「そうだ。紗和子さんは、ちょっとここで待ってて。リビングの様子を見てくるから」

 え? 私を一人この部屋に置いていくの? 
彼女はぺこりと頭を下げると、軽快に立ち上がり、バタンと扉を閉め行ってしまった。

 こ、これは、ビッグチャンス到来!? 
扉が閉まったその瞬間、私はパッと部屋を振り返った。
今のうちにクローゼットの中を確認して、本棚や戸棚の中も全部見れれば……とは思うものの、罪悪感の方が勝って、クローゼットに伸ばした手が取っ手まで届かない。
早く。
早くしないと、すぐに彼女が帰ってきちゃうから……。
頭ではそう分かっているのに、体は動かない。
ふとベッドが目に入った瞬間、私はガバリと床に伏せた。
これくらいしかできない! 
覗いたベッドの下には、ほこりひとつ落ちていなかった。
何もない空っぽだ。
すぐさま立ち上がり、瞳孔を最大限に広げ、机の上と飾り戸棚の表面を凝視してみるも、やっぱりカップは見当たらない。
てゆーか、小物や本、ぬいぐるみなんかが置かれているものの、陶器製のそこそこ大きなカップを隠すようなスペースは、パッと見て分かるようなところにはないんだなぁ~。

 取り残された広い部屋で、圧倒的絶望感に襲われている。
きっと私はカップを見つけ出せない。
どう考えたって、初めて来たよそ様の家を漁るなんて無理だ。
私がここに来た事情を彼女に正直に話して、協力してもらった方がいいんじゃないだろうか。
彼女が佐山CMOのことを本当に好きじゃないのなら、助けてくれそうな気がする。
高い買い物だ。
もう自分の手に入らなくたっていい。
そもそも佐山CMOは私にと言ってくれたが、現在の持ち主は詩織さんだ。
最後にひと目だけ、もう一度会ってあのカップにお別れが言いたい。

 廊下を歩く足音が聞こえてきた。
私はとっさに本棚の背表紙を見ているフリをする。

「お待たせ。もうちょっと食事まで時間がかかるみたい。ここで待ってる?」
「う、うん。そうだね」

 彼女は床の丸テーブルに腰を下ろした。
話を切り出すなら今だ。
ちゃんとお願いすれば、彼女なら分かってくれる気がする。
少しだけ、一瞬だけでいいのでカップを見せてください。
そうしたら、また隠してもらってかまいません。
今後一切CMOにも話したりしません。
だからお願いです。
最後にひとめ……。
彼女の前に、意を決して座り込んだ瞬間、壁に設置されたインターホンが鳴った。
詩織さんが立ち上がる。

「もしもし。お父さん? うん、分かった」

 彼女は受話器を壁に戻すと、私を振り返った。

「リビングに集まれだって。行こうか」
「う、うん」

 話を切り出しにくくなっちゃった。
詩織さんに促されるまま部屋を出る。
廊下に出た私たちは、無言のまま階段を下りた。
どうしよう。
本当に家の中でなくしているのかな。
どうやってカップを探しだそう。
カップは今、どこにある?

 呼び出されたリビングには、ここにいる住人全員が集合していた。
詩織さん、詩織さんの父の宇野孝良氏、その弟で、さっき彼女を怒鳴りつけていた叔父の宇野篤広氏と、スタンガンを買い与えたという兄の学さん。
私と佐山CMOだ。

「せっかく颯斗くんからいただいたカップだったのに。なくしたみたいで、本当に申し訳なかったね」

 そう言う父の孝良氏は、にこにこと笑って楽しそうだ。
全く悪びれる様子もない。

「詩織は早くに母を亡くしていてね、男ばかりの家で育った娘には、幸せになって欲しいんですよ」

 そう言うと、彼は私たちに背を向けた。

「颯斗くんから詩織にいただいたカップだけどね……」

 リビングルームの壁一面を埋め尽くす重厚なシェルフの、その戸棚を覆うガラス扉を孝良氏は開いた。
木箱を取りだす。

「実はちゃんと、私が見つけてここに……」

 その木箱を開けた瞬間、彼の顔色がサッと変わった。

「あ、あれ? こ、ここに、確かに入れてあったんだが……」

 明らかにうろたえ始めた父に、詩織さんがすかさず割って入った。

「それが見つからないから、颯斗さんにも探してもらおうって、うちに来てもらったんじゃない」

 彼女はキリッとした顔を上げ、集まっていた全員の顔を見渡した。

「私的には、カップのことなんてどうだっていいんです」
「何を言っているんだ、詩織! お前は突然、なにを言い出すんだ」
「だってあれは、お父さんが!」
「うるさい! 詩織は黙って言うことを聞きなさい」

 え? ちょっと待って。
詩織さんがなんでそんなことを言うの? 
それはもう捨ててしまったとか、処分しちゃったってこと? 
足元がふらつく。
もしかして私は、もう二度とあのカップをこの目で見ることが出来ないの?