布を敷いた寝台の長椅子に横たわる妃身体に転々と光る赤い光、そこ中心に翠鈴は揉みほぐしていく。
「胃の腑が疲れているようです。食事には気をつけてください。青菜を中心に食べると調子がよくなります」
最後にそう助言をして翠鈴は施術を終える。隣で蘭蘭が茶を差し出した。
「薬湯です。お飲みください」
「ありがとうございます。食べすぎなのは自分でもわかるんですけど。後宮はご飯が美味しいからついつい食べ過ぎてしまいます。調理場に言って減らしてもらおうかしら?」
「食べる量を制限するのはあまりよくありません。どちらかというと身体を動かすことを意識してくださいませ。ぜひ朝夕の散歩に参加を」
翠鈴が言うと薬湯を飲み終えた妃は、素直に頷いた。彼女は貴妃で今までは散歩に参加していない。
「わかりました。ふふふ、でも散歩じゃなくて、本当は私走る方が好きなんですよ。はしたないと言われてここへ来てからはしてませんが、実家では弟よりも早くて、父からは男だったらよかったのにって言われていたくらいなんです」
「あら、意外です」
翠鈴が言うと、妃はにっこりと笑った。
「ふふふ、誰にでも特技はあるものですわ。翠鈴妃さまこそ、このような得意なことがおありになるなんて思ってもみませんでした」
「私のは、生きるための術です」
話しながらふたりは、部屋の外へ出る。
「それにしても翠鈴妃さまに施術をしていただくとそれまでの不調が嘘みたいに身体が軽くなるんですね。本当は、翠鈴妃さまこそが、翡翠の手の使い手なんじゃないかって他の皆さまとお話ししていたくらいなんですよ」
ズバリのことを指摘されて、どきりとしながら翠鈴は答えた。もちろん彼女は冗談として言っているのだが。
「ま、まさか……。あり得ないことです。恐れ多いですわ」
ごまかすためにそう言うと、妃は少しムキになった。
「でも、翡翠の手の使い手は陛下の宿命の妃と言うじゃありませんか。実際、陛下のご寵愛を受けられているのは翠鈴妃さまですし……」
とそこで、なにかに気がついたようで気まずそうに口を噤む。翠鈴の部屋の向かい側、一の妃の部屋から華夢が出てきたからだ。一番聞かれてはならない相手だ。
以前ならこんなことあったら華夢は黙っていなかったはずだ。でも今はこちらを軽く睨んだだけで、女官を連れてどこかへ去っていった。
「ではまた……」
妃がホッと息を吐いて、自分の部屋へ戻っていった。
翠鈴はそのまま、遠ざかる華夢の背中を見つめた。
芸汎の一件からひと月が経った。
あの夜は熱を出した翠鈴だが、その後は問題なく回復し、体調も万全になった。食欲も戻りここのところなにを食べても美味しく感じる。どうやら赤子もすくすく成長しているようで、お腹も少し膨らみ出した。
身体を動かすことは、懐妊中もよいことという蘭蘭と宮廷付き医師の助言を受けて、散歩も再開して他の妃たちとの交流を楽しんでいる。
散歩には、貴人たちだけでなく貴妃たちも参加するようになった。翠鈴が芸汎を庇った一件がきっかけになったのは間違いない。
芸汎が翠鈴にしていた嫌がらせは華夢の意思だというのは、後宮中の者が知っていた。それまで散々彼女を思うままに操っていたというのに、簡単に切り捨てたところを皆見ていたのだ。あの日から貴妃たちは、華夢を立てるのをやめて、翠鈴と貴人たちと交流するようになったのだ。
そしてある日の散歩終わり、腰の辺りが赤く光っているひとりの妃に気がついて翠鈴は施術をした。それをきっかけに、毎日時間のある時に、身体に不調を抱える後宮内の妃たちを部屋で診るようになったのである。
