巨大な展示会場のほぼ全て貸し切ったアートフェスは、本気で大規模な展示会だった。
アート展らしく会場の入り口の高い天井から太陽と月をモチーフにしたという不思議なオブジェがぶら下がっていて、階段の手すりにツタに埋もれたドラゴンの装飾が巻き付けられている。
床やちょっとした壁の一部にまで、何らかの絵や仕掛けが施されていて、前を横切るとセンサーに反応して動き出すものもあった。
参加ギャラリーごとに個別ブースも設置されていて、会場のあちこちに絵画や骨董品、宝石や彫刻が並んでいる。
「す、凄い!」
足を踏み入れた瞬間、私は会場の雰囲気にすっかり圧倒されていた。
いつもおじいちゃんのアトリエを遊び場にしていた私にとって、美術品に囲まれることは特別なことではなかった。
それでもこの会場にあふれる真新しいアートの空気が、息をする度に私を生まれ変わらせている感覚が震えるほど分かる。
肌身に染みついた祖父の作品にはない、今を生きるアートの力強さを全身に打ち付けられている。
「紗和子さん。ね、いいだろ? 見に来るだけでもその価値があるって、分かってくれた?」
「はい。なんだか息が苦しくて、ドキドキします」
「はは。それはよかった」
どれもこれも、初めてみるものばかりだ。
手すりに巻き付けられた焦げ茶色の小さなドラゴンと目が合うと、彼はゆっくりとその精巧な瞳でまばたきをし、あくびする。
おじいちゃんの作品目当てにオークション会場へ行くときはいつも、わずかなお金を握りしめ、競りという戦いに挑むためのものだった。
勝負とか駆け引きだとか、そんなものをなにも気にしないで、並べられた作品にゆっくりと目を配ることなんて、ずっと忘れていた。
「あ、ありがとうございます。本当に、来てよかったです」
胸の鼓動が止まらない。
自分にかけられていた呪いから、ゆっくりと解放されてゆくのが分かる。
彼が楽しそうに蘊蓄を語るのを聞きながら、混雑した一般会場を一周し、二階に設置された特設会場に入った。
「ずっと申し訳なく思ってたんだ。紗和子さんを泣かせたこと。俺にとっては、面倒な相手を黙らせるためのものだったのに、誰かにとってそれは、とても大切なものだったんだって」
「もう気にしてませんから」
佐山CMOが受付で招待状を見せると、私たちに入場許可証が渡された。
「君は有名なんだってね。いつも泣いて会場を後にしてるって。それを聞いて、俺は逆に三上恭平は泣いてるんじゃないかと思ってね。きっとおじいちゃんは、紗和子さんを泣かせるために作品を作ったんじゃない」
薄暗いトンネルのような通路を抜け、ロビーに出る。
ここからは一般参加者は入場出来ない制限区域だ。
オークションに出品される作品だけを並べた展示室へ入る。
「だから君を泣かせてしまった俺が、今度は笑ってほしくて。泣かせっぱなしじゃ、後味悪いだろ?」
一番奥に堂々と掲げられた絵の前に立ち止まり、それを見上げる。
深く濃い緑の山々にぼんやりと霧のかかる風景画だ。
力強い岩肌と風雪に耐え真っ直ぐに伸びた木々が大胆に描かれ、そこに浮かぶ柔らかな靄との対比が、とても美しく描かれている。
「これが今回のオークションの目玉の一つ、三上恭平の『山』だね」
この絵は、私が生まれる前に描かれたものだ。
見たことがない。
だけど確かに、おじいちゃんの作品だと分かる。
「三上恭平といえば、多彩な人だったから。陶芸や彫刻なんかも残しているけど、やっぱり一番は絵画作品だよね」
「えぇ。おかげで絵には、手が出ません」
そう言うと、佐山CMOは誰に遠慮することなく笑った。
「あはは。まぁ、紗和子さんの気持ちは分かるけどね。だけどさぁ、やっぱり三上恭平の独り占めはよくないと思うよ」
快活な笑い声に、周囲の注目が集まる。
佐山CMOの存在に気づいた人もチラホラと出てきたようだ。
「CMOは、どうしておじいちゃんの作品が好きなんですか?」
その質問に、彼は人懐っこいいたずらな笑みを浮かべた。
「ひみつ」
あどけないその笑顔に、私は耳まで赤くした。
自分より年上の、背の高いその人を見上げる。
「ひみつって、別にいいじゃないですか」
「さあ、他の作品も見てまわろう」
彼にエスコートされ、フロアを巡回する。
誰もが彼に話しかけようとして、私が隣にいることに遠慮していた。
その視線は嫉妬なのか嫌悪なのかよく分からない。
そりゃ他人のデート現場に足を踏み入れようとは思わないよね。
本当は私と佐山CMOは、全然そんなことないんだけど。
スッと伸びた背筋に、楽しそうにアートについて語る横顔を見上げる。
こうやって彼は、今までに何人の女性と様々な時を過ごしてきたのだろう。
「佐山CMOは、イヤじゃないのですか」
「なにが?」
「注目されたり、世間の期待に応えていかなきゃって思うこと」
誰かに聞いてみたくて、だけど決して聞くことの出来なかった問いを、初めて彼に投げてみる。
「別に」
「どうしてですか」
彼はその端正で整った顔に、これ以上なく穏やかな笑みを浮かべた。
「自分以外に、自分はないから。それに悩んでも仕方なくない?」
「自分に嫌になることはないんですか」
「なることもあるけど、だからってどうしようもないでしょ。それで変われるものでもないし」
数々の美術品の並ぶ中、彼は人魚姫をモチーフにした大理石の小さな彫刻の前で膝を曲げると、それに視線を合わせた。
「俺が本当になりたかった自分になれてるかって言ったら、そうでもないし」
