれど、そのもう一人が今日は学校を欠席しているので、部活を休めない彼は困っているのだそう。

「今日朝から代わってくれる人探してたんだけど見つからなくてさ、そしたら岬さんならやってくれるかもって聞いて……急でほんっと悪いんだけどやってもらえないでしょうか」
「…………」

 つまり、今から花壇の手入れをして来てって事か……心の準備をする時間も無いのはさすがに急すぎる……。

「この通り! どうか、どうか! ねっ、学級委員長!」
「…………」

 ……結局、私はそれに頷いて、彼は嬉しそうに私に仕事内容を伝えると走って教室を出て行った。本当は、貰ってしまった手前、せめて先輩にお礼でも言いに行くべきかなと考えてたのに。仕方ないので私は言われた通りに裏庭へと向かう。
 裏庭の一区画分、そこには季節の花が植えられているスペースがある。……とはいっても、そこに今何の花が植えられているのかをきちんと把握している訳でも無いし、特に思い入れとかは無かった。裏庭に寄る用事なんてなかなか無いからだ。確か冬の花を植えるって言ってたけど、それって結構重要な仕事じゃない……? 本当に私が行って大丈夫なのかな。
 ドキドキしながら現場に着くと、そこには数人の生徒が軍手をして立っていて、多分環境委員だなと分かったのでそっとその集まりに近付いた。するとその中の一人の男の先輩と目が合って、ギクリとする。だってその人は、

「あ、昨日の!」
「はっ、はい!」

 そう、岡部先輩。背が高い先輩の姿はすぐに目に入ってきて、先輩は私を見て目を丸くしていた。そしてそのままズンズンとこちらに向かってくる。

「君も環境委員?」
「あ、いえ。私は違くて、クラスの委員の人が来れないので代わりに……」
「マジか。めっちゃ良い子じゃん」
「…………」

 ……なんだろう。昨日もそうだけど、あっさりとそういう事を言う人なんだろうな、この人は……。
 どう反応して良いのか分からなくてつい黙ってしまう。どうしたんだろう、みたいな顔で首を傾げる先輩と何を話していいのか分からない。何を話したら……何か話が……。! そうだ、話があった。

「あのっ、先輩、昨日はありがとうございました」
「ん?」
「あの、これ……」

 そう言って、そっと取り出したのは昨日の百円玉。当然ポケットに入れっぱなしのそれは今もここにあって、よく考えなくても今がそのお礼を言うチャンス到来のタイミングだった。……が。

「……え! まさかそれ昨日の?!」

 嘘だろと、目を丸くした先輩の視線が私と百円玉を行ったり来たりする。なんで持ってるんだとびっくりしている様……というか、若干引かれてるような……?

「あ、あのっ、変な意味とかじゃなくて、頂いてしまってどうすればいいのか分からなかったというか、なんか適当に使う訳にもいかないし、やっぱりお返しした方が良いとも思うから、なんていうかその……」

 一体どう説明するべきなんだろうと、一人ぐるぐる説明と言い訳の間を彷徨う。気持ち悪いやつだと思われただろうか。気味悪く感じて嫌な気持ちにさせてしまっただろうか。どうしよう、どうしよう!
 と、あたふたする私を前に、何かを察した様に納得した表情を見せた先輩は、やれやれと困った様子で小さく笑った。

「つまり、すごく困らせちゃったって事か」
「! い、いえっ、困らせたとかでは……」
「なんかごめんね、余計な事して。気にせず使ってよかったのに」
「…………」
「そっか、そういうのが嫌な人も居るのか……始めから受け取れば良かったな」

 そう独り言の様に呟いて、ようやく受け取ってくれた先輩は、ありがとうと私に言ってくれた。その時の先輩は笑っていたし、別に怒っている様にも、悲しんでいる様にも見えなかったけど……私は、私がここで間違えてしまった事に気がついた。私が嫌だと感じていると、先輩に伝わっていたからだ。
 ……私は嫌だった? 先輩から渡された百円が? 受け取ってもらえなかった事が? それとも、このやり取り全てが?
 ……そんな事はない。嫌だとは思っていなかった。どうしようとは思ったけど、嫌では無い。嫌だと感じたのは、断れなかった自分に対して。受け取るべきじゃないと分かってるのに受け取って、それでグズグズ悩んでいる自分が嫌だっただけで、先輩が私にくれた言葉も、その気遣いも、全部嬉しかった。嬉しかったから、先輩に誠実でいたくて、だから私は困っていたのだ。だからあの百円は、特別だったのだ。
 でもそういう気持ち全部、先輩には伝わらなかった。先輩は私が嫌がっているのだと受けとってしまった。
 何やってるんだろう私……。

「お、集まってるな。じゃあまず出席確認するぞー」

 やって来た先生の声掛けに、先輩と私はそれぞれ自分の学年の方へと向かう。そこからは学年ごとの作業となり、先輩と話す事は一度も無いまま環境委員の仕事を黙々とこなすのだった。