おじいちゃんの絵を譲り受けてから、数週間が過ぎていた。
私は相変わらず電車に乗って会社に通い、黙々と仕事を続けている。
次のオークションに向けての節約生活にも、抜かりはない。
昨夜は月末のシメで遅くまで残業が入り、休日の今日は昼過ぎまで熟睡。
やっと目が覚めたところに、卓己がいた。

「……。なんでいるの?」
「なんで電話に出ないの?」

 私はベッドから起き上がる元気もなく、再び枕に頭をボスリと落とす。

「勝手に入ってこないでよ」
「だ、だってそれは……。悪いなとは思ったけど、でも、で、電話にも出ないし、ピンポン押しても、出て……こないし、じゃあ、何かあったかもって、心配になるじゃないか」

 私は返事の代わりに、ボリボリおしりを掻く。

「じゃ、じゃあさ! だったら……。だったら、会社に電話しても、よかったの? 入り口で待ってても、よかった? 俺、本気で行っちゃうよ?」

 卓己とはもう口もきかないし、相手にもしないと決めていたので、大きなため息を一つついて、それでお終い。
彼も私の魂胆に気づいているから、逆に一歩も引かない。

「い、いいよ! 紗和ちゃんがその気なら。じゃあ俺も、こっ、こっから、一歩も動かないからね!」

 頑なになる卓己に布団の中で背を向けたまま、どうしようかこの先の展開を考える。
トイレにも行きたいし、お腹もすいた。

「ねぇ、紗和ちゃん。こないだから何を怒ってるのか知らないけどさ、俺は……」

 いよいよ困ったタイミングで、着信音が鳴った。
スマホの画面が切り替わる。

「……。佐山CMOだって」

 卓己が画面に映った文字を読み上げる。
面倒くさい相手が、よりにもよって最悪なタイミングで電話をかけてきたもんだ。

「で、出れば? 鳴ってるよ。は、颯斗さんなんでしょ? ぼ、僕に構わず、出ればいいじゃない」

 あぁそうですか。だったら望み通り出てやる。

「もしもし」

 布団から腕だけを伸ばし、通話ボタンを押す。
仰向けに顔を出した私から、卓己の視線がじっと離れない。

「やぁ。そろそろ起きる頃だろうと思って、電話したんだ。もしかしてまだ寝てた? 昨日は仕事で遅かったみたいだけど、大丈夫だったかな」
「何の用ですか?」
「え? あぁ、えっと、今夜の予定は空いてる? よかったら、一緒に食事でもと思ったんだけど」
「間に合ってまーす」

 プツリと電話を切る。
その勢いで、私はベッドから起き上がった。

「さ、紗和ちゃん。間に合ってるって、どういうこと? な、なにか欲しいものでも、あったの? は、颯斗さんから、何の電話だったの? 大事な話?」

 パジャマのまま1階へ降りる私の後を、卓己はずっとついてくる。
トイレの前でも待っていて、出てきた私に続いて台所に入った。
湧かしたお湯をカップ麺に注ぐ間に、卓己は箸を取り出すと、私の前にそれを置く。
3分待っている間、他にすることもないから、卓己の顔をじっと見続けてみる。
彼は最初の1分は同じようにじっとこっちを見ていたけど、すぐにもじもじし始めた。

「ほ、他に、用事……が、ないなら、じゃあ、こ、今夜は、僕と一緒に、ご飯食べる? ひ、久しぶりだし。ほら、最近あんまり、なかったから」
「3分経った」

 フタをバリッとはがし取ると、湯気の立つ麺をズズッとすする。
今日の卓己は、それでもめげなかった。

「あ、あのさ。紗和ちゃんに、言いたいことがあるんだ」

 そう言ったっきり、もごもごとしているだけの卓己を眺めながら、私はカップ麺をすする。
明日は買い出しに行かないとな。
そろそろ備蓄食料も切れそうだ。
主にネット通販で頼んでいるとはいえ、野菜とか果物とかは、やっぱりちょっとは自分の目で見て、お店で買っておきたいしな。

「さ、最近さ。紗和ちゃん、ずっと忙し……そう、だったから。今だって、ちゃんとご飯食べてないし。先輩んち行ってから、なんかずっと、機嫌悪いし……」

 携帯が鳴った。表示は『佐山CMO』。そのまま着信を切る。

「だから……さ、い、一緒にご飯でも、どうかなって思って。紗和ちゃんが今日がイヤなら、別に今日じゃなくって……も、いいんだ。また別の日でもいいし。そ、そういえば僕たちって、よく考えたら、まともに一緒に……、お、お出かけとか、したことないなって……」

 また携帯が鳴った。
佐山CMOからの着信を鳴りっぱなしのまま無視していたら、留守電に切り替わった。

『君のおじいちゃんの絵が見つかったんだ! その絵を見に行こうかと思って予約を入れてみたんだが、どうだろう!』

 そう聞こえた瞬間、速攻で電話に出る。

「それって、どこですか?」
「君もいるんなら、もっと早く電話にでたらどうなのかな」
「質問に答えてください」
「くっ……。あ、新しく山の上にできた、レストランだよ。ちょっとした話題になってただろ? ほぼ廃墟と化していたバブル時代の建物が、最近になってレストランに生まれ変わったって」
「あぁ、あの有名なお城ね」
「そこに、先日のアートフェスのオークションで落札された『山』が飾られることになったらしいんだ。どうだろう、見に行ってみないか?」
「いいですね。行きましょう」
「はは。そう言うと思った。そういう時の返事は早いね」
「はい。行きたいです、行かせてください」
「分かった。じゃあこの後で、6時には迎えに行くよ」

 電話を切る。
その私の目の前で、卓己は顔を真っ青にしていた。
しまった。失敗した。

「な……。なんで僕じゃなくて、あの人なの?」
「じゃあ聞くけど、逆になんであんたじゃなきゃダメなの?」
「ぼ、僕だって、あの絵が落札された先が、あの山の上のって、知ってたし! そ、それに、驚かそうって……」
「ゴメン。これから用事があるから。帰ってくれる?」
「それ、本気で言ってる?」

 卓己を無視して、私は寝巻きのボタンを外す。

「わ、……。分かった。もう帰るから! 急に、押しかけてきてゴメン。今度から、こういうことは、しない……ように、するよ」

 卓己は逃げ出すように玄関から出て行く。
私は卓己から卒業しなければいけない。
きっと彼をいつまでもここに縛りつけているのは、私自身なんだ。
卓己自身も、私から解放されないと。
彼の自由を、これ以上奪っていては駄目なんだ。
私たちはきっと、それくらい長すぎる時間を、一緒に過ごしてしまった。
互いに足を引っ張り合うような負担にだなんて、なっていいわけがない。

 時計を見上げる。
時間は11時を回ったところだった。
私は着ていく服をどうしようか考えながら、洗濯機のボタンを押した。