「あぁぁしまったぁぁ!」
「なになに、どうした? 忘れ物?」

 車はちょうど、白薔薇の垣根前に到着したところだった。

「もう一つあったんです、ペーパーウェイト! これだけじゃなくて、オレンジの! 賭けをしていたのに、すっかり忘れてましたぁ!」

 突然取り乱したかのように騒ぎだした私を、きっと彼も呆れたに違いない。

「まぁ、少し落ち着いて。こういう値のつきにくい作品は、オークションに出る機会も少ないけど、所有者が分かっていれば、なんとかなることもあるから」

 半分泣きかけていた私の髪に、彼の指がからみつく。

「なんとかって?」
「なんとかさ」

 彼はニッと笑って、絡めた髪に唇を近づける。

「やっと僕に相談してくれたね」

 相談するつもりはなかったけど、相談しないことには、絶対になんとかなりそうにない。

「じゃあここは一つ。その、さ。作戦会議ということで……」

 彼は急に大きな体を、もじもじとひねり始めた。

「その……。対偶のペーパーウェイトの、片割れを見せてもらえないかな」
「は?」
「あ、他の作品は残ってなの? その、卓己くんの対になってるやつ。なければ別に、それはそれでなんていうか……」

 そうだった。
結局この人の興味って、ここに尽きるんだった。
今さら別にいいんだけど。

「ありますよ。よかったら、見にきますか」
「え! アトリエに入っていいの?」
「いいですよ」
「や、やった! ちょっと見たら、すぐに帰るから!」

 彼は車を降りると、喜々として家の中に入ってきた。
私はおじいちゃんのアトリエに、彼を案内する。

「わぁ! ……。あ、あぁ……。なるほどね」

 どんなアトリエを想像していたのか、予想はつく。
今の祖父のアトリエは、何一つ作品の残っていない、ただの広い空き部屋でしかなかった。
彼の期待していたものとは、全く違う。

「ふふ。残念だったでしょ? これが私の、他の人にこの部屋を見せたくない理由なんです」

 私は二階にあるアトリエの窓を開け、部屋の空気を入れ替える。

「おじいちゃんの孫だって言うと、必ずその次に言われるのが、『アトリエを見せて』だから。見せたって、見せるものがないんです」

 私は宇宙色のカップの横に、おじいちゃんの青いペーパーウェイトを並べる。

「まだこの二つ、この二つだけなんです」
「僕に出来ることがあれば、なんでもするよ」

 彼は深く黒い目に、泣き出してしまいそうになるのをぐっと堪える。
今ここでその言葉に甘えることが出来たなら、泣いてその胸にすがることが出来たなら、どれだけ楽になるだろう。

 だけどこの人に対して、ほんのわずかでも頼ってしまいたいという感情を抱いた時に、この関係は終わってしまうだろう。
他になにもない私が、彼以外の選択肢を捨てるということだ。
そんな弱く情けない自分なんて、許せない。