診療所に役人がやってきたのは、日が暮れる頃だった。
 その日の診察を終えようと翠鈴が片付けをしていると、突然声もかけずに数人の男たちが診療所の中に傾れ込み、翠鈴を羽交締めにした。
 思いがけない出来事に翠鈴は口もきけず、されるがままになってしまう。ものすごく嫌な予感がする。

「こちらの娘ですか?」

 男たちの中でひときわ異様な空気を放つ赤い目の男が翠鈴をまっすぐに見て、誰ともなく尋ねる。役人のひとりが頷いた。

「そうです。間違いありません」

 翠鈴の背中がぞくりとする。いったいなんのやり取りをしているのかは不明だが、まずい状況なのは確かだった。いくら役人とはいえ、なんの罪もない民をこのようにして捕らえることは、普通なら考えられないことだった。
 しかも赤い目をした男は、翠鈴が見たこともないような豪華な刺繍が施された衣服を身に纏っている。どう考えてもこのあたり者ではない。おそらく、都から来た高級役人だ。その役人が指揮する一団に捕えられて、ただで済むとは思えなかった。
 赤い目の男が、床に膝をつく翠鈴の顎に手にしている扇子を当てる。ぐいっと上を向かせて、ジッと見た。冷たい目に、翠鈴の身体がガタガタと震え出した。

「あなたが、(りょく)翠鈴ですね」

 尋ねられてもすぐには答えられなかった。
確かに名は翠鈴だが"緑"という姓に心あたりがなかったからだ。
 水凱国では、平民には姓はない。各地を治める貴族である部族の一族だけが姓を名乗ることを許されているのだ。平民である翠鈴はただ翠鈴とだけ名乗っている。震えながら首を横に振った。

「ひ、人違いです……、私は……」

「間違いありません、白菊さま。その者が緑族の末裔です」

 役人の言葉に翠鈴はギョッと目を剥いた。
 各地を治める部族はかつては百だったが、今は九十九になっている。部族のひとつである緑族が、先の皇帝の治世で反逆罪に問われ都を追われたからだ。
 彼らがどうなったのかは知られていない。散り散りになり、平民に紛れて生きているのか、あるいは途絶えてしまったのか……。いずれにせよ、国では忌み嫌われている一族で、口にするのも憚れる名だ。その末裔などと言われて、翠鈴は真っ青になる。

「わ、私……ち、違います……! 私は、ただの村娘です」

 あまりにも意味不明な言いがかりに、必死になって否定する。

「いいや、お前は緑族の末裔だ。こんな田舎に、医学の知識がある者がおることを私はかねてから不自然だと思っておったのだ。記録を辿ると、昔の役人が逃げてきた緑族を匿ったという記述が出てきた。それがお前の祖先だろう。この度、皇帝陛下が緑族の末裔を探しておられるという話だ。ならば私はお前を差し出さねばならない。この村のためだ、悪く思うな」

「そ、そんな……」

 翠鈴は絶句する。
 確かに皇帝の命令であれば逆らうことはできない。でもそもそも翠鈴が緑族の末裔だという確たる証拠はないというのに……。
 白菊さまと呼ばれた男が診療所を見回した。

「ここは? ……診療所ですか?」

翠鈴は震える唇を開いた。

「……はい。もとは祖父の診療所でしたが、亡くなった後引き継ぎました」

「どのような施術を?」

「……指圧と、投薬を少し」

「手を見せなさい」

 白菊が命じると腕を押さえていた男たちの力が緩む。翠鈴が、恐る恐る手を差し出すと、彼は目を細めた。

「なるほど、あなたが緑族の娘で間違いなさそうですね」

「え……?」

「連れていきなさい」

 命令とともに、翠鈴は無理やり立たされる。

「え? あの……! 待ってください! 私、本当に違います!」

 必死になって訴えるが、男たちによって診療所の外へ引きずり出された。外には騒ぎに気がついた村人たちが集まっていた。

「翠鈴をどこへ連れて行くんだ!」

 昼間の患者が役人に向かって声をあげる。

「そ、その子を連れて行くな! 村には必要な娘だ」

 別の村人も抗議するが役人たちが答えることはなかった。
そのまま翠鈴は生まれ育った村から無理やり連れ去られた。