国中の領地を治める部族長から献上された品々が玉座の間に並べられている。役人がそれらの目録を読み上げるのを玉座に座り劉弦は聞いている。
どれも一般の民には手が届かない高級品ばかりだが、神である劉弦には必要ない。だからこれらはすべて金子に換えて、貧しい者たちの施しにするのが慣例だ。
だから正直なところ献上品の内容には興味がない。ただ皇帝の役目として聞いているだけだった。だが役人が読み上げる目録の中の『茶』と言う言葉に、引っ掛かりを覚えて、劉弦は眉を上げた。
「茶……か」
さまざまな植物を乾燥させて作る茶は、嗜好品というよりは薬の役割を果たすことがほとんどで、原料の種類や組み合わせによって人の体調を整える効果がある。
そのことを思い出し、劉弦は役人に問いかけた。
「そなた、その茶は、胃の腑の調子を整えてすっきりさせると言ったな」
「はい。効果は抜群にございます」
「その……。それは身ごもっている者が飲んでもよいものか?」
劉弦からの質問に、役人は不意を突かれたように瞬きをする。だが、すぐに笑顔になった。
「もちろんにございます! こちらの茶はいい効果こそあれ、悪い効果はございません。懐妊初期の胃の腑の不快感を取り除いてくれるので、産地では懐妊の祝いとしても喜ばれる品です。ぜひご寵姫さまに差し上げてくださいませ!」
嬉しそうに声をあげる。劉弦はおもはゆい気持ちで、頷いた。
今彼が言った通り、劉弦が献上品の茶に興味を持ったのは、翠鈴のことが頭に浮かんだからだ。
彼女は、ここのところ体調が悪く食欲がないと聞いている。
懐妊中、とくにはじめの頃には珍しくないことだと周りは言う。だがそれでも心配だった。
「ご寵姫さまはなんと申しましても世継ぎを身ごもられておられるのですから、陛下がご心配されるのも無理はありません」
役人の言葉に劉弦は一応頷く。だが本当のところ、世継ぎが心配というよりは翠鈴自身を心配しているという方が正確だった。自分の子が彼女のお腹にできたということを、まだはっきりと実感できていないのが、正直なところだからだ。
だかとにかく彼女を愛おしいと想うのは紛れもない事実なのだ。彼女の不調をなんとかしてやれるなら、なにをしても構わないという気分だった。
「ご寵姫さまのお好きな果物の砂糖漬けを浮かべてもよろしいですよ。陛下の深い愛情に、ご寵姫さまが元気になられることをお祈り申し上げます」
役人が言って目録を閉じ、下がってく。
その言葉をこそばゆく感じながら、劉弦は彼を見送った。
泥水が流し込まれたその夜、翠鈴が劉弦の寝所へ行くと、普段なら執務から戻っていない彼が珍しく翠鈴を待っていた。
彼は驚く翠鈴を寝台に座らせて、自分も隣に座り湯呑みを持たせる。
「これは?」
「茶だ。飲めそうなら飲んでみよ。胃の腑の調子がよくなり、すっきりするという話だ。今朝、東北地方から献上品として宮廷に届いた」
確かそういう茶があったと翠鈴は思い出す。祖父から聞いたことがあるが本物を見るのははじめてだった。なにしろ民には高価すぎて手に入らないしろものだ。
「こんな貴重なものを……」
もちろん翠鈴の体調を気遣ってくれてのことだろう。こんな高級品を口にするなど恐れ多い。断るべきだと思うが、すでに淹れてしまっているのを無駄にするわけにいかない。
恐る恐る口に含むと、すっきりとした香りで飲みやすい。ひと口、ふた口飲んでいると、船の上で揺られているような不快感が少し楽になった。
劉弦が翠鈴の頭を優しく撫でた。
「少しでも楽になればよいのだが」
まるで心から翠鈴を思いやっているようにも思える優しい声音。その眼差しに、翠鈴の胸が甘く切なく締め付けされた。
彼に大切にされるのは嬉しい。でもその反面、これが愛情からくるものではないことがつらくて苦しかった。
彼にとって翠鈴は宿命の妃であり、大切な世継ぎを宿した唯一の妃。だからこそこうして優しくしてもらえるのだ。
——誰かを愛おしく想う気持ちは、こんなにも欲張りで卑しいものなのだ。
彼の優しさには、感謝こそすれ寂しく思うなどあってはならないことなのに。
自分を見つめる漆黒の瞳と身体に回された逞しい腕、高貴な甘い香り。すべては国の民のためにあり、自分だけのものではないことくらいわかっているはずなのに。
「……ありがとうございます。劉弦さまのお慈悲に感謝いたします」
飲み終えた湯呑みを台に置き、翠鈴は彼を見つめる。どうしてか、彼のそばにいる間は少し身体が楽になる。でも心はじくじくと痛かった。
もういっそ彼を愛おしく想う気持ちなどなくなってしまえばいいのに、と翠鈴は思う。
尊敬と感謝の念だけを抱いていた頃に戻れればどんなにか楽だろう。けれど、どうしたらそうできるのか、見当もつかなかった。彼の目をまともに見られなくて俯く翠鈴に、劉芸が静かに口を開いた。
「翠鈴」
「はい」
「そなたを私の皇后にしようと思う。世継ぎが生まれたら、立后の儀を執り行う」
突然の彼の宣言に、翠鈴は顔をあげて目を見開いた。
「私を皇后さまに……?」
「ああ、翠鈴は私の唯一無二の存在だ。皇后はそなた以外あり得ない。私には翠鈴が必要だ」
真っ直ぐな言葉と、熱い視線に翠鈴の胸が震える。まるでそこに愛情があるかのようだった。
でもすぐに、これは幻想だと自分自身に言い聞かせた。彼が自分を大切にするのは、翡翠の手を持つ唯一の存在だから。
「翠鈴、私の皇后になってくれ」
低くて甘い彼の声音に、翠鈴の背中がぞくりとする。自分を見つめる真摯な眼差しに、都合のいい夢を見てしまいそうで怖かった。
「恐れ多くて……」
それだけ言って目を伏せた。
愛情という絆で結ばれていない夫婦の間の、皇后という役割は重たすぎて受け入れることができなかった。
「大丈夫だ。翠鈴は皇后に相応しい」
彼の言葉も素直に受け止められなかった。
——それは私が、翡翠の手の使い手だから。彼は私自身を愛しているわけではない。
宿命の妃という役割からも逃げ出したいくらいだった。
彼に愛されているならば、こんな風に思わなかったのだろうか?
