「私が詩織さんの部屋に行っている間、何してたんですか」
「俺? 最終的には、家の中をずっと案内されてた」
「このお屋敷の中を?」
「そう」
彼はずるずるとソファに飲み込まれるように座り込むと、スマホを取りだしてしまった。
特に何かを見ているといった様子でもなく、つまらなさそうにずっとそれを操作している。
どうしよう。
でもやっぱり私は……。
「ちょっと、家の中を散歩してきます」
私はふらりとそこから離れた。
日はすっかり西に傾き、春らしい山吹色の西日が松の木を照らしている。
重厚な趣の薄暗い廊下を、行く当てもなく彷徨い始めた。
詩織さんが今カップを持っているだろうというのも、所詮私の憶測でしかない。
もし本当になくなっていたら?
とっくの昔に壊されて、粉々になっていたら?
そんな不安がどうしても拭いきれない。
もらえなくたっていい。
大事にされていなくても、無事であってくれればそれでいい。
あのカップは、本当は私が作ったものだ。
夏休みの宿題か何かで、粘土細工を作ろうとして途中で放り投げてしまったものを、おじいちゃんが作り上げて焼いた。
結局学校へは持っていかなかったけど、きれいな宇宙色のカップは、私の大切なおままごと道具になった。
庭で積んだ草を詰め、ビー玉を転がし入れて遊んだ。
あのカップがもうこの世にないなんて……。
佐山CMOがすっかり動かなくなってしまった応接間のような空間から、床続きになっていた一階の廊下の奥で行き詰まる。
家の中を好きなように探していいと言われても、どこを探していいのかが分からない。
もし私が隠すとしたら、どこに隠す?
誰にも見つからないところって、自分の部屋じゃないとしたら、どこになるんだろう。
二階に上がる。
上りきったとたん、手前から2つ目の扉が開いて、お父さまの孝良氏が出てきた。
私をギロリとひとにらみしてから、詩織さんの部屋の前を通り階段を下りてゆく。
リビングに戻るつもりかな?
お父さまの部屋にも、多分カップはない。
だって彼は、リビングにそれがあるものと信じていたから。
二階はどうやら兄の学さんの部屋と、叔父の篤広氏の部屋も横並びになってるみたいだ。
他の部屋は?
トイレとお風呂になっている。
それと、リネン室っていうのかな?
脱衣場?
タオルや替えのシーツ、洗剤とかトイレットペーパーなんかのおいてある倉庫みたいなところがあった。
私は吸い込まれるように、ふらりとリネン室に入り込む。
こんなところに大切なカップを隠すはずもないだろうけど、何となくチェックしてみる。
棚の隙間やタオルの奥、どこを探してもやっぱり見つからない。
もうあきらめた方がいいのかな。
結局なくしたままにしておいた方が、彼らにとっては都合がいいのかもしれない。
佐山CMOとの繋がりを保つ手段だと考えれば、別に私なんかにわざわざ見せてやる必要もないんだ。
娘の恋敵になんて、どんな気を遣う必要がある?
どこまでいっても、あのカップが私のものになるなんてことはないのに……。
「あぁ、こんなところにいたんですか」
突然の声に振り返る。
詩織さんの兄の学さんだ。
「カップ、見つかったみたいですよ」
「え? カップが、本当に見つかったんですか?」
「はい。リビングに行きましょう」
は? マジか!
お父さん自身も大騒ぎしていたわりには、ずいぶんあっさりしてない?
はやる気持ちを抑え、私は学さんと一緒に階段を下りてゆく。
詩織さんによく似た黒髪で落ち着いた面持ちの彼は、心地よい低音ボイスでにこやかに話す。
「紗和子さんは、颯斗さんとずいぶん仲がよろしいんですね」
「いいえ。単なる従業員と上司の関係です」
愛想笑い全開の笑顔を向ける。
私はあなた方の敵ではないのですよーと、可能な限りアピールしておかねば。
「あれ、そうなんですか?」
「えぇ、当然ですよ。詩織さんという立派な恋人のいる人が、私みたいなのを相手にするワケがないじゃないですかぁ~。あははは!」
「はぁ。そうなんですねぇ」
必死で誤魔化しながら、長い廊下を移動しリビングに入る。
お父さまの孝良氏が宇宙色のカップを持ち、にこにことそこに立っていた。
「ほら。ちゃんと見つけてあったんですよ、颯斗さんのカップ!」
あぁ、よかった! カップは無事だった。
捨てられてもなかったし、壊されてもいなかった。
ホッとした瞬間、目に涙がにじむ。
これであのカップは、私の手に戻ることはなくなってしまった。
元々、自分の物になるだなんて、そんな上手い話があるわけなかったんだ。
それでも最後に一目、このカップに出会えてよかった。
私は持ち主の手にしっかりと握られたカップをしみじみとながめる。
この子とは今日で本当のお別れだ。
「いつ見ても、ステキなカップですね」
さようなら。私の思い出のカップ。
今度こそ大切に、幸せに愛されてね。
「あぁ。あなたは確か、このカップの制作者のお孫さんだったとか」
「えぇ」
「競りの様子を、詩織から聞きましたよ。まぁ、仕方ないですよねぇ、こればっかりは」
ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべると、孝良氏はそそくさとカップを木箱に戻し、元の戸棚に片付けてしまった。
ちぇ、もっとじっくり見ていたかったなぁ。
見るくらい、いいじゃないか。
減るもんじゃないし。
孝良氏は後からやって来た佐山CMOに、大げさな身振り手振りで相変わらず媚びを売っている。
この人たちも大変だな。
お付き合いって難しい。
私だってちょっとはこの人たちに、同情している。
でもこれで、私の役目も終わった。
ほっと息を吐き出す。
目標達成。
早くうちに帰りたい。
「俺? 最終的には、家の中をずっと案内されてた」
「このお屋敷の中を?」
「そう」
彼はずるずるとソファに飲み込まれるように座り込むと、スマホを取りだしてしまった。
特に何かを見ているといった様子でもなく、つまらなさそうにずっとそれを操作している。
どうしよう。
でもやっぱり私は……。
「ちょっと、家の中を散歩してきます」
私はふらりとそこから離れた。
日はすっかり西に傾き、春らしい山吹色の西日が松の木を照らしている。
重厚な趣の薄暗い廊下を、行く当てもなく彷徨い始めた。
詩織さんが今カップを持っているだろうというのも、所詮私の憶測でしかない。
もし本当になくなっていたら?
