女官たちの居住区を抜けて、妃たちの居住区へ入ると建物の造作は一変した。
 広くて細長い中庭の両脇を赤い灯籠が下がる長い廊下が続いている。黒い艶々の石作りの床に唐草模様の豪華な窓枠、ずらりと並ぶ繊細な飾りがついた扉は、妃たちの部屋の扉だろう。
 翠鈴が生まれてはじめて目にする豪華絢爛な世界だった。
 その長い廊下を翠鈴は梓萌の後について歩く。色とりどりのひらひらした衣装を身に付けた妃と思しき女性たちが、あちらこちらから翠鈴の様子を伺っている。

「まさかアレが百の妃?」

「嘘でしょう? いくらなんでもみすぼらしすぎだわ」

「だけど、あの緑族だもの。きっと山の中で落ちぶれた生活をしてたんでしょう」

「穢らわしいわね、近寄らないでほしいわ」

 聞こえてくる言葉はひどいものだが、翠鈴はもう傷つかなかった。
 本来は、前向きで気の強い気質なのだ。
 生まれ故郷でも小さい頃は、両親がいないことを揶揄されることがあった。

『やーい! 親なし翠鈴』

 そう言われるたびに言い返したものだ。

『そうだよ、だけどそれがいったいなに? 親が早く死んじゃったのは、私のせいじゃないもんね!』

 なにを言われても、たいていはへっちゃらな顔をしていれば、そのうちになにも言われなくなるものだ。そうして生きてきた翠鈴にとっては、このくらいなんてことはなかった。
 それよりも、この異国のような世界を存分に見ておこうと思っていた。後宮なんてめったに見られるものじゃない。七江へ帰った時に村の皆に話せば喜ぶだろう。
 そうして視線を彷徨わせながら歩いていると、ある場所で梓萌が足を止めた。翠鈴もつられて立ち止まる。
 梓萌が低い声を出した。

「翠鈴妃さま、端に避けてくださいませ。ご自身よりも順位の高いお妃さまとすれ違いになる時は、端に避けて頭を下げる決まりにございます」

 彼女の言葉通り、前方からひときわ美しい女性が歩いてくる。金色の髪飾りを刺した艶々の黒い髪、真っ白な肌と桃色の頬、瞳は濡れたような漆黒である。

「一のお妃さま、華夢妃さまにございます」

 梓萌が端に避けて頭を下げる。翠鈴もそれにならった。
 華夢は、数人の妃と女官を引き連れて足音も立てずに優雅に歩いてくる。翠鈴の前を通り過ぎようとしたところで、足を止めた。

「梓萌、その方が百のお妃さま?」

 少し高い鼻につくような声だった。

「はい、緑翠鈴さまにございます」

 頭を下げたまま梓萌が答えると、華夢の後ろの妃たちが眉を寄せて嫌そうにする。臭いものを前にした時のように袖を鼻にあてる者までいた。

「翠鈴妃さま」

 呼びかけられて、翠鈴は顔を上げた。

「はい」

「私、黄華夢と申します。なにか困ったことがあったら、おっしゃってくださいね」

「華夢妃さま……!」

 梓萌が目を見開いた。
 一の妃が、汚いなりの翠鈴に親しげに声をかけたことに驚いたようだ。彼女の後ろの妃たちも、戸惑うように顔を見合わせている。

「あら梓萌、ここにいる者は皆、皇帝陛下をお支えする妃。同じ立場よ」

 そう言って、にっこりと微笑む。

「よ、よろしくお願いします」

 翠鈴は慌てて頭を下げた。

「さすがは華夢妃さま、慈悲深いわね。あのような者に親しげに声をかけるなんて」

「皇帝陛下の一のお妃さまなんですもの、私たちとは格が違うわ」

「それにしても今宵も一段とお美しいわねぇ」

 事態を見守っていたほかの妃たちが、ヒソヒソと囁き合う声がした。
 そこで翠鈴は故郷の村で耳にした彼女の噂を思い出す。確か彼女は、翡翠の手の使い手で、皇帝の宿命の妃。近い将来、皇后となる人物だ。妃たちの言う通り、器が違う。

