腕の中で黒い髪と漆黒の瞳の赤子がほぎゃほぎゃと可愛い泣き声をあげている。小さな足で力強く腕を蹴り、大きな口を開けて、元気いっぱいである。後宮の自分の寝所にて寝台で身体を起こして座る翠鈴は、笑みを浮かべて見つめている。
 宰相が皇帝に反逆し最後は命を落とすという衝撃的な事件で幕を閉じた立后の儀からしばらくが経った。劉弦の尽力により水凱国は落ち着きを取り戻している。
 宰相の地位は廃止になり、代わりに複数の家臣で構成される元老院を置くことになった。

『人の心は純粋で他者を思うあたたかいもの。だが欲に溺れることがあるのも確かだ。今後は、ひとりの者に権力を集中させないようにする』

 劉弦の言葉に、家臣たちは深く頷いたという。
 長が皇帝に刃を突き立てるという大罪を犯した上に、のちの黄族の告白により緑族との過去の因縁も明るみになった黄族は逆賊として貴族の地位を剥奪された。
 なにより翡翠の手の使い手を偽っていた罪が重いと、一族すべての者を処刑すべしとの意見も出たが、劉弦はそれを退けた。

『件の話は、すべて長である福律が独断でしていたこと。華夢本人ですら、真実を聞かされてはいなかった。憎しみが憎しみを生むことを私は望まない』

 華夢は罪には問われなかったが、心を病み失意のうちに後宮を後にした。
 そして月が満ちて、翠鈴は玉のような男の子を出産した。
 劉弦により、(なぎ)と名付けられた彼は今翠鈴の腕の中で盛大な泣き声をあげている。
 生まれる前は、神であり本来は龍神である劉弦との間にできた子がいったいどのような姿なのか見当がつかないと思っていたが、今のところ人の赤子とあまり変わりはない。髪は翠鈴に似て黒、目元は劉弦にそっくりだ。愛する人との間にできた小さな命が愛おしくてたまらなかった。
 とはいえ、なかなか泣き止まないのが心配だ。乳もやって着替えもした。それなのに泣いているということは、具合でも悪いのだろうかと、翠鈴は不安になる。
 赤子が生まれてまだ七日目。母親になったとはいえまだどこかおっかなびっくり世話をしている状態だ。

「どうしたの? どこか痛いところがあるの?」

 答えなどないとわかっていても、尋ねずにはいられない。そこへ、蘭蘭が入ってきた。前が見えないくらいたくさん積まれた赤子の布おむつを抱えている。泣いている凪を見てにっこりとした。

「ふふふ。大きな声。健やかでよろしいですね」

 翠鈴は彼女に助けを求めた。

「お乳もやったし、着替えも済ませたのに泣き止まないのよ。具合でも悪いのかしら? 医師さまにお診せした方がいい?」

 すると蘭蘭はおむつを台へ置きこちら側へやってくる。凪を覗き込んだ。

「お顔の色は悪くないように思えますが。眠いのではないですか? あ、ほら、目を擦った。翠鈴さま、凪さまを身体にぴったりつけるようにお抱きになって、お背中を優しくとんとんとして差し上げてください」

 蘭蘭の言う通りにすると、凪は小さなあくびをしたあと、うとうととしはじめる。やがてすやすやと眠りに落ちた。

「さすがねえ、蘭蘭は。私、赤子が眠いだけで泣くなんて知らなかったわ」

 背中のとんとんを続けながら翠鈴は感嘆のため息をついた。

「弟妹を寝かしつけるのなら、右に出る者はおりませんでしたから!」

 蘭蘭が胸を張った。
 出産に関しては、なにからなにまで蘭蘭に頼り切りだった。もちろん数日に一度の宮廷医師の診察は受けていた。けれど、日々のちょっとした心配ごとなどは蘭蘭に相談していた。なにより、そばにいてくれるだけで翠鈴は安心できたのだ。
 天涯孤独の翠鈴がはじめてのお産を滞りなく過ごせたのは彼女の力が大きかった。