「えっ」
嘘だ。
避難の目を向けたら、彼は笑った。
「ね。だから他人から見た自分の評価なんて、意味ないんだって」
人魚姫の彫刻は、小さな白く滑らかな肌をして柔らかそうに見えるのに、ちゃんと固い。
「自分が成功したと思ってるなら、それは成功だし、そうじゃないのなら、世界中からどれだけの羨望を浴びたって、負けだよね」
彼は私の腰に手を回すと、それを引き寄せた。
「ま、俺がモテるのは、自分でもちょっと異常だと思ってるけど?」
「詩織さんの一件があっても、まだそう思ってるんですか?」
私は近づきすぎた彼の体を押し返す。
「え? だって今まで会った女の子から、俺、嫌われたことないんだけど」
冗談なのか本気なのか、どっちともとれるような顔でフンと鼻をならす。
「ま、それでも本当に好きな人から好かれないと、意味ないんだけどね」
「CMO、好きな人いるんですか? 誰です? 会社の人?」
「ひっみつー!」
あははって笑って誤魔化すから、どれだけ問い詰めてもそれ以上は答えてもらえない。
じゃあ紗和子さんの好きな人を教えてくれたら教えてあげるよって言われても、そんな人なんていないんだからズルい。
「ほら、紗和子さんもやっぱり、俺のことが気になってきたでしょ?」
「なってません!」
「本当に?」
私には眩しすぎる、その笑顔を向ける。
「俺は紗和子さんの好きな人がどんな人なのか、気になってるけど?」
頭に血が上る。
目の前がくらくらするのは、返す言葉が見つからないから。
立ち尽くす私と佐山CMOの前に、おばさま三人組が現れた。
「あら颯斗さん。今日はまたずいぶんとかわいらしい女性を連れていらっしゃるのね」
にこやかに私たちを取り囲んだのは、ギッタギタの宝飾品で身を固めた、おばさまたちだ。
彼女らがお金持ちなのはよく分かったけど、ファッションにセンスはない。
佐山CMOとおばさま方は仲がいいのか、彼は上機嫌で応えた。
「紹介しますよ。彼女は三上恭平氏の実のお孫さんです。僕が見つけて、連れてきたんですよ。凄いでしょ」
「まぁ! あなた、そうでしたの?」
「それはとっても素敵なことね」
私は自分の持つ最高の愛嬌でもって、そのまなざしににっこりと微笑む。
彼女たちは大げさなほど私の容姿を「かわいい」などと褒めそやしてくれるけど、聞いてる方はむずがゆくて仕方がない。
いま来ている服は全部佐山CMOが選び着せられたものだ。
あからさまなお世辞にも、彼はまんざらでもないようだ。
「ね。紗和子さんは、かわいいでしょ?」
「えぇ本当に。私の若い頃にそっくり!」
おばさまたちのおしゃべりは、ぺちゃくちゃと一向に収まる気配はない。
私はそれに適当に返事をしながら、機嫌良く会話を続ける彼の横顔をチラリと見上げた。
まぁ、そういう紹介になるよね。
三上恭平の孫だって。
楽しそうに話す彼の言葉に、傷ついている自分がいる。
彼に悪気はないことも、十分に分かっている。
得意げに私を自慢する彼にとって、私の役割は黙って彼の隣にいること。
ここに来る前から、そう言ってたじゃない。
自分だって納得した。
彼が私を連れてきた本当の目的は、話題作り以外のなにものでもない。
服も買ってもらったし、私はこの人と一緒じゃなければ、このオークションルームには入れない立場だ。
入場許可証である招待状を持つ人と、その同伴者一人だけがここに入ることが許されている。
おじいちゃんの絵に会いに来るためだもの。
これくらいのことは、何でもない。
こんなことぐらいしか、私には彼に返せるものがないから、その役割をちゃんと果たさなければ……。
「先日、デイリーオークションの会場で女性を泣かせたと、さんざん周囲から怒られましたからね。もうそんなことはしませんよ」
おばさまたちは笑って、「よかったわね、仲直り出来て」なんて言ってる。
私は「えぇ、そうですね」なんて言いながら微笑んだ。
そういうことだ。
彼は彼の所属する社交の場で、名誉の回復がしたかっただけだ。
決して私を一人の友人とも、ましてや恋人とも紹介はしない。
社員じゃなかっただけ、マシなのかも。
すぐに別のおじさまがやって来て、おばさま方と一緒になって話し始めた。
佐山CMOのアクセサリー役を引き受けたといっても、さすがにずっとお人形のまま、じっとしてはいられない。
私はじわじわとCMOから距離を取りつつ、ゆっくりとその場を離れた。
広い会場だ。
迷子になったって、携帯ですぐ連絡はとれる。
いつまでも自分じゃない自分を作っているのも疲れるから、悪いけど一旦休憩させて下さい。
そもそも祖父の作品に関する知識しか持っていない私には、彼らの広範囲にわたるアートの話題に、とてもじゃないけど、ついていけない。
その輪を抜け出し、もう一度おじいちゃんの絵の前に立って、別れを惜しむ。
3千万円。
3千万円からのオークションスタートかぁ~。
額縁の脇に小さく添えられた金額に、複雑な気分になる。
値段が全てではないことは、もちろん分かっている。
だけど、父が最初にこの絵を売った時は、いくらの値をつけていたんだろう。
そしてこれから、どれくらいの値がつけられるのだろう。
祖父との折り合いの悪かった父は、寡黙な人だった。
病弱でいつもベッドに寝込んでいるような人だった。
そんな父は3千万以上の価値を、祖父の作品に見ていたのだろうか。
自分のものではない作品を見上げる。
背後から、覚えのある声が聞こえた。