とっくの昔に壊されて、粉々になっていたら?
そんな不安がどうしても拭いきれない。
もらえなくたっていい。
大事にされていなくても、無事であってくれればそれでいい。
あのカップは、本当は私が作ったものだ。
夏休みの宿題か何かで、粘土細工を作ろうとして途中で放り投げてしまったものを、おじいちゃんが作り上げて焼いた。
結局学校へは持っていかなかったけど、きれいな宇宙色のカップは、私の大切なおままごと道具になった。
庭で積んだ草を詰め、ビー玉を転がし入れて遊んだ。
あのカップがもうこの世にないなんて……。
佐山CMOがすっかり動かなくなってしまった応接間のような空間から、床続きになっていた一階の廊下の奥で行き詰まる。
家の中を好きなように探していいと言われても、どこを探していいのかが分からない。
もし私が隠すとしたら、どこに隠す?
誰にも見つからないところって、自分の部屋じゃないとしたら、どこになるんだろう。
二階に上がる。
上りきったとたん、手前から2つ目の扉が開いて、お父さまの孝良氏が出てきた。
私をギロリとひとにらみしてから、詩織さんの部屋の前を通り階段を下りてゆく。
リビングに戻るつもりかな?
お父さまの部屋にも、多分カップはない。
だって彼は、リビングにそれがあるものと信じていたから。
二階はどうやら兄の学さんの部屋と、叔父の篤広氏の部屋も横並びになってるみたいだ。
他の部屋は?
トイレとお風呂になっている。
それと、リネン室っていうのかな?
脱衣場?
タオルや替えのシーツ、洗剤とかトイレットペーパーなんかのおいてある倉庫みたいなところがあった。
私は吸い込まれるように、ふらりとリネン室に入り込む。
こんなところに大切なカップを隠すはずもないだろうけど、何となくチェックしてみる。
棚の隙間やタオルの奥、どこを探してもやっぱり見つからない。
もうあきらめた方がいいのかな。
結局なくしたままにしておいた方が、彼らにとっては都合がいいのかもしれない。
佐山CMOとの繋がりを保つ手段だと考えれば、別に私なんかにわざわざ見せてやる必要もないんだ。
娘の恋敵になんて、どんな気を遣う必要がある?
どこまでいっても、あのカップが私のものになるなんてことはないのに……。
「あぁ、こんなところにいたんですか」
突然の声に振り返る。
詩織さんの兄の学さんだ。
「カップ、見つかったみたいですよ」
「え? カップが、本当に見つかったんですか?」
「はい。リビングに行きましょう」
は? マジか!
お父さん自身も大騒ぎしていたわりには、ずいぶんあっさりしてない?
はやる気持ちを抑え、私は学さんと一緒に階段を下りてゆく。
詩織さんによく似た黒髪で落ち着いた面持ちの彼は、心地よい低音ボイスでにこやかに話す。
「紗和子さんは、颯斗さんとずいぶん仲がよろしいんですね」
「いいえ。単なる従業員と上司の関係です」
愛想笑い全開の笑顔を向ける。
私はあなた方の敵ではないのですよーと、可能な限りアピールしておかねば。
「あれ、そうなんですか?」
「えぇ、当然ですよ。詩織さんという立派な恋人のいる人が、私みたいなのを相手にするワケがないじゃないですかぁ~。あははは!」
「はぁ。そうなんですねぇ」
必死で誤魔化しながら、長い廊下を移動しリビングに入る。
お父さまの孝良氏が宇宙色のカップを持ち、にこにことそこに立っていた。
「ほら。ちゃんと見つけてあったんですよ、颯斗さんのカップ!」
あぁ、よかった! カップは無事だった。
捨てられてもなかったし、壊されてもいなかった。
ホッとした瞬間、目に涙がにじむ。
これであのカップは、私の手に戻ることはなくなってしまった。
元々、自分の物になるだなんて、そんな上手い話があるわけなかったんだ。
それでも最後に一目、このカップに出会えてよかった。
私は持ち主の手にしっかりと握られたカップをしみじみとながめる。
この子とは今日で本当のお別れだ。
「いつ見ても、ステキなカップですね」
さようなら。私の思い出のカップ。
今度こそ大切に、幸せに愛されてね。
「あぁ。あなたは確か、このカップの制作者のお孫さんだったとか」
「えぇ」
「競りの様子を、詩織から聞きましたよ。まぁ、仕方ないですよねぇ、こればっかりは」
ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべると、孝良氏はそそくさとカップを木箱に戻し、元の戸棚に片付けてしまった。
ちぇ、もっとじっくり見ていたかったなぁ。
見るくらい、いいじゃないか。
減るもんじゃないし。
孝良氏は後からやって来た佐山CMOに、大げさな身振り手振りで相変わらず媚びを売っている。
この人たちも大変だな。
お付き合いって難しい。
私だってちょっとはこの人たちに、同情している。
でもこれで、私の役目も終わった。
ほっと息を吐き出す。
目標達成。
早くうちに帰りたい。