「私は幸運ね」

 翠鈴はしみじみと言った。

「娘に男女のことやお産のことをおしえるのは、母親の役目って言うじゃない? 私は両親を早くに亡くしたし、診療所を切り盛りしながら生きていくのが精一杯だったから誰かと夫婦になるのも赤子を産むのも無理だって思ってた。それなのにここへ来てこの子を産むことができた。はじめてでわからないことだらけだったけど、こんなに安心して産めたのは蘭蘭がいてくれたからよ。私、蘭蘭に出会えてよかったわ」

 すると蘭蘭は口をへの字に曲げて、目をうるうるとさせる。近くに積んである布おむつを一枚手に取り顔を埋めて、おいおいと泣きはじめた。

「わ、私もです〜! 翠鈴さまあ〜! 翠鈴さまが来られてからここで働いてよかったって思っておりますー!」

「ら、蘭蘭、それおむつ……!」

 とそこへ、コンコンと扉がノックされる。答えると、静かに開き芽衣がひょこっと顔を出した。

「翠鈴、起きてる?」

「芽衣、どうぞ」

 彼女は勝手知ったる様子で、部屋の中へ入ってきて翠鈴の腕の中を覗き込む。そしてとろけそうな表情になった。

「ね、寝ていらっしゃる……!」

「ついさっきまでは、泣いてたんだけど」

 彼女はうっとりとして凪を見つめる。

「はぁ〜。お美しい、お美しい。おめめが閉じて、ほっぺがぷくぷく……」

「芽衣妃さま、なにかご用があるんじゃないですか?」

 蘭蘭に問いかけられて、夢から覚めたように目をパチパチとさせた。

「あ、そうだった……。蘭蘭、皇帝陛下のお世継ぎは、まだお生まれになったばかりでも術をお使いになるのね? 私いつも凪さまを目にしたらそれまで考えていたことが頭から吹き飛んで可愛らしいお顔をずっと見ていたいって気分になるわ」

 蘭蘭がくすくすと笑った。

「確かに凪さまは特別お美しい赤子ですが、もともと赤子というのはこういうものなのですよ。目にした者は笑顔にならずにいられません」

「なるほど」

 赤子の世話をたくさんしてきた蘭蘭の見解に、芽衣は納得する。そしてこほんと咳払いをして、翠鈴に向かって頭を下げた。

「皇后さま、本日の妃をお通ししてもよろしいでしょうか?」

"本日の妃"というのは、凪を見たいという希望者だ。
 立后の儀の後しばらくして、劉弦は後宮を解放すると宣言した。妃たちは自由になり故郷へ帰ってもよいことになったのだが、芽衣を含む半分ほどが残ったのである。それは皇帝の寵愛を諦めていないから……というわけではなく、翠鈴と離れたくないという理由だった。
 後宮を閉鎖して劉弦の宮へ移る予定だった翠鈴は、彼女たちの願いにより、後宮へ残ることになったのだ。

『だって陛下は昼間執務をされているじゃない。その間、皇后さまは、宮でおひとりで陛下をお待ちになるんでしょう? なら私たちと一緒に過ごしてほしいです』

 劉弦はそれをしぶしぶ了承した。

『翠鈴は私のものだが、私だけのものではないのか……。仕方がない』

 翠鈴としても、彼女たちと一緒にいたいという気持ちがあり、昼間は後宮、夜は劉弦の宮へ行く、あるいは劉弦がこの寝所へ来るという生活を続けている。
 翠鈴の出産は後宮の妃たちにとっても一大事で、出産直後は凪をひと目見たいと妃たちが翠鈴の寝所へ詰めかけたのだという。だが産後すぐにたくさんの人に会うのはよくないという宮廷医師の指導により、誰にも会えなかった。
 そこでその整理を買って出たのが芽衣だ。
 希望者を募り平等に順番を決めて毎日このくらいの時間にひとりずつ連れてくる。

