中庭はものものしい空気に満ちていた。
 皇帝の宮へ続く赤い扉を背に、厳しい表情の劉弦が椅子に座り、彼と少し距離を空けて、すべての妃が対峙する形で座っている。皆一様に不安そうだ。
 翠鈴は蘭蘭に支えられて、劉弦と妃たちのちょうど間の位置から中庭へ歩み寄った。まだ誰にも気づかれていないという状況の中、劉弦が詮議するのを伺う。
 劉弦が皆に向かって口を開いた。

「昨夜の夜半過ぎ、翠鈴妃の寝所へ毒蜘蛛が放たれるという出来事があった。翠鈴妃は刺され療養中である。今から蜘蛛を放った者を探し出す」

 妃たちがなぜ集められたのかを知り、その場がざわざわとなった。
 華夢が手を上げる。劉弦が彼女を見て首を傾けると、立ち上がり口を開いた。

「翠鈴妃さまにお見舞い申し上げます。なれど陛下、蜘蛛はこの辺りにはたくさんおりますわ。部屋へ入り込み刺すこともございましょう。何者かが放った決めつけるのは早計では? 翠鈴妃さまはご懐妊中で、少し気が立っていらっしゃるのではないでしょうか」

 ただの事故を翠鈴が大げさに騒いでいるのだと主張する。それを劉弦が一蹴した。

「翠鈴妃が刺された場に私もいた」

 劉弦が答えると、その場がまたざわざわとなった。
 皇帝が夜に後宮の妃のもとに来ることがあり得ることとは知っていても、はじめてのことだったからだ。

「蜘蛛は即座に始末したが、あの場には、少なくない数がいた。どう考えも不自然だ」

「……仮にそうだとしましても、後宮内で起こったことは、後宮内で収めるのが慣例にございます。陛下自ら詮議など大げさな……」

「あの場に私もいたと申しただろう。寵姫の寝所に皇帝がいるかもしれぬといいくらい、後宮の者ならば予測できたはず。翠鈴妃の寝所に毒蜘蛛を放つのは、私に対する反逆だ」

 劉弦が言い切ると、その場が張り詰めた空気になる。翠鈴の部屋への嫌がらせは日常茶飯事だ。それが反逆だと言われて身に覚えのある者たちは、真っ青になっている。

「後宮の秩序に誰よりも心を砕くそなたも、黙ってはいられぬはずだ」

 そう言って、劉弦が華夢を睨むと彼女は眉を寄せて口を閉じた。
 劉弦が皆に視線を戻した。

「昨夜から今までの間に、秘密裏に後宮の人の出入りを確認した。そなたたちも知っているように後宮の警備は厳重だ。昨夜、日が暮れてからこの建物に出入りした者はいない。すなわち、蜘蛛を放った者はこの中にいるということだ」

 劉弦の言葉に、一同息を呑む。それを一暼してから劉弦が合図をすると控えていた従者がひとりの女官を連れて現れた。女官は顔面蒼白で歩くのもままならないほどおぼつかない足取りだ。劉弦と妃の間にまできて、玉座に向かって平伏した。遠目にもわかるほど、肩が震えている。
 劉弦が、やや声を和らげた。

