古い煉瓦に木の板を渡し布を敷いただけの粗末な寝台。そこにうつ伏せになって横たわる男性の背中に触れると、指先に感じるよくない感触。その部分を少し刺激すると、男性が「うっ」と声をあげた。

「いたた……! 翠鈴そこ、痛いよ」

 情けない声を出す男に、翠鈴は呆れたような声を出した。

「肝の臓が疲れているのよ、おじさん。お酒を控えるって約束守っていないでしょう?」

 小言を言いながら、指先に力を入れて丁寧にほぐしていく。さほど強く押していないのに痛みを感じるのは、それだけその場所が悪くなっているからだ。

「うっ……だけど、翠鈴。わしは酒だけが楽しみなんだよ……」

「なにも私はまったく飲まないようにって言ってるわけじゃないわ。ほどほどにって言ってるの。肝の臓がやられてしまったらもとに戻らないんだから。おじさんが動けなくなったら、おかみさん、悲しむわよ」

「う……はい」

 男が素直に頷くと、ふたりの様子を見守っていた村人たちからどっと笑い声が起こった。

「悪いことは言わないから翠鈴の言う通りにするんだね」

「そうそう、翠鈴の見立ては確かなんだから」

 皆、翠鈴の施術を待っている患者たちである。
 ここは、水凱国の南西地方に位置する村、七江(しちこう)。周りを山々に囲まれた長閑な村である。ここで生まれ育ち両親を早くに亡くした翠鈴は、医師だった祖父から受け継いだ指圧の技術と知識を生かして、村の外れで診療所を開いている。

 土壁に藁を被せただけの粗末な建物に、寝台がひとつ、施術を待つ人のために隣り町の居酒屋からもらってきた古い樽が三つ並べてあるだけの診療所ともいえないものだが、村の人たちからはなにかと頼りにされていて毎日朝早くから患者が列を作る。

「それにしても恒(こう)然(ぜん)老師が亡くなられた時はどうなることかと思ったけど、翠鈴ちゃんが診療所を引き継いでくれてよかったよ」

 施術を待つ年配の女性患者がため息をついて翠鈴の祖父の名前を口にする。彼女は毎日やってきて同じことを言う。頭痛持ちで、長年祖父のもとへ通っていた患者だった。

「おばさん、私はまだまだよ」

 人の不調を治す方法はいくつかある。祖父は薬の処方と針治療を主な手段として患者の治療にあたっていた。
 翠鈴にもある程度の薬草学の知識を与えた。だが翠鈴には、なぜか針ではなく指圧を主な手段とするよう勧めた。

『お前には、人の不調を癒す特別な手がある。それを存分に活かすのじゃ』

 その言葉の通り、翠鈴は人の身体に触れると大体の不調の原因がわかるという力があった。触れた指先の感触から、身体のどこが悪いのか、どのツボをどのくらいほぐせばいいかがわかるのだ。

「あー、楽になったありがとう、翠鈴」

 寝台から起き上がった患者が肩を押さえて首を回した。

「これで、もうひと働きできそうだ」

 そう言って笑顔を見せる男に、翠鈴は嬉しくなる。不調を感じていた患者が楽になったと言って帰っていくのがし翠鈴にとってはなによりの喜びだなのだ。

「お大事に、おばさんによろしく」

「ああ、また明日」

 患者は答えて青菜をひと束診療所の隅に置いていく。施術代の代わりだ。
 翠鈴のところへ来る村人は、貧しい者がほとんどだ。
 隣町の中心部には役人が運営する立派な建物の診療所があって都から来ている医師がいる。いつでも最新の治療が受けられるのだ。だが、そこは施術代が高い。だから貧しいたちが翠鈴のところへやってくるのだ。
 翠鈴は役人のように高い代金を要求しない。
 その代わり、患者たちは皆こうやって物を置いていく。米や野菜、果物……。診療所兼翠鈴の住居であるこの粗末な建物の雨漏りを直してくれる者もいる。施術代を請求しなくとも翠鈴がひとりで暮らすには十分だった。
 中にはそういった些細な施術代さえ置いていけない者もいるけれど、それを理由に翠鈴は施術を拒んだりはしなかった。どうしてか調子の悪い人を見るとそのままにしておけないタチなのだ。申し訳ないからと診療所へ来ない者については、自分から出向くこともあった。