「あら。ずいぶんとこの絵を熱心にごらんになっているのね、興味がおありかしら」
私は瞬間的に身構えると、慎重に声の主を確かめた。
この声は、忘れたくても忘れられない。
「三上恭平の孫が来ているっていうから、冗談かと思ったのに。本当に来ていたのね。驚いた」
豊橋良子。
おじいちゃんの昔の恋人で、私の父の産みの親だ。
個人で画商みたいなことを始めたとは聞いていたけど、失敗した。
まさかこんなところで鉢合わせするなんて。
これだけの規模のアートフェスだ。
彼女がここにいたって、不思議じゃない。
「聞けば、佐山商事の息子さんと同伴だとか。ずいぶんといいお相手を見つけたものね」
歳のわりに手入れの行き届いた気持ち悪いほどつるつるした肌で、彼女はにっこりと微笑む。
髪は完全に白髪で、きっちりセットされていた。
キラキラと光るラメ入りの派手な白いスーツに、ぽっちゃりとした身を固めている。
「彼にかわいくお願いして、この絵を競り落としてもらうつもりかしら」
「そんなことしません」
「まぁ! それじゃあ、彼をここに連れてきた意味がないじゃない」
この人は父の葬儀の後で一度だけ面会した、私の祖母にあたる人だ。
身寄りをなくした私の、扶養義務を負わないということだけを互いに書面で確認して、すぐに別れた。
彼女は17歳の時に、おじいちゃんと道ならぬ恋をして父を産み、その父が3歳の時に子供をおいて家をでた。
元々資産家のお嬢様だったらしいが、とっくの昔に自分の家よりもさらにご立派な資産家一族と再婚し、完全に過去を切り捨てて生きている。
「聞いたわよ。競りで負けて泣いて帰ったって。あんまり恥ずかしいこと、しないでくれる?」
「あなたとは、全く関係ありませんけど」
「あぁ、それもそうだったわね。だけど、三上恭平の孫がお金に苦労してるなんて、あまり聞こえのいい話しじゃないでしょ。いつまでもあの人の名前で金になる男漁りしてるだなんて。恥を知りなさい」
「あなたの価値観だけで、勝手な話をしないでもらえます?」
「やってることを外から見れば、そうだと言ってるのよ。分かってやってんでしょ」
吐き捨てるように言われ、拳に力が入る。
なんて言い返せば、分かってもらえるのだろう。
そもそも私の存在を自分にとっての害悪としか思っていない相手に、話なんて通じるの?
「あら、怖い顔。やっぱり可愛くないわね。声かけるんじゃなかった」
彼女の指には他のおばさま方と同様に、ぎったぎたに大粒の宝石をはめた指輪がいくつもつけられていた。
だけど唯一、右手の薬指にだけはなにもつけていないことに、何かが引っかかる。
「ねぇ、どうしてその指にだけ、指輪をしてないの?」
「え? なんですって?」
急に不機嫌を顕わにした彼女の背後から、見知らぬ若い男女が顔をのぞかせる。
「あら、おばあさま。珍しいのね。誰とお話ししていらっしゃるのかしら」
現れたのは私より年下の、まだ大学生っぽい二人組だった。
お揃いで仕立てたような白とグレーのスーツを着ている。
おばあさまは私と接触している現場を本気で見られたくなかったのか、それまでと打って変わってにっこりと愛想笑いを浮かべ、私に紹介を始めた。
「彼女は豊橋紅。この子は想よ。よろしくね」
二人のツンとした雰囲気が、いかにも意地の悪そうな感じだ。
指輪の話、そらされちゃったな。
「二人とも、私のかわいい孫なの」
そう言うと彼女は、彼らの肩を愛おしそうに抱き寄せた。
目の前に私というもう一人の孫がいるのに、穏やかに微笑んでみせる。
だけど私だって、この人と血のつながりがあることを、他の誰にも言いたくないし、知られるのも不愉快だ。
それは彼女にしても同じ考えだったらしく、私たちは一番大切なことに口をつぐむ。
「紅。この子はね、佐山商事の息子さんと一緒にこの会場に来てるのよ。あなたも少しは見習いなさい」
紅と呼ばれた女の子は、肩まで伸びた明るい栗色の髪をふわりとなびかせた。
「佐山商事? あぁ、あの軽そうな男か。次男でしょ。会社継ぐわけじゃないし」
「そこから人脈広げなさい。あれくらいの最低ラインは維持してほしいわね」
紅を一瞥し、おばあさまは立ち去る。
その背中に彼女はボソリとつぶやいた。
「そんなこと、言われなくても分かってるって」
隣にいた想はフンと鼻で笑う。
イヤな感じ。
いずれにしても、関わりたくない。
「じゃ、私はこれで」
おじいちゃんの絵を前にして、なんて展開だ。
ムカムカする。
紅と想の姉弟を残して、私も足早にそこを立ち去った。
オークション開始時間には、まだ少し時間がある。
私は入場制限のある特別会場から、一般会場へと足をのばした。
ここなら佐山CMOもいないだろうけど、あのバアさんと孫たちもいない。
アートフェス一般会場の即売品を、ゆっくりと見て回る。
到底手の出せないような高額品から、手ごろな値段のものまでずらりと並んでいた。
それぞれのギャラリーが取り扱う作品の雰囲気から店の個性や得意分野が分かって、見ているだけでも面白い。
一階展示場に比べ、人の少ない二階展示場をゆっくりと見て回る。
二階会場は宝石や海外からの出展で、自由に出入り出来るとはいえ、賑やかな一階会場とは随分と雰囲気が異なり落ち着いていた。
ふと視界に入ったギャラリーの受付に、白磁の置きものを見つけた。
丸く平らな作りのペーパーウェイトで、白地に大きく花の模様が型押しされ、鮮やかに彩色されている。
おじいちゃんの作品だ! それも2つ!