「そなたは、ここでは妃たちに従ねばならぬ立場にいる。正直に申せば、罪には問わない。あったことを申せ」

 女官が蒼白の顔を上げて、恐る恐る口を開いた。

「昨日の夕暮れ、原っぱへ行き蜘蛛を二十ほど用意いたしました」

「それは、この種の蜘蛛か?」

 劉弦が合図をすると、従者が彼女の前に蜘蛛の死骸を指し示す。女官が頷いた。

「……はい」

「なるほど。そしてそなたはその蜘蛛をどうした?」

「や、夜半過ぎ、す、翠鈴妃さまの寝所の扉の下から放ちました……!」

 気の毒なほど、震える声で女官が答える。
 劉弦が頷き、間髪入れずに問いかけた。

「それはそなたの独断か?」

「い、いえ……! ち、違います……。わ、私はそのようなこと、自らは……」

 彼女はわなわなと首を振った。

「ではそなたにそうするよう指示した者がいるのだな?」

「は、はい……私は指示されて……」

「では、その者の名を申せ」

 劉弦が命令すると、女官は沈黙した。女官の息づかいが聞こえてきそうなほど、その場が静まりかえる。
 女官が意を決したように口を開いた。

「わ、私が、指示を受けたのは……。芸汎妃さまにございます……!」

 その場が、騒然となった。
 もっとも翠鈴への嫌がらせについて、彼女が先頭に立ってしていたことは皆知っている。だから驚いたというよりは、女官が妃を裏切ったことに対して動揺しているのだろう。

「あい、わかった」

 劉弦が頷いて、そばに控えている梓萌に視線を送る。

「この女官は保護するため、後宮の役目から解く。別の働き先を世話するよう」

 女官が涙を流しながら下がっていった。
「芸汎妃をこれへ」

 劉弦が指示すると、妃の席に座っていた芸汎を従者が取り囲む。両脇を抱えられるようにして立たせた。

「華夢妃さま……」

 彼女は、か細い声で華夢に向かって助けを求めるが、華夢は彼女を見なかった。
 劉弦の前に引き摺り出された芸汎はもはや口もきけないほど顔色を失っている。翠鈴の胸が締め付けられた。
 劉弦が問いただす。

「芸汎妃、翠鈴妃の寝所に蜘蛛を放つよう女官に指示したのはそなたか?」

「わ、私は……」

 芸汎が翠鈴への嫌がらせを繰り返していたのは後宮内の誰もが知るところ。女官の証言もある以上言い逃れはできない。

「私は……」

 芸汎が振り返り、華夢を見た。芸汎が華夢の腰巾着で常に華夢の意思によって行動している、それもまた皆、知っていることだった。
 劉弦が彼女の視線を追って、問いかけた。

「そなたもまた、誰かに指示されたのではないか? 正直に申してみよ」

「私は……」

 芸汎は口を開こうとするが、怯えすぎて上手く言葉が出てこないようだ。

「わ、私は……」

「残念だわ、芸汎」

 華夢が立ち上がった。

「あなたが、ご実家から陛下の寵愛を受けられないことを責められているのは知っておりました。それについて胸を痛めておりましたが、だからといって、こんな卑怯な真似をするなんて。許されることではありません」

 そう言って汚らわしいというように芸汎を見た。
 芸汎が目を見開いた。

「華夢妃さま……」

 唇が震えている。その目が絶望の色に染まるのを見て、翠鈴は胸が締め付けられた。今この瞬間に彼女は信じていた相手から切り捨てられたのだ。

「私は、華夢妃さまがお、おっしゃった通りに……」

 完全に裏切られたことを悟った芸汎の口からようやく言葉が出はじめる。それを華夢は遮った。

「私が? 私が指示したというの? 蜘蛛を翠鈴妃さまの寝所へ放つようにと、私が言ったっていうの?」

 芸汎が言葉に詰まった。そうだとは言えないのだ。それは昨日華夢の部屋での会話を聞いていた翠鈴にはわかった。華夢はただ彼女に、生ぬるいことをするなと言っただけだ。

「そ、それは……」

「言いがかりはやめてちょうだい。往生際が悪くてよ。自分でやったことの罪は自分で償いなさい」

「そんな、華夢妃さま……!」

 耳を塞ぎたくなるようなふたりのやり取りに、翠鈴は腹の底から怒りの感情が湧き起こるのを感じていた。あんなに頼りにされていた相手をこんなに簡単に切り捨てるなんて、これが教養のある者することだろうか。
 なにが一の妃だ、なにが皇后候補だと思う。