「じゃあ、次はおばさんね。腰の痛みはどう?」

「翠鈴のおかげで随分楽にはなったけど、農作業をするとやっぱりね……」

「おじいちゃん直伝の薬草湿布を作っておいたから、持って帰って寝る前に貼ってね」

 いつもの会話をしながら翠鈴は彼女の身体をほぐしていく。身体の調子が悪くとも皆働かなくては食べていけない。この村では、皆その日暮らしの生活だ。

「ありがとうよ。ああ、私に息子がいたら翠鈴にお嫁さんになってもらうのに」

「ばあさんや、そりゃ翠鈴が可哀想だ。あんたの歳じゃ、息子じゃなくて孫じゃなくちゃ」

 別の患者が口を挟み、またどっと笑いが起こる。ばあさんと言われた患者も「なにを!」と言いながら笑っている。貧しくとも、皆笑って生きている。翠鈴はこの村の人たちが大好きだった。

「とは言っても、私ももう二十だけど」

 翠鈴も笑いながら答える。この辺りでは大抵の娘は十七くらいで嫁にいく。十九を過ぎると行き遅れと言われるくらいだった。結婚に興味がないわけではないけれど、祖父から受け継いだ診療所でひとりでも多くの人の不調を治したいと奮闘するうちに、この年になってしまった。とはいえ、べつに悲観しているわけではない。食べていく術があれば、伴侶がいなくとも生きていけるのだから。

「嫁にいくと言えば」

 患者のひとりが思い出したように口を開いた。

「俺の娘が嫁に行った隣村のことだが、この間の水害で田畑が水浸しになったようだ」

 そう言って暗澹たる表情になる。

「後少しのところで雨が止み死人が出なかったのは、龍神さまのご加護だろうが田畑がやられたのでは……」

 その言葉に、皆どこか不安げな表情になった。
 皇帝である龍神の加護で国が成り立っているというのは、この国の者ならば赤ん坊から年寄りまで皆が知っていることだ。でも、その加護がどこか弱まりつつあるのではとも感じていて、集まるとこんな風に話題にのぼる。
 ここのところ、以前はなかったような日照りや嵐、異常気象にたびたび見舞われている。幸いにして甚大な被害が出ているというわけではないけれど……。

「皇帝陛下、お身体の具合でも悪いのだろうか……」

 誰かの呟きにその場の空気が重くなる。国の守り神である龍神の力が弱っているのでは、国の先行きは明るくない。

「まぁ、大丈夫だろう」

 別の男が口を開いた。彼は行商人で遠くの町まで山を越えて仕入れにいく。そこで聞いた世間の情報をいつも村の皆におしえてくれる。

「今年二百歳になられる皇帝陛下のために、先日後宮が開かれた。国中からお妃さまが集められたって話だよ」

 その話は翠鈴も聞いたことがあった。
 龍神の寿命は千年と言われていて、成人する二百歳の年に後宮が開かれる。各地に散らばる部族長たちの娘が妃として嫁入りする慣例だ。寿命が短い人間は、後宮が開かれることなど、一生に一度見られるとも限らない貴重な出来事だから、都はお祭り騒ぎだという。

「その中に翡翠の手を持つ黄族の姫君さまもいらっしゃるという話なんだ。龍神さまの具合が悪くとも、癒してくださるだろう」

 一同は安堵する。

「なら安心だ。少しは国もよくなるだろう。翡翠の手を持つお妃さまは皇帝陛下の宿命の妃だという話じゃないか。そのお妃さまとの間にお世継ぎができればありがたいねえ」

 誰かがそう話を締め括り、皆うんうんと頷いた。
 皇帝陛下の後宮の話など、翠鈴にとっては雲より遠い世界の話だが、安心して暮らせるのが一番だ。どうかそのお妃さまが皇帝陛下を癒してくださいますように。
 翠鈴は心からそう願った。