「あれで、よかったのか?」

 窓の外はとっぷりと日が落ちて夜空に月が輝いている。寝台に寝ている翠鈴の頭を、劉弦が撫でて問いかけた。
 詮議のあと、劉弦に抱かれて部屋へ戻った翠鈴はまた眠りに落ちた。どうやら劉弦も一度は執務に戻ったようだが、日が落ちてから翠鈴が再び目覚めた時はそばにいた。

「蜘蛛に刺されたのは翠鈴だ。翠鈴の思う通りにしてやりたいと思ったのだが」

 やはり彼は翠鈴が芸汎を庇ったことを見抜いていたのだ。それでも翠鈴の気持ちを思い、今回の件は不問に伏した。
 また熱がぶり返している熱い頭で、少しぼんやりとしながら翠鈴は口を開いた。

「ここのお妃さま方は、皆悲しい存在のように思います。働かずとも食べるにことかくことはないけれど、劉弦さまの寵愛を受けることのみを目的として生きる定めなのですから。互いに嫉妬して、足を引っ張り合うのも無理はありません」

 こんなこと、彼に言うべきではないという考えが頭の片隅に浮かぶ。でも熱を持った思考で、口が止まらなかった。

「私も劉弦さまの子を身籠らなければ、どのような心持ちになっていたかわかりません」

 彼女たちと自分は背中合わせだと翠鈴は思う。この美しくて頑丈な鳥籠に閉じ込められて、寵愛を受けない鳥は意味のない存在だと言われ続けたら、芸汎のように道を踏み外してもおかしくはない。
 自分がそうならないという自信はなかった。

「翠鈴は、彼女たちをどうするべきだと考える?」

 劉弦からの問いかけに、翠鈴はしばらく考える。頭に浮かんだ考えは少し罰当たりなことだった。彼に向かって口にするべきではない。
 でも今日のようなことを繰り返さないために、悲劇を生まないように思い切って口を開いた。

「彼女たちが望むなら、故郷へ帰らせてほしいと思います。自由に生きるのが、人の幸せだと思います」

 劉弦は、静かな眼差しで翠鈴を見ていた。

「寵を争うだけの一生は、幸せとは思えません。ましてやここでその望みが叶うのはほんのひと握りの者だけ。……芸汎妃さまは、ご実家から寵愛を受けられないことをひどく責められていたそうです。それで思い余ってあんなことを……。私も芸汎妃さまのお気持ちが、少しわかるような気がします」

「翠鈴が?」

 劉弦が撫でていた手を止めた。翠鈴は唇を噛み。声を絞りだした。

「私、皇后さまになる自信がありません」

 目を閉じて、翠鈴はここのところずっと考えていたことを口にした。

「劉弦さまだけでなく、貴人の皆さまも私に皇后さまになってほしいとおっしゃいます。私はお世継ぎを身籠りはしましたが、ただの村娘です。教養も後ろ盾もありません。恐れ多くて……。できそうにもないことを期待されて苦しまれた芸汎妃さまのお気持ちが……」

「翠鈴」

 名を呼ばれて目を開くと、劉弦が柔らかな笑みを浮かべていた。

「皇后に必要なのは、教養でも後ろ盾でもない」

「劉弦さま……?」

「少なくとも私は、私の皇后にそのようなものを求めない。皇后に必要なのは他者を思う温かい心。翠鈴、そなたそのものだ」

 劉弦の大きな手が、翠鈴の頬を優しく撫でた。

「皆がそなたを皇后にと願うのは、そなたにはその心があるためだ。世継ぎを宿したからではない。なにも気負わずそのままのそなたでいればいい」

「そのままの私で……?」

 そのままでいいという言葉に、翠鈴は目を見開いた。意外すぎる言葉だった。

「ああ、翠鈴には皆を思う心がある。だからこそ皆そなたを好きになるのだ」

 そう言って彼は部屋の隅に山積みになっている見舞いの品に視線を送った。すべて、熱を出した翠鈴を心配した妃たちからのものだ。貴人たちだけではなく貴妃たちからのものもある。しかも一番先に届けにきたのは、芸汎だという。