「これ、あなたたち、早く芸汎妃を連れて行きなさい。しかるべき罰を受けさせるように」

 勝手に事態の幕引きをはかろうと、従者に指示をする華夢を、劉弦が止める。

「待て。まだ結論は出ておらん」

 その言葉を聞いたと同時に翠鈴は床を蹴る。従者に脇を抱えられている芸汎と劉弦の間に駆け出した。

「お待ちください!」

 芸汎を背にして、劉弦に向かって腕を広げた。

「芸汎妃さまに、蜘蛛を部屋へ持ってくるようにお願いしたのは私です!」

 熱がある状態で、勢いよく駆け出したことに身体が耐えられず、ぐらりと体勢を崩してしまう。

「翠鈴‼︎」

 劉弦が立ち上がり翠鈴を抱き止めた。

「寝ているように言っただろう!」

 珍しく声を荒げる劉弦に、翠鈴は訴えた。
「芸汎妃さまが罪に問われるのをそのままにしておくわけにはいきません!」

 劉弦の服を握り翠鈴はかぶりを振った。

「昨夜は叱られるのを恐れて本当のことをお伝えできなかったこと、お許しください。芸汎妃さまに蜘蛛を部屋へ持って来るようお願いしたのは私です」

 駆け出しながら頭に浮かんだことを一生懸命口にした。
 芸汎に行動するのを命じたのは間違いなく華夢だが、それを訴えたところで彼女は絶対に認めないだろう。実際、具体的なやり方を口にしていなかったのも事実だ。このままでは芸汎が断罪されてしまう。
 皇帝への反逆罪は、流刑あるいは死罪だ。

「あの種の蜘蛛は干して飲めば、身体の浮腫を取る良薬になります。毎日散歩をする貴人の方々の中には足が疲れる方もいるようですから、差し上げようと思ったのです。瓶に入れて蓋をしたつもりでしたが、重石を置くのを忘れていました。それが逃げ出してしまったのです! 陛下、芸汎妃さまに罪はありません。どうか、どうか……!」

 そもそもが作り話なのだ。熱のある頭では順序立ててうまく説明できなかった。嘘をつくのはよくないとわかっている。それでもこうせずにいられなかった。
 できそうにないことを期待されて、押しつぶされそうになり、もがいていた彼女の気持ちは痛いほどよくわかる。どうすればいいかわからないままに、間違った道に足を踏み入れてしまったとして、それを責める気にはなれなかった。
 崩れ落ちそうになる翠鈴を危なげなく支えて、劉弦は逡巡している。翠鈴の言うことが本当でないとわかっているのだろう。翠鈴は、思いを込めて、漆黒の瞳を見つめた。

「劉弦さま」

 劉弦が息を吐いて目を閉じた。そして、腰が抜けたように床にへたり込み、啞然としている芸汎に向かって問いかけた。

「芸汎妃、今の話は真実(まこと)か?」

 芸汎が翠鈴を見る。なにかの罠かと疑ってもいるのかもしれない。安心させるように頷きかけると、その目に涙が浮かぶ。そしてその場に平伏し頭を床に擦りつけた。

「す、翠鈴妃さまのおっしゃる通りにございます……!」

 翠鈴が劉弦を見上げると、劉弦が仕方がないというように息を吐いた。

「……ならば、誰も罪に問うことはできぬな」

 その言葉に、その場の空気が緩んだ。
 劉弦が一同を見回し、最後に華夢に視線を送り口を開いた。

「だが、翠鈴妃の身体には私の子がいることを忘れぬよう。彼女への無体な振る舞いは私への反逆とみなす」

 華夢はその劉弦から目を逸らすことなく見ていた。
 貴妃たちが顔を見合わせている。今回の件をどう捉えるべきかはかりかねているようだ。
 なにはともあれ、悲しい結末にならずに済んだと安堵して、翠鈴の身体から力が抜ける。あまりの出来事に少し熱が上がってしまったようだ。熱い息を吐く翠鈴を劉弦が抱きあげた。

「今回のことは私の思い違いにより騒ぎを大きくしてすまなかった。皆、解散するように」

 そう言い残して、中庭を横切り翠鈴の部屋へ行く。妃たちが心配そうに見ていた。