これは翠鈴としてもありがたいことだった。指圧の腕が鈍らぬよう蘭蘭や芽衣の身体を借りて施術は続けてはいたものの、若くて健康なふたりは、あまり練習台にはならなかったからだ。
翠鈴の診療所は、今や妃たちに大人気である。毎日行列を作るので、蘭蘭が張り切って一日に五人までと決めて表を作って管理している。予約はひと月先までいっぱいだ。
部屋へ戻ると、蘭蘭が施術する時に使っている敷布を畳んでいた。
「本日のお方は、先程のお妃さまでお終いにございます」
「あら? まだあと三人診るんじゃなかった?」
翠鈴が言うと、蘭蘭は首を横に振った。
「本日はこれから、翠鈴妃さまが宮廷医師の診察を受けることになっております」
そういえばそうだったと思い出して、翠鈴は自分の寝台に座る。そしてさきほどの華夢を思い出した。
「蘭蘭、華夢妃は毎日どこへ行かれているのかしら?」
ここのところ彼女は毎日どこかへ出かけている。それが翠鈴は気になった。
蘭蘭が手を止めた。
「女官長さまの話ではご実家に行かれているそうですよ」
「ご実家に? そうなの……」
後宮の妃たちはそう頻繁に実家に帰ることは許されない。そもそも実家が遠い場所にある妃がほとんどだ。
でも宰相の娘である彼女の実家は宮廷のすぐそばにある。また、翡翠の手の持ち主としてある程度の自由が許されているようだ。
「ご実家にあんなに頻繁に戻られるということは、やっぱり後宮に居場所がないのかしら?」
「そうですね……。でも仕方がないですよ。あんなことがあった以上、皆さまお近づきになりにくいですから」
中庭での出来事を見ていた蘭蘭が言う。翠鈴としてもそれはまったく同意見だった。芸汎に対して彼女がしたことは、簡単に許されることではない。一時期は、後宮の中心にいた彼女が、今は完全に孤立している。なにか嫌なことが起こりそうな予感がして、それが翠鈴は心配だった。
「胃の腑が疲れているようです。食事には気をつけてください。青菜を中心に食べると調子がよくなります」
最後にそう助言をして翠鈴は施術を終える。隣で蘭蘭が茶を差し出した。
「薬湯です。お飲みください」
「ありがとうございます。食べすぎなのは自分でもわかるんですけど。後宮はご飯が美味しいからついつい食べ過ぎてしまいます。調理場に言って減らしてもらおうかしら?」
「食べる量を制限するのはあまりよくありません。どちらかというと身体を動かすことを意識してくださいませ。ぜひ朝夕の散歩に参加を」
翠鈴が言うと薬湯を飲み終えた妃は、素直に頷いた。彼女は貴妃で今までは散歩に参加していない。
「わかりました。ふふふ、でも散歩じゃなくて、本当は私走る方が好きなんですよ。はしたないと言われてここへ来てからはしてませんが、実家では弟よりも早くて、父からは男だったらよかったのにって言われていたくらいなんです」
「あら、意外です」
翠鈴が言うと、妃はにっこりと笑った。
「ふふふ、誰にでも特技はあるものですわ。翠鈴妃さまこそ、このような得意なことがおありになるなんて思ってもみませんでした」
「私のは、生きるための術です」
話しながらふたりは、部屋の外へ出る。
「それにしても翠鈴妃さまに施術をしていただくとそれまでの不調が嘘みたいに身体が軽くなるんですね。本当は、翠鈴妃さまこそが、翡翠の手の使い手なんじゃないかって他の皆さまとお話ししていたくらいなんですよ」
ズバリのことを指摘されて、どきりとしながら翠鈴は答えた。もちろん彼女は冗談として言っているのだが。
「ま、まさか……。あり得ないことです。恐れ多いですわ」
ごまかすためにそう言うと、妃は少しムキになった。