「今日は芸汎妃さまです」

 芽衣の言葉に翠鈴は頷いた。

「ありがとう、芽衣」

 翠鈴が言うと彼女はにっこりと笑って扉に向かって声をかける。

「芸汎妃さま、どうぞ」

 芸汎が遠慮がちに入って来て、翠鈴の腕の中を覗き込み両手で口元を覆った。

「お、お眠りになっていらっしゃる……!」

 寝台のそばまで来てそばの椅子に腰を下ろして、感無量といった視線で凪を見つめている。

「芸汎妃さまこんにちは。お越しくださいましてありがとうございます」

 翠鈴が声をかけると、彼女は頷く。がどこかうわの空だ。目はずっと凪を見ている。

「私、こんなにお美しい赤子をはじめて見ました……! 凪さまは陛下のお子さま。すなわち龍神さまのお子。生まれながらにして人を惹きつける力がおありなんでしょうか?」

 芽衣が訳知り顔で口を開いた。

「確かに凪さまは、特別美しいお子さまですがそもそも赤子というのが、私たちの心を惹きつけるものなのですわ、芸汎妃さま」

「そうなのね」

 芸汎が納得して、翠鈴に向かって頭を下げた。

「改めまして、皇后さま。このたびはお祝いを申し上げます」

「ありがとうございます。芸汎妃さま。お祝いの品もたくさんいただきまして」

 翠鈴は心から礼を言った。
 芸汎が目を潤ませた。

「お礼を言うのは私ですわ、皇后さま。ここへ残ることをお許しいただけただけでもありがたいのに、こうして陛下と皇后さまのお世継ぎを目にすることができたのですから」

 実家と確執がある彼女は、一番はじめに後宮から出たくないと言った妃だった。今彼女は、ひとりで生きていくための道を模索しながら後宮にいる。

「それにしても、お美しい。私などが目にしていいのかと思うくらいですわ」

 芸汎がそう言ってうっとりと目を細める。その時、しゅっという音がして、白菊が姿を現した。

「きゃあ!」

 皆声をあげ、翠鈴も目を丸くする。

「し、白菊さま……! お、驚くじゃありませんか」

 彼は芸汎の苦情を無視して、翠鈴の腕の中の眠る凪を覗き込む。赤い目でジッと見つめて呟いた。

「さすがは、陛下のお世継ぎだ。あやかしである私でも見ているだけでなにやら心惹かれるような気分になる……」

「白菊さま、いったいどうされたんですか?」

 翠鈴が問いかけると、「皇帝陛下、おなりです」とだけ告げて、またしゅっと音を立てて姿を消した。
 皆が顔を見合わせた時。

「翠鈴!」

 バンッと勢いよく扉が開き劉弦が入ってきた。
 芽衣と芸汎が目を丸くして慌てて床に跪く。蘭蘭だけは慣れた様子で椅子を持ってきた。劉弦がこんな風に執務の合間に突然部屋へやってくるのはよくあることだからだ。
 彼はそこへ腰掛けて翠鈴の腕の中を覗き込んだ。

