巨大な展示会場のほぼ全て貸し切ったアートフェスは、本気で大規模な展示会だった。
アート展らしく会場の入り口の高い天井から太陽と月をモチーフにしたという不思議なオブジェがぶら下がっていて、階段の手すりにツタに埋もれたドラゴンの装飾が巻き付けられている。
床やちょっとした壁の一部にまで、何らかの絵や仕掛けが施されていて、前を横切るとセンサーに反応して動き出すものもあった。
参加ギャラリーごとに個別ブースも設置されていて、会場のあちこちに絵画や骨董品、宝石や彫刻が並んでいる。

「す、凄い!」

 足を踏み入れた瞬間、私は会場の雰囲気にすっかり圧倒されていた。
いつもおじいちゃんのアトリエを遊び場にしていた私にとって、美術品に囲まれることは特別なことではなかった。
それでもこの会場にあふれる真新しいアートの空気が、息をする度に私を生まれ変わらせている感覚が震えるほど分かる。
肌身に染みついた祖父の作品にはない、今を生きるアートの力強さを全身に打ち付けられている。

「紗和子さん。ね、いいだろ? 見に来るだけでもその価値があるって、分かってくれた?」
「はい。なんだか息が苦しくて、ドキドキします」
「はは。それはよかった」

 どれもこれも、初めてみるものばかりだ。
手すりに巻き付けられた焦げ茶色の小さなドラゴンと目が合うと、彼はゆっくりとその精巧な瞳でまばたきをし、あくびする。

 おじいちゃんの作品目当てにオークション会場へ行くときはいつも、わずかなお金を握りしめ、競りという戦いに挑むためのものだった。
勝負とか駆け引きだとか、そんなものをなにも気にしないで、並べられた作品にゆっくりと目を配ることなんて、ずっと忘れていた。

「あ、ありがとうございます。本当に、来てよかったです」

 胸の鼓動が止まらない。
自分にかけられていた呪いから、ゆっくりと解放されてゆくのが分かる。
彼が楽しそうに蘊蓄を語るのを聞きながら、混雑した一般会場を一周し、二階に設置された特設会場に入った。

「ずっと申し訳なく思ってたんだ。紗和子さんを泣かせたこと。俺にとっては、面倒な相手を黙らせるためのものだったのに、誰かにとってそれは、とても大切なものだったんだって」
「もう気にしてませんから」

 佐山CMOが受付で招待状を見せると、私たちに入場許可証が渡された。

「君は有名なんだってね。いつも泣いて会場を後にしてるって。それを聞いて、俺は逆に三上恭平は泣いてるんじゃないかと思ってね。きっとおじいちゃんは、紗和子さんを泣かせるために作品を作ったんじゃない」

 薄暗いトンネルのような通路を抜け、ロビーに出る。
ここからは一般参加者は入場出来ない制限区域だ。
オークションに出品される作品だけを並べた展示室へ入る。

「だから君を泣かせてしまった俺が、今度は笑ってほしくて。泣かせっぱなしじゃ、後味悪いだろ?」

 一番奥に堂々と掲げられた絵の前に立ち止まり、それを見上げる。
深く濃い緑の山々にぼんやりと霧のかかる風景画だ。
力強い岩肌と風雪に耐え真っ直ぐに伸びた木々が大胆に描かれ、そこに浮かぶ柔らかな靄との対比が、とても美しく描かれている。

「これが今回のオークションの目玉の一つ、三上恭平の『山』だね」

 この絵は、私が生まれる前に描かれたものだ。
見たことがない。
だけど確かに、おじいちゃんの作品だと分かる。

「三上恭平といえば、多彩な人だったから。陶芸や彫刻なんかも残しているけど、やっぱり一番は絵画作品だよね」
「えぇ。おかげで絵には、手が出ません」

 そう言うと、佐山CMOは誰に遠慮することなく笑った。

「あはは。まぁ、紗和子さんの気持ちは分かるけどね。だけどさぁ、やっぱり三上恭平の独り占めはよくないと思うよ」

 快活な笑い声に、周囲の注目が集まる。
佐山CMOの存在に気づいた人もチラホラと出てきたようだ。