「夕刻、私がこの部屋へ来た時は、まだ部屋の前に列ができていた。皆翠鈴が心配で具合はどうだと女官に尋ねるから、女官が往生していた。私から大丈夫だ説明してようやく安堵して皆自分の部屋へ戻った」

 その時のことを思い出したのか、劉弦がくっくっと肩を揺らして笑った。

「あ、ありがたいです……」

 驚きつつ翠鈴は答えた。
 その頃、翠鈴は熱が上がっていて夢の中。よもや部屋の前でそのようなことが繰り広げられていたとは知らなかった。

「国を治めるには常に民を思うことが必要だ。私は翠鈴に出会い、その気持ちを取り戻した。私が末長くこの国を治めるために、翠鈴にそばにいてほしい。私の皇后は翠鈴しかいない」

 真っ直ぐな言葉に、翠鈴は、胸の中の重たいものが少し軽くなるのを感じていた。恐れ多いことであるのは変わらないけれど、彼とならばやれるかもしれないという思いが生まれる。

「皇后になることが、そなたに重荷だということはわかっている。その代わりにはならぬが、私は生涯そなたを唯一の妃とすることを約束する」

「私、ひとりを……?」

 これも意外すぎる言葉だった。
 彼が翠鈴を大切に思ってくれているとは知っていた。でもそれはたくさんいる妃の中のひとりとして。他の妃はいらないとまで彼が言うとは思わなかった。

「ああ、私の妃は翠鈴ひとりとし、他の妃は故郷へ帰そう」

「故郷へ……? いいのですか?」

 彼の口から出た驚くべき言葉に翠鈴は目を見開いた。さっき自分で口にしたことだがまさか実現するとは思わなかった。

「もちろん今すぐというわけにはいかない。私に皇后がおらず世継ぎもいない状況では民が不安になるだろう。翠鈴が世継ぎを生み立后したその後に」

「私が皇后さまになれば……」

 翠鈴は呟いた。まだ自信はない。けれどそうすれば、この悲しい争いに終止符を打つことができるのだ。
 目の前が明るくなるような心地がした。
 水凱国すべての民を思う。そこまでの気持ちが自分にあるかはわからないが、少なくとも目の前の彼女たちのことは大切だ。

「劉弦さまは、私にできるとおっしゃるのですね」

 信じてみようかと翠鈴は思う。愛おしいこの人の言うことを。
 劉弦が、身を眺めて翠鈴の熱い額に、自らの額をくっつけた。

「この国を末長く平穏に治めるのが私の定め。もはやそれに迷いはないが、それには翠鈴が必要だ。私の皇后になってくれ」

 至近距離で自分を見つめる漆黒の瞳に、翠鈴の胸は熱くなる。彼とならば、その道を歩んでいけると確信する。
 まだ少し怖いけれど。

「はい、劉弦さま。私を劉弦さまの皇后にしてください。生涯をともにいたします」

 言葉に力を込めて翠鈴は言う。
 もう、迷わない。

「ありがとう」

 そして熱い口づけを交わす。
 心地いい幸せな想いで、翠鈴は目を閉じた。
 唇を離して髪を撫で、劉弦が囁いた。

「私は翠鈴にそばにいてほしいと願う。そなたに出会ってから、私はこの想いの正体を探していた。神である私と人であるそなたを繋ぐ想いは、一筋縄ではいかないはず……。だがそうではなく単純なものだった。私はそなたが愛おしい。愛おしく思う唯一の存在なのだ」

 神である劉弦が紡ぐ、人と同じ愛の言葉。

 ——だがそれは、すでに眠りに落ちていた、翠鈴の耳には届かなかった……。