「あなたのおじいさんの絵は、どうか持って行って下さい。私たちの、思い出を取り戻してくれたお礼です。今度は私たちの描いた新しい絵を飾って、ミツルのお父さんをここに招待したいから。その時は、サワコさん。あなたももう一度、ここに来て下さいね」

 とてもにぎやかで弾丸みたいなアニタの提案で、突然のパーティーが始まった。
といっても、宅配のピザを頼んで、充さんちにあったスパークリングワインを開けただけだけど。

「充さん。あの絵、本当にもらってもいいんですか?」

 みんながわいわい楽しんでいる最中に、私はそっと尋ねてみた。

「いいですよ。ぜひ持って行ってください」

 私は懐中電灯を借りると、こっそりと別荘を抜け出した。
すっかり日の落ちた海沿いの崖上は、潮風が強く吹きつけ髪がめちゃくちゃにかき乱される。
卓己が開けた扉から、私は灯台の中に入った。
真っ暗な階段も、手にした灯りさえあれば大丈夫。
三階まで上がると、私はおじちゃんの絵を壁から外した。

 窓の下には、ぽっかりと開いた落とし穴がそのままになっていて、暗闇がそこに続いている。
ほんの数時間前に、私が落ちた穴だ。
なんでこんなところに落ちてしまったんだろう。
不注意な自分が情けなくて、みっともなくて、もうこの暗闇の中に落ちたまま、永遠に閉じこもってしまいたい。
そしたらもう……。

「一人でこんなところに来たら、危ないじゃないか」

 卓己だ。
振り返ってその姿を確認した私は、大きく息を吐き出す。

「来たら危ないのは、卓己でしょ」

 壁から外したおじいちゃんの絵を卓己が持とうとするから、私はそれを拒否すると階段へ向かった。

「ほら。もう帰るよ」
「さ、紗和ちゃん。え……っと、絵を持ったまま、その階段を降りるのは、危ないよ」
「あはは。くだらない」

 卓己に手伝ってもらわなくても、自分で出来ることは沢山ある。

「もう子供じゃないんだから。平気よ」
「持つって言ったのに……」

 卓己のすねたような声は聞こえないフリをして、私は一階まで降りると、入り口の扉を絵を抱えたまま背中で押し開け外に出た。
卓己は吹き付ける海風の中を、後からついてくる。

「ね、ねぇ、紗和ちゃん! さっきから、なに……怒ってんの?」

 強い潮風の中で、卓己の声も乱される。

「な、なんか紗和ちゃん。さっきから、ちょっと変だよ!」
「早く帰りたいの! ここは私には場違いな所だし!」

 アニタも美大出身で、現代アートにとても詳しい。
ここでの会話は、ほとんどが彩色や立体構造、パースの話しばかりだ。

「卓己がまだ居たいなら、私は先にバスで帰るけど」
「さ、紗和ちゃんが帰りたいなら、もっと早く、そう言えばいいじゃないか!」

 卓己は私に追いつくと、手から絵を奪いとろうとしている。

「ねぇ、やめてよ。私は自分の手で取り戻したいんだって、いつも言ってるじゃない!」

 暗闇の中でもみ合う私たちの間で、絵が強風に煽られる。
卓己は額縁を掴んでいた手を放した。

「分かったよ。紗和ちゃんがそう言うなら、今すぐ帰ろう!」

 卓己は絵を持つ私の腕に自分の腕を絡ませると、ぐいぐい引っ張りながら乱暴に歩き出す。

「ちょ、なんなの? おかしいのは、卓己じゃない!」

 卓己の腕から逃れようと思うと、おじいちゃんの絵を落としてしまう。
私が逃げられないと知ったまま、卓己はテラスからリビングに入ると、声高に宣言した。

「ゴメンなさい。雨も降りそうだし、遅くなるから今日はもう失礼します。久しぶりに再会した、お二人の邪魔をしても悪いし」

 卓己はにこっと笑って、ウインクまでしてみせる。
いつの間に、こんなことが出来るようになったんだろう。
そんなことすら、知らなかった。
アニタと充さんは泊まっていけって言ったけど、卓己にはどうしても急ぐ仕事が待ってるんだって。
レンタカーの後部座席に絵と一緒に乗り込むと、千鶴は当たり前のように助手席に座る。

「ありがとう。サワコ、また来てね」

 アニタと充さんに見送られ、私たちは笑顔で手を振った。
車が動き出すと、すぐに千鶴は大きなため息をつく。

「あーあ。あの二人、絶対デキてますよね。いいなー、私も彼氏ほしい~」

 千鶴が運転席と助手席の間から、チラリと後ろをのぞき込んだ。

「ね。紗和ちゃんも、そう思わない?」
「いとこ同士って、結婚できたっけ」

 そんな質問に、ここで答えるつもりはない。
卓己はまだ怒っている。
喧嘩の真っ最中だなんて、千鶴には絶対バレたくない。

「雨が降り出す前に帰らないと。天気予報が悪かったの知ってたのに」

 ハンドルを握る卓己の表情は、私からは見えない。
だから卓己にも、私の顔が分からない。

「車なんだから平気でしょ。オープンカーでも、屋根は出せるし」
「車から玄関までの間に、濡れるじゃないか」

 どんよりと垂れ込めた雲が、みるみる夜空を覆い始めている。

「ホンとだね。それで卓己が風邪でも引いたら、もっと大変だ」

 私の放った言葉に、誰からの返事もなかった。
千鶴を先に送り届けると、車中に取り残されたのは、私と卓己だけになってしまった。
卓己はずっと車を運転していて、私は後部座席にいるのに寝たフリも出来なくて、じっと暗闇のなかを、おじいちゃんの絵に視線を合わせている。