私は勢いに任せ、それに飛びついた。
「これ! これ、どうしたんですか!」
受付に座っていた女性は、びっくりして顔をあげた。
「これ! これ下さい。2つともです。青とオレンジの両方、全部! いくらです? 他にも在庫ありますか? いくらで譲っていただけます?」
「あ、あの……。申し訳ございませんが、こちらは売り物ではございませんので……」
「じゃあ、これください。これが欲しいんです。買います。売ってください」
受付の女性二人は、困ったように顔を見合わせた。
「あの、こちらは売り物ではないので……」
「どなたにお願いすればよろしいですか? どうしてもこれが欲しいんです」
受付のお姉さんたちが困っているのも分かるし、自分だって無茶言ってるのも分かってる。
だけどここで引き下がってしまえば、もう絶対に手に入らない。
男性の営業マンが間に入って、別の作品をすすめてくれたりしたけど、私だって、簡単に引き下がるわけにはいかない。
「お願いします。どうしてもこれが欲しいんです!」
作品としては日の目をみることのない代物だ。
しばらく押し問答をくり返していたら、奥から人が出てきた。
あの紅と想だ。
「何を騒いでいるのかと思ったら、一体なんなの」
「ここ、あなたたちのブースだったの?」
「そうよ。ここはおばあさまが趣味で始めたギャラリーなの」
最悪だ。
冷静さを取り戻した私は、ようやくギャラリーの中を見渡す。
アンティークの雑貨や食器、宝飾品などが並ぶ、よくある店だ。
だけどそれならば、なおさらこの作品は取り戻さねば。
私は背筋をピンと伸ばすと、改めて交渉に入った。
「これが売りものでないんだったら、私にくださらない? どうしても手に入れたい品なの」
紅はフンと笑うと、髪色と合わせたようなミルクティー色のカラーでネイルされた爪を伸ばし、二つのうちのオレンジが主体で色づけされた方を手に取った。
「ねぇ、あなた。あのおばあさまとどういう関係? あの人、自分の利害と関わりのない人間とは、一切口をきかない主義なのよ。時間の無駄だとか言っちゃって。それなのに自分からわざわざ話しかけにいくなんて、とっても珍しいことなの」
「そうなんだ。悪いけど、理由は分からないわね。あの人の興味があるのは、私の彼氏じゃないの?」
「彼氏って、佐山商事の次男のこと?」
ピクリと反応した紅に、私は腕組みして、思いっきり上から目線でにらみつける。
こんな年下の小娘に喧嘩売られて、大人しく引き下がるような私じゃない。
「さぁね。私は別にあの人のことなんて、なんとも思ってないんだけど。今日もね、彼に無理矢理誘われて、ここに連れてこられたの。そうそう、今着てるこのワンピースもね、ここにくる直前に、彼にお店に連れていかれて、そのままプレゼントされたものなのよ。ホント、困った人ね」
「あぁ、そうですか。よかったね」
紅は興味なさげに視線を横に流した。
嘘はついてない、嘘は。
「あなたには、そんな素敵な恋人はいらっしゃらないのかしら?」
紅はそんな挑発には乗らず、首を傾けた。
「こんなゴミみたいな作品の、どこがいいのかしら。正直言って、出来損ないだわ。三上恭平の名前がついてなければ、せいぜい千円か2千円程度の、どこにでもあるような、ただの重しよ」
「えぇ、そうかもね。あなたの目には、それはゴミのように見えるかもしれないけど、私にとってはそうじゃないの。れっきとした価値のある作品よ」
「自分には、その価値が分かるって言いたいの?」
紅はオレンジのウェイトを口元に当てると、にやりと笑った。
「じゃあ、あなたはもし、私がこのペーパーウェイトをゴミ箱に捨てたら、あなたはそのゴミを漁って持ち帰るのかしら?」
隣でずっと退屈そうに聞いていた想が、くすくす笑った。
「それいいね、紅。捨てちゃえば?」
「だよね」
紅は受付台のすぐ横に置いてあったゴミ箱に、ウェイトを持った手を大きく振りかざした。
「捨てたければ、捨てればいいじゃない! 例えそれが無名作家の作品であっても、誰かが作った大切な作品をゴミ箱に捨てるような人間は、美術商にはむいてないわ!」
紅は振り上げた手を下ろすと、ふわりと巻いたミルクティー色の頭を傾け、じっと私を見つめる。
「そうね、分かったわ。あげるわよ。でもね、ただそのままあげるんじゃ、面白くないじゃない? ゲームをしましょう。この会場のどこかに、このペーパーウェイトを隠すのって、どう? 見つけたら、あなたのものよ」
紅は自分の思いつきに満足したのか、フッと笑った。
「私たちが手に持っている間は、そこから奪いとっちゃダメ。同時に見つけた場合は、先に取った方が勝ち。どう?」
「ずいぶんとあなたたちに有利な条件ね。それをずっと手に持っていたら、意味ないじゃない」
「そんなずるいマネは、さすがにしないわよ。どうする? 私たちは別に、あなたにこれを譲っても譲らなくても、どっちだっていいのよ」
ここで引き下がったら、もう二度とこのペーパーウェイトは手に入らない。
「わかった。やる」
姉弟は示し合わせたように目を合わすと、にやりと微笑んだ。
「じゃ、俺はこっちね」
想はテーブルに置いてあった、もう一つの青を基調としたウェイトを手にとる。
紅と想の二人がおじいちゃんのウェイトを手に、私の前に立ちはだかった。
「目をつぶって、ゆっくり30秒数えてちょうだい。そこからがスタートよ」
覚悟を決める。
ぎゅっと目を閉じて、ゆっくりと心の中で秒を刻む。
1、2、3……、28、29、30!
