そう言われても、簡単に立ち上がるわけにはいかない。
ここで出て行けば、彼の言い分を全て認めたことになる。
それでも今は、出て行かなければならない。
彼に対抗するだけの材料を、私は持っていない。
震える手でバッグをつかんだ。

「今は帰ります。だけど、私にはあの大皿が、あなたの作品とは思えません!」

 彼はじっと私を見下ろした。

「吉永さんが、それでもあの作品は自分の作ったものだと、あなた自身でそうおっしゃるのなら、誰も疑う人はいないでしょうね」
「えぇ。私はそれで満足なんですよ」

 立ち上がり、彼に背を向ける。
早くここから抜け出したい。
勝手に涙があふれ出してしまう前に、自分が自分に負けてしまう前に。
一刻も早くここから出て行きたい! 
逃げだそうとして、すっかり日の落ちたガラスドアの向こうに見つけたのは、ひょろりと背の高い卓己だった。

「こんばんは」

 雨でも降り始めていたのか、卓己は閉じた傘の水滴を払うと、傘立てにそれをさす。
その場で濡れた服を気にするような仕草をした。

「お久しぶりです。安藤卓己です」

 彼はゆっくりとした足取りで店内に入ると、吉永さんに片手を差し出した。

「卓己くん! 久しぶりだね。ご活躍の様子は、かねがねよく聞いてますよ」
「とんでもございません。吉永さんも、お元気そうでなによりです」

 卓己が微笑む。
握手を交わし終わったそれを、すぐにポケットに突っ込んだ。
壁際に並ぶショーケースをのぞき見る。

「あぁ、いいものが揃ってますね。さすがです」

 背中を丸め、その一つ一つをみて回る。
卓己は何をしに来たんだろう。

「何か気になるものでも、おありでしたか?」

 吉永さんは卓己に声をかけた。
姿勢を戻した彼は、にこっと微笑む。

「えぇ。紗和子さんのお迎えに来ました」

 そう言うと、卓己は私に向かって手を差し出した。

「ほら。一緒に帰ろう」

 私は突然の彼の登場に状況が飲み込めなくて、じっと立ちすくんでいることしか出来ない。

「どうしたの? 帰らないの?」

 伸ばした手を引っ込めた卓己は、耳元でささやく。

「ね、早く帰ろう」
「わ、私は……。吉永さんに用があって来たの!」
「どんな用事?」

 返答に困って、吉永さんに視線を向けると、卓己も一緒に彼を振り返った。
吉永さんはさっきまでと打って変わった、とぼけた表情を見せる。

「いいえ。特に問題はございませんよ。もう解決しました」
「だって。紗和ちゃん。じゃあ帰ろっか」
「帰らない!」

 ここまで来て、卓己に連れ帰られるわけにはいかない!

「こ、この人、うちのおじいちゃんの作品を、自分の作品だって偽って、オークションに出してたの!」
「……」
「だから、文句を言いに来たわけ!」

 じっと私を見下ろす卓己の表情は、何一つ変わらない。
一切動じることのない彼に、逆に私がうろたえ始める。

「そ、それで! それで……。文句、言いに来た」
「文句は言えたの?」
「言った!」
「じゃあもうお終いだね」
「お、お終い?」
「うん。帰ろ」

 もう一度手を伸ばした卓己に、私は激しく頭を横に振った。

「まだ帰りたくないの!」

 そう言った私に、卓己はショーケースへ視線を戻した。

「ここに並んでいるのは、どれも吉永さんの作品ですよね」
「いいえ。そういうわけでもございませんよ」
「あはは。それはウソだ」

 卓己はゆっくりと、一つ一つに視線を落とす。
作品横に置かれたキャプションには、制作者の名前と製作年が書かれていたが、そこに吉永さんの作家名である『矢沢映芳』は少ない。

「見る人が見れば、ちゃんと分かりますよ。ここに並んでいるのは、どれも同じ一人の人間の手で作った作品だって。それぞれに作者の個性というか、特徴みたいなものが出ている」

 吉永さんの顔が、一瞬ムッと曇った。

「作風を変えたって、同じです。どれもみんな、素敵ですよ。これは全部、あなたの作品だ」

 卓己は姿勢を戻すと、吉永さんに向かって微笑んだ。

「もっと自信を持てばいいのに。あなたの悪いクセは、すぐ後ろ向きになることだって、よく言われてたじゃないですか。あなたにはあなたの良さがあるから、あきらめずに続けなさいって。そうやって恭平さんから、よく言われてましたよね」

 ガラスケースに触れていた卓己の手が、そこを離れた。

「自分をごまかしたり、卑下するようなことは必要ないんです。あなたはあなたのままで、十分評価されています。自分の作品が認められないのは、あなたの名前だからじゃない。他の人の名を使って自分を売ろうとしても、それがあなたの作品かそうでないかは、僕にはわかります。もちろん紗和子さんにも」

 卓己はもう一度、にっこりと微笑んだ。

「あなたのことは、いつも気にして見ていますよ」

 吉永さんはぐっと押し黙ったまま、横を向いた。卓己は私の手を取る。

「さぁ、もういいよ。帰ろう」

 卓己に引かれ、店を後にする。
すっかり日の暮れた街には、小雨がぱらついていた。

「あぁ、傘を忘れてきちゃった」

 卓己は今度は、その穏やかな笑顔を私に向けた。

「ま、いっか」

 しっとりと雨に濡れた街を、卓己と手を繋ぎ歩く。
泣いている私を、彼は一度も慰めたり振り返ったりしなかった。
泣きながら歩く秋雨の上がった夜の街は、キラキラと全てが輝いて、繋がれた手は何よりも温かかった。