「まったく……。なにもなかったからいいものの。崖の向こうへ翠鈴の身体が倒れ込むのを目にした時は肝が潰れそうな心地がした」

 夜更けの皇帝の寝所にて、寝台に入り身体を起こした翠鈴を後ろから抱いている劉弦が、ぶつぶつと小言を言っている。眉を寄せ、厳しい表情ではあるが、その手には温石が握られていて優しい手つきで翠鈴の身体を温めている。

「申し訳ありませんでした……」

 背中に感じる彼の身体を心地よく感じながら翠鈴は謝った。

「私のお腹にはお世継ぎがいることを、これからは肝に命じます」

 今までも自覚していたつもりだが、後宮内の翠鈴をめぐる周辺が騒がしくて自分の身体を第一に考えられていなかった。でも立后の儀を終え、翠鈴に反対する勢力もなくなったこれからは、大切にできると思う。
 劉弦がため息をついた。

「だから、世継ぎうんぬんは関係ないと申しておるのに……」

 そう言って劉弦は翠鈴の顎に手を添えて優しく振り向かせる。自身も覗き込むようにして、すぐ近くからジッと見つめた。

「私は、翠鈴自身が大切なのだ。お腹の子も世継ぎだからではなく翠鈴との子だから心配なのだ。これからは自分を大切にすると約束してくれ。そなた想う私のために。でなければ、ずっとここに閉じ込めておかなくてはならなくなる」

 熱のこもった眼差しとに翠鈴の頬が熱くなる。鼓動が早くなるのを感じながら、翠鈴は頷いた。

「こ、これからは自分の身体を第一に考えるとお約束します……。世継ぎを宿しているからではなく、私を想ってくださる劉弦のために」

「ん、よろしい」

 劉弦が微笑んで翠鈴の頬に口づける。その笑顔と甘い感触に、どうにかなってしまいそうになる。心を落ち着けるために、少し関係のない話題を口にする。

「皆、落ち着いたでしょうか?」

 波乱の立后の儀が終わったあと、身重の翠鈴はすぐに医師の元へ運ばれた。そのまま診察を受けて劉弦の寝室へ落ち着いた頃、彼がやってきたのである。
 あの後、大寺院に残っていた皆がどうしたのか知らないのだ。

「ああ、妃たちは後宮に帰し、家臣たちもそれぞれの屋敷で待つよう命じた」

「華夢妃さまは?」

「身柄を拘束された。明日以降事情を聞かれることになるだろう。だが、あの状態では……」

 自分が翡翠の手の使い手ではないと知った彼女の嘆きはすごかった。ずっと信じてきたことが根底から崩れ落ちたのだ、当然だろう。

「華夢妃さま、おつらいですね」

 翠鈴が言うと、劉弦がふっと笑みを漏らした。

「そなたは、また……。人のことばかりだな」

 そして翠鈴を包む腕に力を込めて、耳元で囁いた。

「だが、だからこそ、私は翠鈴に惹かれるのだ。愛おしいと思うのだな」

「……え?」

 その言葉に、翠鈴は目をパチパチとさせた。

「どういうことですか? 劉弦さま」

 思わず聞き返してしまう。聞き間違いじゃないかと思うくらいだった。だって、神である彼の口から愛おしいという言葉が出るなんて。
 劉弦が眉を寄せた。

「どういうこととは、どういうことだ。そのままの意味に決まっているではないか。いつかの夜にも言ったであろう? 私は翠鈴が愛おしい」

「愛おしい……いつかの夜って……」

 混乱しながら翠鈴は記憶を手繰り寄せる。そして熱が出ていた夜の夢に思いあたった。

「まさかあれ、夢じゃなかったの……?」

 啞然として呟くと、劉弦が頷いた。

「そうか、翠鈴は眠りに落ちていたのだな。ならもう一度言おう。いや何度でも繰り返そうか。私は翠鈴を愛おしく思う」

「そんな……だけど、劉弦さまは……」

 神だから、そのような感情はないと思っていた。
 翠鈴の言いたいことがわかったのだろう。劉弦が目を細めた。

「神が人を愛さないと誰が言ったのだ? いや私もはじめはそう想っていたのだが……。だが翠鈴を誰よりも大切に想い、ずっとこうしていたいと願う。これが人で言う愛おしいという感情ではないのか?」

 自分を見つめる熱のこもった眼差しを、信じられない思いで翠鈴は見つめる。

 慈しむような視線。
 自分を包む温かい腕……。

 そして、彼が自分に向ける気持ちの正体をはっきりと、理解する。なぜなら、自分も同じ気持ちを抱いているから。

「……はい。そうだと思います」

 翠鈴も、彼を誰よりも大切に想い、ずっとこうされていたいと願う。

「私も劉弦さまを愛しく想います」

 胸をいっぱいに満たしている温かな想い、それを飾ることなく口にする。今までは言えなかった気持ちだ。
 劉弦が目を細めて翠鈴の頬を手で包む。その感覚を心地よく感じながら翠鈴は目を閉じた。
 愛おしい人と、心を通わせてはじめての幸せな口づけだった。