目を開けると、こぢんまりとしたブースに、困惑した表情のままの受付のお姉さんと、従業員らしき数人しか残っていなかった。
私はそこを抜け出すと、二階会場の通路から階下に広がる広大な会場を見渡す。
ゲームの始まりだ。
あいつらはオークションの行われる特設会場にも入れるし、業者専門の一般参加者立ち入り禁止区域にも入れる。
よく考えてみれば、とんでもなく不利な条件だ。
それでも、やるしかない。
おじいちゃんの作品を撮り戻すためだ。
展示会場ののべ床面積は7万㎡。
壮大な宝探しが始まった!
吹き抜けとなっている中央階段脇の二階通路から、階下を見下ろした。
会場の賑わいは、午後に入っても衰えていなかった。
一般展示会場となっている一階会場はもちろん、二階の入場制限のかかったオークションルームと、それをぐるりと取り囲む二階一般会場の通路にもブースがある。
どこをどう探そう。
一階西側の展示場は、個人商店や、アーティストの団体とか、サークル的な要素の強いブースも並んでいた。
美大や、地方団体の工芸品なんかも展示販売されていて、大変な賑わいだ。
いくらあの生意気そうな姉弟でも、さすがに他人のブースに侵入していくことは考えられない。
ごちゃごちゃと混雑した所に放置したとしても、落とし物として届けられるか、心ない誰かが勝手に持って行ってしまうだろう。
この状況下で、事情を知っている自分たちのブース内に隠すとも思えないし……。
「よし。決めた」
見下ろす一階会場に背を向ける。
私は捜索場所を、特設会場に絞った。
通路を進み、オークションルームと、その展示場になっている広間へ向かう。
チェックを受け人通りの減った連絡通路の向こうに、くるくると巻いた短い茶髪を見つけた。
弟の想だ!
見つからないようしっかりと距離を取りながら、こっそり後をつける。
彼はグレーの細身のスーツに、すらっとした足と腕で、軽快な足取りで歩いていた。
抜群にスタイルはいい。
このままバレないよう後をつけ、彼の手からウェイトが離れた瞬間手に入れれば、条件クリアだ!
想はおじいちゃんの大切な青のウェイトを片手に、ふらふらとあちこちを物色しながら歩き方をしている。
どうやら彼なりに、隠し場所を考えているようだ。
時々立ち止まってウェイトを口元に押しつけたり、手に持ったままぶらぶらと振り回してみたり、とにかくウェイトの扱いが雑な上に危なっかしい。
私は彼の後をつけながら、その様子にずっとハラハラしていた。
割れ物なんだから、もっと大事に扱ってよね!
その想は展示会場前のロビーで、どうやら知り合いと鉢合わせたようだ。
ウェイトを片手にすっかり話し込んでいる。
想と同級生か、もしくは同じくらいの年齢の男の子たちだ。
私は彼らの視界に入らないよう、おつまみ程度の簡単な軽食と飲み物が振る舞われているロビーで、いつでも動けるよう気を遣いながら、人混みに紛れ想の監視を続けた。
しばらくして、ようやく彼らと別れ、また一人で歩き始めた。
携帯を取りだし、しゃべり始めたと思ったら、すぐにそれを切ってポケットにしまう。
そこから彼は、特設会場の展示室内でじっと立ち止まったまま、動かなくなってしまった。
何を考えているんだろう。
どうでもいいけど、早く何とか動いてくれ。
私はもう一つの、紅の持つオレンジのウェイトも追いかけなくちゃいけないんだから。
どうしたものかと思った瞬間、その想がパッと動き出した。
彼は間違いなく、隠し場所に検討をつけた。
足取りが速い。
それまでのふらふらした歩き方とは打って変わって、迷うことなく進む彼は、オークション出品作品の展示場になっている特設会場を抜けだし、自分たちのギャラリーブースへ向かっている。
表の受付は無人となっていたその中に入ると、パーティションの向こうに姿を消した。
え? ここなの?