「寝てるのか」

「はい、さっきまでは起きていたんですが」

 翠鈴が答えると、凪のふわふわの髪を優しく撫でた。

「可愛い寝顔だ。だが、目を開けているところも見たかった。凪の瞳は翠鈴そっくりだからな。翠鈴の瞳が私は好きだ」

 そう言って今度は翠鈴の頬に触れる。

「陛下……!」

 皆の前でまるでふたりだけの時のように振る舞う劉弦に翠鈴が声をあげると、彼の後ろで芽衣と芸汎が真っ赤になって立ち上がった。

「それでは私たちは、これにて失礼いたします」

 そう言ってそそくさと部屋を出ていった。
 蘭蘭もニンマリとして「まだ干したままのものがございますゆえ、失礼いたします」と頭を下げて出ていった。

「芸汎妃さまはさきほど来られたばかりでしたのに」

 彼女に申し訳ない気持ちで翠鈴が言うと、劉弦は肩をすくめた。

「私は翠鈴が後宮に留まることを認めているのだ、このくらいは許されるだろう」

 そう言って寝台に腰を下ろして、凪を抱いたままの翠鈴を抱き寄せ、頬に口づけた。

「本当はふたりとも私の近くにずっと置いておきたいのだ。そうすれば執務中もそばにいられる」

「そんな……そういうわけにはいかないでしょう」

 皇帝らしからぬ彼の言葉に翠鈴が呆れてそう言うと、彼は額をくっつけてふっと笑った。

「だからこのくらいで我慢している」

 そして今度は瞼に口づけた。

「もう少ししたら、誕生の宴を執り行おう。凪を皆に見せるのだ。美しく健やかな凪を見れば、民は皆喜ぶだろう」

 瞼に触れる甘い感覚に翠鈴の胸はあたたかい気持ちでいっぱいになる。さっきまでの話を思い出してくすくすと笑った。

「皆さまが、凪を可愛がってくださるのがありがたくて嬉しいです。こんなに心が惹かれるのは凪が龍神さまの子だから、なにか術を使うのか?って言われたくらいなんですよ」
「皆が凪に心惹かれるのは、私の子だからではない。翠鈴の子だからだよ」

「私の? まさか、私はただの人です」

 翡翠の手の使い手ではあるけれど、それ以外に特別な力はない。
 劉弦がふわりと微笑んだ。

「いや、そうではなくて。皆翠鈴が好きなのだよ。だからこの子のことを可愛がってくれるのだ。人が人を思う気持ちはそういうものだろう?」

 そう言って彼は、今度は翠鈴の額に口づける。甘やかなその感触に翠鈴は幸せな気持ちで目を閉じた。

「はい、劉弦さま」

「翠鈴は私にとって宝だが、この国にとっての宝でもある。翠鈴を連れてきた白菊の手柄だな。あの折は随分と悲しい思いをさせたが」

 翠鈴は微笑んだ。

「私、ここへ来られて幸せです。いろいろありましたけど、こうしてこの子を抱けるのですから」

 悲しい思いも、つらいこともたくさんあったけれど、これでよかったのだと思う。自分はここへ来る運命だったのだ。
 劉弦がにっこりと笑って凪に視線を落とした。

「いつか凪を連れて翠鈴の生まれた村へ行こう。母の故郷をこの子にも見せてやるのだ」

「村へ? 本当ですか?」

 懐かしい風景が頭に浮かんだ。
 山にへばりつくように並ぶ素朴な家々、気のいい人たちの笑顔……。

「凪にも村を見せてやれるんですね。嬉しい」

「翠鈴の家は、いつ翠鈴が帰ってきてもいいように、村人たちが手入れは続けていたようだ。今は都から派遣した医師がそこで診療を続けている」

「手入れをって……そうなんですか?」

 意外な話に翠鈴は目を見開いた。

「ああ、翠鈴は村の人たちに頼りにされていたんだな。攫ってきてしまったことを詫びなければ」

 皇帝が村人に詫びるなんて本当ならあり得ない。でもその彼の気持ちが嬉しかった。
 抗えない運命に引き寄せられて今ふたりはこうしている。
 それは間違いないけれど、ふたりを結ぶのはそれだけではない。互いに互いを慈しみ大切に想う心が確かに存在する。
 劉弦が凪を起こさないよう気遣いながら、翠鈴を抱き締めた。

「だが、どのように懐かしくとも、村人たちに請われようとも、帰してやるわけにはいかぬ。私は生涯翠鈴を手離すつもりはない」
 自分と凪を包む力強い温もりに、翠鈴は目を閉じて身を預ける。

「故郷は懐かしいですが、もはや帰りたいとは思いません。私の居場所はここです。劉弦さまのそばで生きると決めたのですから」

 瞼の裏に、自分の進むべき道が真っ直ぐに続いている。
 大切な人たちが暮らすこの国に平穏をもたらす龍神であり、民を思う皇帝である彼は重たいものを背負っている。その彼を一番近くで支えたい。それが自分の運命であり、心から望むことなのだ。
 目を開くと、劉弦が熱のこもった眼差しで翠鈴を見つめていた。

「翠鈴、私はそなたが愛おしくてたまらない」

「私もです、劉弦さま」

 ゆっくりと近づく彼の視線に、幸せな気持ちで胸をいっぱいにしながら、翠鈴はゆっくりと目を閉じた。