立后の儀は、日柄の良い日が選ばれて、夕刻大寺院にて執り行われた。
 天候は荒れ模様、黒い雲がとぐろを巻く空の元、天界へ続くと言われている断崖絶壁の崖のそばに設けられた祭壇にて、華夢が祈りを捧げている。翠鈴は祭壇のそばで跪き彼女を見ていた。
 立后の儀にあたり、華夢が翡翠の手の使い手として祈りを捧げると提案したのは黄福律だ。あの夜彼は『私に考えがある』と言っていた。
 これがその考えなのだろうか?
 立后の儀という国家行事で大役を果たせば、翡翠の手の使い手として盤石な地位が築けると?
 それにしても、それだけのために翠鈴の立后に賛成するだろうかと、翠鈴は訝しむ。
 この件の詳細を聞かされているのだろうか? 華夢がどこか得意げに祈りを捧げている。

「……緑翠鈴が皇后として、末長く在るよう祈りを捧げます」

 祈りの言葉を終えて、華夢が祭壇の上にひれ伏した。
 ずらりと並ぶ家臣たちの中から黄福律が立ち上がる。劉弦と翠鈴、それからこの儀を見守るすべての家臣と妃を見回し、口を開いた。

「翠鈴妃さまの立后を心よりお喜び申し上げます。黄一族は、皇帝陛下と皇后さまに永久に忠誠を誓います」

 そう言って頭を下げる。その彼の言動に一同息を呑んだ。玉座に座り事態を見守っている劉弦も意外そうに眉を上げている。
 娘を皇后にするということにつき、対立してきた皇帝とのやり取りに終止符を打つということだ。本当ならばよい話だが……。
 福律が、祭壇の上の自らの娘に視線を送った。

「忠誠の証として、黄一族は、翡翠の手の使い手である華夢を、陛下の黄泉の国の皇后さまとして捧げます……」

 その言葉に翠鈴はハッとする。劉弦が眉を寄せ、家臣がざわざわとしはじめる。

 ――黄泉の国の皇后。

 つまり生贄として捧げるということだ。思いもしなかった彼の言葉に、翠鈴が華夢をみると、彼女は驚愕し目を見開いていた。

「お父さま……?」

 福律が歩きだし、祭壇に上がる。
 華夢が恐怖に顔を引きつらせた。

「華夢、お前の望みを叶えてやる。陛下の皇后になりたかったのだろう?」

 福律の言葉に首を横に振った。

「そんな……。私……」

 劉弦が立ち上がり声を荒げる。

「福律!! やめろ! 私はそのようなことを望んでいない!」

 玉座を降りて祭壇の下までやってくるが、すでに華夢のすぐ近くまで来ている福律に迂闊に近寄ることができなかった。

「ダメ! やめて!!」

 翠鈴も劉弦の隣に駆け寄った。
 福律が振り返り、劉弦に向かって両腕を広げた。

「陛下、古来より祈りを捧げる際の生贄はなくてはならないもの。願いが深ければ深いほど高貴な生贄を捧げるべきにございます。……寵愛のない宿命の妃にはぴったりの役割。翠鈴妃さまの立后につき私ども黄一族がどれほどのものを差し出したのか、よく覚えていてください」

 残酷な言葉を口にして、翠鈴に向かって頭を下げた。

「翠鈴妃さま、私どもは華夢の代わりにあなたさまを娘とし、末長く後見することをお約束いたします」

 つまり華夢を切り捨て翠鈴を娘に挿げ替えて、権力を誇示しようというわけだ。
 信頼していた父親に裏切られた華夢は色を失っている。その彼女に福律が頭を下げた。

「黄泉の国の皇后さま、彼方の世界で陛下にお支えください。あなたさまは、黄一族の誇りにございます」

 にやりと笑みを浮かべる福律に、翠鈴の背中がぞくりとする。考えるより先に、祭壇の床を蹴った。

「駄目ー!!」

「翠鈴!!」

 劉弦の声も耳に入らなかった。
 父親に肩を押されて真っ暗な崖に倒れ込む華夢が妙にゆっくりと見えた。ひらひらと舞う彼女の長い袖を掴もうと手を伸ばし、翠鈴も祭壇から身を乗り出す。
 ぐらりと身体の均衡が崩れ、翠鈴も真っ暗な崖の向こうへ……。
 ひゅおおお、という谷から吹き上げる雄叫びのような風の音を聞き、恐ろしさに目を閉じる。谷底へ落ちてゆくのを覚悟した時――。
 柔らかいものに受け止められたのを感じて目を開くと、華夢とともに銀色の龍に抱かれていた。

「劉弦さま!」

「……無茶をするな。そなたは無理のできない身体だというのに」

 安堵したように劉弦が言う。群衆からどよめきがあがった。

「皇帝陛下!!」

「龍神さまだ……!」

 真っ黒な空に輝く美しい龍の姿に、跪きひれ伏して涙している者もいる。皆、劉弦の本当の姿を見るのははじめてなのだ。
 劉弦がゆっくりと夜空を飛び、崖から離れた安全な場所へ翠鈴と華夢を降ろした。
 茫然として座り込む華夢が無事だということに安堵して、翠鈴はホッと息を吐いた