こんなところに、あの手の平サイズのウェイトを隠そうっていうの?
ちょっとズルくない?
白く薄い壁の向こうは、彼ら専用の荷物置き場だ。
パーティションの向こうをのぞき込まなければ、想の様子は分からない。
だけどそんなことをすれば、私が彼の後を追い、ここまで来たことが当然ばれてしまう。
だけど……。
薄い仕切りの向こうで、ごそごそと何かをしている物音が聞こえる。
奥には他に誰かいるのか、会話をしているのは分かるが、その内容までは聞き取れない。
ここで私が顔をのぞかせれば、彼はいま隠そうとしているウェイトをルールに従い確実に手に取るだろう。
それはこの追いかけっこが、振り出しに戻るということなんだけど……。
キッと顔を上げる。
覚悟を決めると、奥へと突き進んだ。
そんな所に隠されても、私には絶対に見つけられない。
だったらたとえ嫌がられても、顔を見せるしかない。
「すみません!」
勇気を振り絞り、その中をのぞき込んだ。
奥の狭い空間は、やはり彼らの荷物置き場になっていた。
他の従業員の上着や鞄などの荷物、文具類や書類、梱包材なんかが並んでいる。
想と荷物番らしき男性が、私を振り返った。
「なんでここが分かったの!」
想は栗色の髪にくりくりした丸い目で、驚いた顔を上げる。
「なんでって、後をつけてきたのよ」
「なにそれ、ずるくない?」
「ルールには入ってなかったでしょ。それに、こんなところに隠そうってのも、卑怯だと思うけど」
私がにらみつけたら、想は声を出して笑った。
「あのね、さすがに僕だって、こんなところに隠そうとは思ってないよ」
彼はにやりと笑って、手に持った青い花柄のウェイトをちらつかせる。
「おばあさまに頼まれてね、ちょっと荷物を取りにきただけなんだ。ほら、ちゃんとまだ手に持ってるでしょ」
ムッとした私に、彼はにこにこと笑みをこぼす。
「いやだなぁ。そんな怖い目で見ないでよ」
想は何か言いたげな従業員の男性に、「じゃ」と軽く挨拶を残して、パーティションの奥から抜け出した。
私は慌てて彼の後ろをついて歩く。
「あーどうしようかなぁ! こうやって後をつけられてると分かった今、ウェイトを隠そうにも隠せなくなっちゃったよねー」
想は私を下から見上げるようにして目を合わせると、人懐こい笑顔を向けた。
「ねぇ、お姉さん。どうせなら二人で並んで、一緒に歩こうよ」
彼は無邪気な笑顔を浮かべたまま、私の隣に並んだ。
指先が偶然かそうでないのか接触し、手を握られそうになって、それを振り払う。
「ふふ。冷たいなぁ。こう見えて僕も、女の子からは結構モテるんだけどね。まぁ佐山商事の御曹司とつき合ってるんなら、僕なんか目に入らないか」
今日の私はヒールのある靴を履いているせいか、想と視線の位置はほとんど変わらない。
彼をひとにらみしてから、1歩先に出た。
「彼氏とデートで来たっていうわりには、一緒にいないよね。だって今この瞬間も、どっちかっていうと、僕とデートしてるみたいじゃない?」
想はワザとなのか天然なのか、幼さの残るあどけない笑みをにっこりと浮かべた。
彼がからかってきてるのなんて、百も承知だ。
「想は、歳はいくつなの?」
「俺? 19」
じゅ、19か。5つも下じゃないか。
「ねぇ、お姉さんの名前は? なんて呼べばいいの」
「紗和子。紗和子よ」
勘の鋭いような子には見えないけど、名字は伏せておく。
三上恭平の孫だと知れたら、私とあのバアさんの関係にも、気づかれるかもしれない。
「紗和子ちゃんか。じゃあ、紗和ちゃんでいいよね」
彼はそれはそれは可愛らしい、屈託のない笑みを見せると、上機嫌で歩き始めた。
この人懐こい感じは、お坊ちゃま特有の性質なんだろうか。
そういえば佐山CMOも、初めからやたらフレンドリーだったな。
「あ。ねぇ、見てこの作品。僕さ、この人の作品、好きなんだー」
そんなことを言いながら、楽しそうにしゃべってるけど、私は想の好きな作品なんかに興味はない。
おじいちゃんの作品だけだ。
彼の話を完全に無視していたら、想はぷぅっと頬を膨らませた。
「もう、紗和ちゃんったら。そんなに怒ってばっかりじゃつまらないでしょ。せっかくなんだからさ、この状況を楽しもうよ」
想はにっと笑って、また私を下からのぞき込む。
「それとも、他の男と並んで歩いてるのが見つかったら、カレシに怒られちゃう?」
彼のワザと誇張した「カレシ」という言い方に、私の方が恥ずかしくなる。
「な、そ、そんなことないって!」
「あはは。紗和ちゃん、おもしろーい」
想はこれ見よがしにウェイトをチラつかせたまま、一人で私とのデートを楽しみ始めた。
あのおばあさまの孫とだけあって、アートに関する知識は私より豊富だ。
