いつも渋滞している賑やかな繁華街を、タクシーはのろのろと進む。
夜の闇を照らす眩しいほどの街明かりが、車内にまで入り込んで来ていた。
車に乗り込んでから、佐山CMOは一言もしゃべっていない。
何か話題でも振った方がいいのかと思ったとき、私の鞄の中でスマホが振動した
。それにCMOが反応する。

「もしかして彼氏から? だから恋人のふりはダメとか」
「そんな人いません」
「あぁ、いや。もしそんな人がいるんだったら、申し訳ないと思ってね」
「それは大丈夫です」

 彼にそんなことを言われ、何となくスマホを無視して座り直す。
ツンと横を向いた私を見て、CMOはようやく笑った。

「はは。なら安心だ。心配して損した」

 そこからは、普段家で何をしているかとか、ずっとそこに住んでいるのかとか、他愛のない話が続く。
モテる人っていうか、仕事の出来る人っていうのか、こんなに気遣いが出来る人に接するのは、初めてかもしれない。
簡単なおしゃべりが適度に進み、タクシーは自宅前に止まった。
真っ先に彼が車から降りると、暗がりに広がる生け垣と古びた洋館を見上げた。

「あぁ、ここがあの名画『白薔薇園の憂鬱』のモデルとなったお庭ですか!」

 その言葉に、なんとなく分かってはいたけど、自分の胸がチクリと痛む。
家まで送りたかったのは、この庭が見たかっただけで、やっぱり私なんかが目的じゃない。
外壁の塗装は所々剥がれおち、今にも崩れ落ちそうな三角屋根の洋館は、廃墟そのものだ。

「えぇ、そうですよ。よくご存じですね」
「もちろんですよ。三上恭平の名を有名にした、一番の傑作ですからね」

 感嘆の息をもらしたかと思うと、そわそわと中をのぞき込もうとしている。
もう遅い時間だけど、そのためにわざわざここまで、私について来たんだもんね。

「中に入ってみますか? 少しだけなら、いいですよ」
「あぁ、それはとてもありがたい申し出だけど、今夜は遠慮しておきます」

 彼は私の予想に反してそう言うと、にこっと微笑んでタクシーのドアに手をかけた。

「また改めて、お邪魔させてください。今夜はもう遅いので、帰ります」
「はぁ……」

 ぼんやりと立ち尽くす私に、彼は不意に小指を差し出した。

「また来ます。必ず。約束」

 その屈託のない無邪気な仕草に、仕方なく小指を絡める。
彼は満足したように微笑むと、その指を解いた。

「それではお休みなさい。また連絡します」
「はい。お休みなさい」

 タクシーを見送った後で、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。
しまった。
「お休みなさい」じゃなくて「お疲れさまでした」の方が正解だったんじゃない? 
そうやって言ってきたのは向こうの方だったけど、私からの返事としては、間違ってたんじゃないのかな。
どうしよう。
ヘンって思われてたら、イヤだな。
失敗した。

 夜風に体を震わせる。
後悔したってもう遅い。
家に入ろうと門に手をかけた時、植え込みの影に誰かがうずくまっていることに気づいた。

「卓己? なにやってんの?」

 グレーのような緑のような、夜の闇に紛れやすいコートを着ているから、全然気づかなかった。
彼は両手に買い物袋をぶら下げたまま、もそもそと立ち上がる。

「紗和ちゃんこそ、なにやってたの」
「は?」
「何度も連絡したのに、返事なくて心配した」

 そう言われ、ハッと気づいてスマホを取り出す。
タクシーで鳴っていたのは、卓己からの電話だった。

「あぁ、ゴメン。人と会ってたから」
「人って、さっきの人?」

 立ち上がった卓己が、どんよりとうつむいている。

「そうだよ。仕事の話だったから、送ってもらっただけ」
「ほんとに?」
「本当だよ!」

 嘘はついてない。
キッとひょろ長い卓己をにらみ上げる。
だけどどうして、私がそんな言い訳なんかしなくちゃいけないんだろう。
クセのあるうねうねした前髪で半分隠れた目が、どんよりと私を見下ろす。

「仕事の話って、恭平さんのこと、会社じゃ内緒にしてるんじゃなかったの?」
「そうだよ。絶対に内緒だよ。それと今の話が、何か関係ある?」

 おじいちゃんの一番弟子として有名な卓己には、会社に来るなと言ってある。
そうでなくても新進気鋭のアーティストとして知られている彼といるところを誰かに見られたら、私はまた誰かの付属品なだけの存在になってしまう。

「じゃあなんで、さっきの人は庭を見に来たの。紗和ちゃんが恭平さんの孫だって分かってなきゃ……」
「し、知らないよ! 仕事の話ってのは、本当なんだから! そんなことあんたに関係ないでしょ」
「ぼ……、僕はずっと、紗和ちゃんから連絡が来るのを待ってたのに」
「そんなの頼んでもないし、約束もしてない!」
「……。そうだよね。紗和ちゃんがまだ落ち込んでるかと思って、勝手に様子を見に来ただけだから」

 そう言って、両手にぶら下げていた水炊きのセットらしい買い物袋を突き出す。
聞き取れるか聞き取れないか、聴力の限界のような声で卓己はつぶやいた。

「……。お休み」
「おやすみ!」

 袋を受け取ったら、卓己はふらりと背を向け、ふらふらと足元のおぼつかない様子で歩き出す。
なにそれ。
なんで私があんたなんかに、罪悪感を感じないといけないの? 
離れていく卓己にも聞こえるよう、私は立て付けの悪い扉を力任せにバタンと閉めた。