「では、ご機嫌よう」

 そう言って彼女は、滑るようにまた歩き出す。彼女の後ろについていた妃たちも翠鈴をチラチラと見ながら通りすぎた。

「さ、参りますよ」

 梓萌が立ち上がり、また早足に歩き出す。翠鈴も後に続いた。
 長い廊下を歩きながら、梓萌が口を開いた。

「後宮におられますお妃さま方は、数字とは別に四つの位がございます。まず『皇后』さま。慣例では翡翠の手を持つ宿命の妃である方が立后されます。今現在は空位ですが、そう遠くない時期に華夢妃さまがなられるでしょう」

 翠鈴は頷いた。

「次に、『皇貴妃』さま四名。こちらは、皇后さま以外に特に家柄のいい方、寵愛が深いお妃さまがなられます。こちらもまだ空位にございます。次に『貴妃』さま、こちらは百人いらっしゃるお妃さまのうち五十までの方がなられます。そして残りが『貴人』と呼ばれる方々です」

 つまり、百人の妃のうち上から五十までが貴妃、五十より下が貴人、その中から寵愛の深さや家柄により皇后と皇貴妃が選ばれるということだ。妃たちの順序についての決まりを翠鈴が頭に入れた時、梓萌が足を止める。長い廊下の突きあたり、粗末な扉の前だった。

「こちらが翠鈴妃さまのお部屋にございます」

 扉を開けると中は、湿った少し嫌な匂いがした。寝台と机は置いてある。でも長い間使っていないのだろう、埃がかぶっていた。人が使う部屋というよりは、物置として使っているようだ。掃除道具が置いてある。

「これらは明日運び出させます。今夜はもう遅いですから、このままおやすみくださいませ」

 梓萌がそう言った時、大きな饅頭と汁物が載った盆を手にした女官がやってきた。

「女官長さま、お食事をお持ちしました」

「そこへ」

 梓萌がそう言うと、女官は埃が被ったままの机に置く。そして翠鈴をちらちら見ながら部屋を出て行った。

「お夕食です。本日のお妃方のお夕食はもう終わりですので、女官と同じ粗末な物になりますが」

「ありがとうございます。助かります。お腹ぺこぺこだったんです」

 いい香りを漂わせる夕食を見て翠鈴が言うと、梓萌が驚いたように眉を上げた。埃だらけの薄暗い部屋に、女官と同じ食事。妃としては最低の扱いだ。それなのに翠鈴が礼を言ったことが意外だったのだろう。

「食事のあとの盆は扉の外へ出しておいてください。それでは私はこれで」

 そう言って、振り返りもせずに部屋を出ていった。
 ようやくひとりになり、翠鈴はホッとして寝台に腰を下ろす。そして部屋を見回した。
 埃っぽくはあるものの壁も屋根も頑丈で、七江にある翠鈴の家の二倍ほどの広さだ。なにより広い寝台がある。ちゃんと足を伸ばして寝られそうなのがありがたかった。
 粗末な物と梓萌は言ったが、盆の上の食事は翠鈴にとってはご馳走に思えた。饅頭はふかふかで、汁物も具沢山だ。
 翠鈴は手を伸ばして饅頭を手に取ると、お腹がぐーっと鳴る。最後にものを口にしたのは昼間だ。
 白い生地にかぶりついて、目を見開く。饅頭の中味が獅子の肉を炊いたものだったからだ。肉など、七江では祭りの時にしか口にできない。
 皇帝に会うまで何日かかるかは不明だが、それまでの生活もそんなに悪くなさそうだ。そんなことを思いながら翠鈴はあっという間に食事を平らげた。