楽しそうに美術品について語る彼を、きっとこんな状況じゃなければ、かわいらしいと思っただろう。
にこにこと笑顔を絶やさず、明るく振る舞うその仕草は、あどけなさの中にもちゃんと知性と教養を感じさせる。
色白のスラリとした抜群のスタイルで、顔も悪くない。
根はいい子、なんだろうな。
そんな想が、不意にクスリと微笑んだ。
「紗和ちゃんってさ、三上恭平の孫なの?」
「え? なにそれ」
「噂になってたよ。佐山の御曹司が連れてきてるって」
やっぱり見た目だけで、人を判断しちゃいけない。
私は慎重に言葉を選ぶ。
「知らないから」
「僕も聞いたことがあるんだ。この業界じゃ有名だよね。オークション会場に現れては、三上作品の値をつり上げるだけつり上げて、結局落札できないって」
想はキラキラな笑顔を見せた。
「いや、ギャラリーとしては、ありがたい存在なんだよ。ヤラセで値をつり上げてんじゃないかって思われがちだけど、紗和ちゃんは本気だもんね」
ギロリとにらみつけた私に、想は相変わらず人懐こい笑みを浮かべる。
「だけどさ、お金持ちの彼氏、捕まえちゃったんだったら、今後はますます仲良くしておいた方がいいよね。三上恭平作品なら、必ずお買い上げしてくれるいいお客さんになるんだから。だからうちのばあさんも、話しかけたんだろ?」
「私はそんな風に、誰かを思ったことないんだけど」
「だって現に今も、コレを欲しがってるじゃないか」
想はおじいちゃんの青いペーパーウェイトを片手に微笑む。
「コレ、三上恭平作品なんでしょ?」
分かってやっていたのか。
やっぱり侮れない。
私が黙りこむと、彼はまたにこっと微笑んだ。
「三上恭平の自宅アトリエから作品が放出された時に、出てきたものだって。陶器の焼き加減を確認するための試作品だって言われてるけど、きれいだよね。一見落書きみたいにも見えるけど、丁寧に花が描かれてる。老成に達してもなお、新しい表現を模索していた様子がよく分かる作品だよ。まぁ確かに、値を付けられるような完成度ではないけど。こういうのって、全庫出品セールならではの放出品だよね」
私は彼をおいて、先を歩き始めた。
最初から分かってやっているなら、彼らにウェイトを譲る気なんてさらさらない。
時間を無駄にして、その分私が傷ついただけ。
彼から離れようと、さらに足を速める。
「あ、ちょっと待ってよ」
前を向けず、うつむいて歩いていた肩が、誰かとぶつかった。
「すみません」と顔を上げると、それは佐山CMOだった。
「こんなところにいたのか。探したじゃないか」
私はその場で立ちすくみ、じっと彼を見上げた。
そうやって顔を上げていないと、あふれてくる涙がこぼれ落ちそうだ。
「ん? どうかした?」
想はそこへ、すかさず割り込んでくる。
「あ、初めまして。僕は『les œuvres heureuses』の豊橋想といいます。祖母の経営するギャラリーの、手伝いをさせてもらっている者です」
彼は爽やかな笑顔を浮かべ、とても丁寧な挨拶を続けた。
「すみません。偶然三上画伯のお孫さんである紗和子さんとお会いして、うれしくてつい長い間お借りしてしまいました」
にっこりと笑うその洗練された姿は、どこから見ても好青年だ。
「いえいえ。こちらこそ彼女の相手をさせてしまって申し訳ない。大変だったでしょ?」
「はは。そんなことはありませんでしたよ。とっても素敵な方ですので」
想の差し出した手を、佐山CMOはすぐに握り返した。
「もうすぐオークションが始まる。想くんは見に行かないの?」
「あぁ、もう時間ですね。行きましょうか」
先に歩き出した想の背に、気分はずっしりと重くなる。
なにやってんだろ、私。
きっと今日この会場でペーパーウェイトを見かけたことだけで、幸せだったと思わなきゃいけなかったんだ。
奇跡みたいなことなんだから。
結局彼らに振り回されただけで終わってしまった。
「紗和子さん、なにかあった? 大丈夫?」
「平気です。何でもないので」
彼には頼れない。
自分で立て直さなくちゃ。
想が一瞬だけ振り返り、にこっとしてすぐにまた背を向けた。
そんな彼に、佐山CMOはムッと眉を寄せる。
「紗和子さんが嫌なら、今すぐにでも出て行くけど」
「いいえ。行きましょう。私もおじいちゃんの作品の、行く末がみたいです」
薄暗い通路を抜け、特設会場のオークションルームに入る。
びっしりと並べられた椅子は、そのほとんどが埋め尽くされていた。
壇上には巨大なスクリーンが設置され、その脇にオークショニアの立つ台と作品の実物を乗せるステージが用意されている。
私は佐山CMOと並んで腰を下ろしたが、想はここからよく見える前方の席に、おばあさまと並んで座った。
オークションが始まる。
「皆さま。本日はご来場いただき……」
あれ、紅は?