「華夢さま……よかった」

 とにかく助かったのだ。これだけ崖から離れていれば、もう安心だ。

「陛下……? 翠鈴妃さま……」

 劉弦と翠鈴を交互に見て、ぼんやりとしている。この状況をまだよく理解できていないようだ。

 ――そこへ。

「ああああああ!」

 雄叫びをあげて走り出したのは、黄福律だ。彼はそのまま龍の姿の劉弦に突進した。

「ぐっ!」

 劉弦の顔が苦痛に歪み夜の空に飛び上がる。彼の腕に短剣を突き立てたままの福律も一緒だった。

「陛下……!」

「宰相さま!!」

 国の宰相が皇帝に剣を突き立てるという状況に、皆驚愕して動揺する。
 福律は劉弦の上に馬乗りになり突き刺さったままの短剣を引き抜く。ギラリと光る冷たい刃物は、赤い血に染まっていた。劉弦が苦しげに口を開いた。

「無駄なことだ、もはや諦めよ」

「くそお! すべてうまくいっていたのに。皇帝陛下! あなたが、華夢を寵愛しさえすれば! あの娘が来なければ!」

 やけになった福律が喚いた。

「翠鈴が来なくても私は華夢妃を寵愛したなかった。彼女は私の宿命の妃ではない。福律、おぬしはそれを知っていたのであろう? 古文書の話は眉唾物だな」

 劉弦の言葉に翠鈴のそばで華夢が「え……?」と掠れた声を出した。

「はっ! おもしろいことをおっしゃる。まさか陛下ともあろうものが、宿命の妃などありもしない存在を信じておられるのですか? 翡翠の手も宿命の妃もただの言い伝えでしょう! そんなものはこの世に存在しない。だったら家柄のいい私の娘がなるのになんの問題があるのです?」

 すべてを暴露しはじめる福律の言葉に群衆がどよどよとした。

「騙されていた民は愚かだが、あなたさまもでございます。はっ! そもそも神など愚かなものだ。何百年もの間、我ら黄族に操られていたのだから!」

 不穏な言葉に群衆が静まり返ると、福律は鼻を鳴らした。

「先の皇帝の治世で反逆罪に問われた緑族は、ただ我ら黄族に濡れ衣を着せられただけのこと。皇帝は我らの言うことを信じて宰相に重用した。つまり騙されていたのです。なにが神だ! なにが皇帝だ!」

「なるほど、それが古文書に書かれていたことだな」

劉弦の問いかけに福律が弾かれたように笑いだした。

「はははは! 民も富も権力も、すべて私のものにございます、皇帝陛下。以前の弱りきったあなたさまのままであられたら、こんなことしなくて済んだのです。もはやこの国にあなたさまは、不要にございます!」

 そう言って憎しみのこもった目で劉弦を睨む。身体を大きく逸らして、再び短剣を振りかざす。

「陛下! ご覚悟!」

 真っ黒な雲に真っ白な光が走り、雷鳴が轟く。短剣から逃れるために、劉弦が身体をうねらせた、その拍子に、福律は身体の均衡を崩す。

「あ、ああー!」

 短剣を振り上げた格好のまま、崖の下の谷底へ消えていった。

「劉弦さま!!」

 翠鈴が彼を呼ぶと夜空の上で苦しげに一回転した後、地上に降り立ち人の姿に戻る。純金の刺繍が施された外衣の肩のあたりがどす黒い色に染まっている。

「陛下!」

「龍神さま……!」

 あまりのことに近づけずにいる群衆を背に、翠鈴は駆け出した。
 愛おしい人が流す血に気が動転する。

「劉弦さま! 血が……!」

「翠鈴、走るな。無茶をするなと言っただろう。そなたは無理のできぬ身体。これくらいは大事ない」

 大事ないと言いながら彼は地面に膝をつく。額に汗が浮かび、息が荒い。
 血の上の真っ赤な光に、翠鈴は考えるより先に手をかざす。彼の傷と苦痛を少しでも和らげたい一心だった。
 途端に、劉弦がまばゆい緑の光に包まれる。
 群衆から、おおー!という声があがった。
 光が消えると同時に、傷は塞がったのだろう。劉弦の表情が楽になる。そのまま翠鈴を抱きしめた。

「無茶をするなというのに」

 耳元の声音に力強さを感じて翠鈴はホッと息を吐く。大きな背中に腕を回した。

「このくらい、なんでもありません。劉弦さま、よかった……」

 一連の出来事を、固唾を呑んで見守っていた者たちから、誰ともなく声があがる。

「傷が消えた?」

「翡翠の手だ……」

「翠鈴妃さまが……?」

「皇帝陛下の傷を癒してくださった。翠鈴妃さまが、翡翠の手の使い手だ」

「宿命の妃だ!」

 その中から、悲痛な声があがる。

「そんな……! 嘘、嘘よ……!」

 華夢だ。彼女は古文書の本当の内容は知らなかったのだろう。はじめから父親に騙されていたのだという事実を受け止めきれず、首を振っている。

「華夢妃を安全な場所へ連れていき、手当てするように」

 劉弦が指示すると、数人の従者が彼女を抱えるように連れていった。
 劉弦が見守る人々に向かって宣言した。

「私は、翠鈴妃を皇后とする。私は彼女を唯一の妃とし、彼女がこの地に在る限り、末長くこの国に平穏と繁栄をもたらすと約束しよう!」

 ――その瞬間。

 どどどと夜空を揺るがす歓声が、群衆からあがる。空を覆っていた厚い雲の隙間から月明かりが差し込んだ。

「翠鈴妃さま!」

「皇后さま!!」

「おめでとうございます!」

 広大な国土を持つ水凱国で、長きに渡り続いた民の憂いが、今完全に晴れていく。
 水凱国の新しい時代が幕を開けた。