「でも、翡翠の手の使い手は陛下の宿命の妃と言うじゃありませんか。実際、陛下のご寵愛を受けられているのは翠鈴妃さまですし……」
とそこで、なにかに気がついたようで気まずそうに口を噤む。翠鈴の部屋の向かい側、一の妃の部屋から華夢が出てきたからだ。一番聞かれてはならない相手だ。
以前ならこんなことあったら華夢は黙っていなかったはずだ。でも今はこちらを軽く睨んだだけで、女官を連れてどこかへ去っていった。
「ではまた……」
妃がホッと息を吐いて、自分の部屋へ戻っていった。
翠鈴はそのまま、遠ざかる華夢の背中を見つめた。
芸汎の一件からひと月が経った。
あの夜は熱を出した翠鈴だが、その後は問題なく回復し、体調も万全になった。食欲も戻りここのところなにを食べても美味しく感じる。どうやら赤子もすくすく成長しているようで、お腹も少し膨らみ出した。
身体を動かすことは、懐妊中もよいことという蘭蘭と宮廷付き医師の助言を受けて、散歩も再開して他の妃たちとの交流を楽しんでいる。
散歩には、貴人たちだけでなく貴妃たちも参加するようになった。翠鈴が芸汎を庇った一件がきっかけになったのは間違いない。
芸汎が翠鈴にしていた嫌がらせは華夢の意思だというのは、後宮中の者が知っていた。それまで散々彼女を思うままに操っていたというのに、簡単に切り捨てたところを皆見ていたのだ。あの日から貴妃たちは、華夢を立てるのをやめて、翠鈴と貴人たちと交流するようになったのだ。
そしてある日の散歩終わり、腰の辺りが赤く光っているひとりの妃に気がついて翠鈴は施術をした。それをきっかけに、毎日時間のある時に、身体に不調を抱える後宮内の妃たちを部屋で診るようになったのである。
これは翠鈴としてもありがたいことだった。指圧の腕が鈍らぬよう蘭蘭や芽衣の身体を借りて施術は続けてはいたものの、若くて健康なふたりは、あまり練習台にはならなかったからだ。
翠鈴の診療所は、今や妃たちに大人気である。毎日行列を作るので、蘭蘭が張り切って一日に五人までと決めて表を作って管理している。予約はひと月先までいっぱいだ。
部屋へ戻ると、蘭蘭が施術する時に使っている敷布を畳んでいた。
「本日のお方は、先程のお妃さまでお終いにございます」
「あら? まだあと三人診るんじゃなかった?」
翠鈴が言うと、蘭蘭は首を横に振った。
「本日はこれから、翠鈴妃さまが宮廷医師の診察を受けることになっております」
そういえばそうだったと思い出して、翠鈴は自分の寝台に座る。そしてさきほどの華夢を思い出した。
「蘭蘭、華夢妃は毎日どこへ行かれているのかしら?」
ここのところ彼女は毎日どこかへ出かけている。それが翠鈴は気になった。
蘭蘭が手を止めた。
「女官長さまの話ではご実家に行かれているそうですよ」
「ご実家に? そうなの……」
後宮の妃たちはそう頻繁に実家に帰ることは許されない。そもそも実家が遠い場所にある妃がほとんどだ。
でも宰相の娘である彼女の実家は宮廷のすぐそばにある。また、翡翠の手の持ち主としてある程度の自由が許されているようだ。
「ご実家にあんなに頻繁に戻られるということは、やっぱり後宮に居場所がないのかしら?」
「そうですね……。でも仕方がないですよ。あんなことがあった以上、皆さまお近づきになりにくいですから」
中庭での出来事を見ていた蘭蘭が言う。翠鈴としてもそれはまったく同意見だった。芸汎に対して彼女がしたことは、簡単に許されることではない。一時期は、後宮の中心にいた彼女が、今は完全に孤立している。なにか嫌なことが起こりそうな予感がして、それが翠鈴は心配だった。