オレンジの花が絵付けされたウェイトを持っているはずの、紅の姿が見えない。
私はそっと周囲を見渡した。
もしかしたら、想とおばあさまから離れたところに座っているのかもしれない。
そう思ったのに、座ったままチラチラとのぞく程度のことでは、びっしりと埋まった会場で彼女を探し出すことは不可能だった。
「どうかした?」
「いえ……」
佐山CMOに気をつかわせてしまっている。
私はまっすぐに座り直した。
ここに連れてきてくれたのは、彼なのだから。
今だって私は、この人からプレゼントされた服を着て隣に座っているのに、自分のことばかりで、なにもしていない。
「……。あの、さっき想が言ってた、れぞーぶる・ずるーずって、どういう意味ですか」
目の前で次々と競り落とされていく作品たちを見ながら、私は佐山CMOに声をかけた。
「あぁ。フランス語で、『幸運な作品』という意味だよ」
幸運な作品……。
おじいちゃんと駆け落ちまでして産んだ父を捨て、その父から生まれた私を孫と認めない人が扱う作品のギャラリーが、そんな名前だなんて笑える。
おじいちゃんが死んでから、私にとって幸運なんて何一つなかった。
思い出は全てなくなり、残ったのは呪いのようなものだ。
「彼とは、知り合いだったの?」
「いえ。今日ここで初めて、会いました」
「そうなんだ」
同じあの人の孫なのに……なんて、そんなことを考えても仕方ないのは分かってる。
私には私の人生があるのだから。
きっとあのおばあさまにも、あの人のなりの苦労はあったんだろうと思う。
隣の佐山CMOがもそりと動いた。
「その……。ずいぶんと熱心に、彼を見ているんだね」
「えぇ、まぁ。やっぱり見ちゃいますよね」
おばあさまの真っ白な髪はくるくると巻いていて、少しぽっちゃりとしているものの、キリッとした表情は彼女の活動的な性格をよく表している。
おじいちゃんはあの人の、どこに惹かれたのだろう。
おじいちゃんと過ごした日々は、あの人にとって「幸運な時間」だったのだろうか……。
「へー、そうなんだ。紗和子さんは、ああいうのが好みなんだ」
「は? 何がですか」
「想くんみたいな、かわいらしい感じの年下」
すねているような、からかっているような、佐山CMOの言葉に、私は急速に理性を取り戻した。
「違いますよ。なに言ってるんですか」
「俺もさ、結構悪くないと思うんだけど」
そう言うと、佐山CMOはムスッと顔をそらした。
「なにがですか?」
「いや、俺がモテすぎるから、遠慮しちゃうのは分かるけどね」
彼は不満そうに愚痴をこぼし始める。
「大体さぁ、俺と一緒に来てんのに、すぐにどっか行っちゃて、そのまま帰ってこないし。探したんだよ? そもそも君が俺と一緒にいてくれないと、邪魔者避けに誘ったのに、意味がないじゃないか」
CMOは、いなくなった私を探してくれてたのか。
便利な魔除け扱いだとしても。
そう思うと、急に申し訳なくなってくる。
「……そうですね。すみません」
「ちゃんと俺の側にいて」
ざわついたオークションルームで、ロット番号は進んで行く。
佐山CMOは受け取ったパドルを手に、時折私に作品情報をささやきながら、あーだこーだとしゃべり続けていた。
それに相槌を打ちながらも、私は想のくるくる巻いた栗色頭の動向に注視している。
その想が不意に体を傾け、おばあさまに何か耳打ちをした。
彼女はそれにウンとうなずくと、想は立ち上がる。
会場を抜け出す気だ。
その気配を察した私は、勢いよく立ち上がった。
せめてもう一度、ちゃんとあのウェイトが欲しいとお願いしてみよう。
ここで逃がしては、もう絶対に手に入らない!
「すいません、ちょっと抜けます」
動き出した私の腕を、佐山CMOはぐっと掴んだ。
「ちょ、離してください。想を追いかけなくちゃいけないんです」
「僕を残して?」
ちょっぴり怒っているような、すねたような目で見上げられても、そう簡単に引き下がってはいられない。
「佐山CMOは、オークションを見てればいいじゃなですか」
「ねぇ、ずっと気になってたんだけどさ。仕事で来てるんじゃないんだから、いつまでもそのCMOって呼ぶのやめない?」
「あの、すみません。今めっちゃ急いでます」
「名前で呼んで」
くっ。今はそんなこと言ってる場合じゃないのに!
「すいませんが颯斗さん。私は彼を追いかけたいので、行ってきます」
「どうしても行っちゃうの? まだ君のおじいさんの、絵の落札結果も見ていないのに? そのために今日は、僕とここへ来たんじゃなかったっけ」
顔を上げ会場を見渡す。
想のオークションルーム出て行く後ろ姿が見えた。
このままでは、彼を見失ってしまう!
「お願いします、私を行かせて下さい。大事な用が出来たんです」
私がこれほど焦っているのに、彼は何かを考え、少し間をおいてから言った。
「君は、このアートフェスをちゃんと楽しんでる?」
「もちろんです!」
「ふーん。そうなんだ。なら行ってもいいよ」
助かった!
「じゃ、ちょっと行ってきます」
「でもさ、なにか困ったことがあったら、いつでも僕に相談することを、約束してくれ。分かった?」
「はい!」
こんなことをしている間にも、想は行ってしまうのに!
佐山CMOがのんびり小指を差し出すから、私はすぐに自分の小指を彼の指に絡める。
「約束ね。じゃあ、行ってもいいけど、ちゃんと帰ってきて」
「分かりました!」
指が離れた瞬間、走り出す。
どこに行った、想!
そして、おじいちゃんのペーパーウェイト!
私は彼の後を追って、オークションルームを飛び出した。