どんなに重たい役割も耐えられる?
目を伏せたまま答えられない翠鈴を、劉弦は急かさなかった。
「まだ時間はたっぷりある。ゆっくりと心の準備をすればいい。まずは身体を労り出産に備えよ」
「はい……少し気分が優れません。今宵はもう休んでもいいですか?」
「ああ、ゆっくりと休むがいい」
翠鈴は、布団の中に潜り込み、布団を頭までかぶった。
世継ぎを生んだ妃が立后する。それが国にとっては自然なことなのだろうか。……たとえそこに愛情がなかったとしても。
ゆっくりと心の準備をすればいいと彼は言うが、ことは皇后に関することなのだ。いつまでもぐずぐずと考えているわけにいかないだろう。
——少なくとも子が生まれるまでに覚悟をしなくてはならない。
——覚悟なんて、いつまでたってもできそうにないのに。
生まれるまでに覚悟しなくてはならないなら、子が生まれるのが怖かった。
その恐怖から目を逸らすように翠鈴は目を閉じた。
劉弦に愛されていないけれど、皇后にならなくてはならない。
その事実は、翠鈴の心に重くのしかかった。
彼の顔を見るのも、その優しさに触れるのもつらくて、体調が優れないことを理由に、夜寝所へ行くのも断り自室へ籠るようになった。体調は日に日に悪くなる一方だった。
散歩にも行かない翠鈴を中庭へ誘ったのは芽衣だった。
「中庭ならすぐにお部屋へ戻れるし、安心でしょ。日の光を浴びないとおかしくなるとおしえてくれたのは、翠鈴よ」
それもそうだと考えて、芽衣とともに何日かぶりに中庭へ行く。長椅子に腰掛けると途端に貴人の妃たちに囲まれた。皆一様に心配そうな表情だ。
「翠鈴妃さま……。お顔を見られなくて寂しかったです」
「お会いできて嬉しいですが、あまり体調はよくなさそうですね」
「蘭蘭、この香を翠鈴さまに炊いて差し上げて。懐妊中の不快感を抑えてくれるの。実家から取り寄せたのよ」
「皆さま、ありがとうございます」
翠鈴は心から言う。皆の気遣いが嬉しかった。久しぶりに見知った顔に囲まれて少し気分が晴れていく。芽衣の言葉の通りにしてよかったと思う。
一方で、彼女たちの向こうでは貴妃たちが嫌そうにこちらを見ている。中庭に彼女たちが来ているのを不満に思っているのだろう。
「翠鈴妃さま、そこは華夢さまがいつもお座りになっておられる場所ですよ」
きつい表情で、咎めるように言ったのは、張芸汎だ。
すかさず芽衣が答えた。
「華夢妃さまは今お部屋にいらっしゃるじゃないですか。ですから……」
「いついらっしゃってもお座りいただけるよう空けておくのが、後宮の妃の務めにございます」
芸汎の言葉に他の貴妃たちも頷いている。
「おのきくださいませ」
詰め寄る芸汎から翠鈴を庇うように芽衣が立ち上がった。
「そのような決まりはありませんわ。それなのに、そのようななさりよう……。妃同士仲良くするのをお望みだと陛下はおっしゃったのを芸汎妃さまもお聞きになられていたでしょう?」
毅然として言い返す芽衣に、貴人たちがそうだというように頷いた。
芸汎が、弾かれたように笑い出した。
「まぁ、おかしい! お優しい陛下の建前を本気になさるなんて……!」
扇子を口元を隠して、笑い続けている。
貴妃たちもくすくすと笑い出した。
「これだから教養のない方は」
「少し考えたらわかるのにね」
こちらに聞こえるように嫌味を言い合っている。
「華夢妃さまは、皇后さまになられる方なのですよ? 私たちと同じに考えるべきではありません。そのくらいわからないのですか?」
勝ち誇ったように芸汎が言う。それはそうかもしれないが、そのような言いぐさはないと、翠鈴は思う。でも言い返す気力が湧かなかった。
「将来の皇后さまに逆らうなんて、あなたたちいい度胸ね!」
芸汎は、高飛車に言ってぐるりと貴人たちを見回す。貴人たちは気まずそうに顔を見合わせた。でもその中のひとりが、ぽつりと呟いた。
「……そんなのわからないわ。翠鈴妃さまが皇后さまになられる可能性もあるじゃない」
その言葉に、貴人たちがハッとしたような表情になり、同調した。
「そうよ。翠鈴妃さまは、お世継ぎをお生みになられるのよ。それにお人柄もお優しいし……私は翠鈴妃さまが、皇后さまになられる方がいい」
「私も、皇后さまは翠鈴妃さまがいいってお父さまに申し訳あげるわ」
「私も!」
「私もそうする」
そう言って手を取り合い盛り上がっている。彼女たちの気持ちはありがたいが、翠鈴の胸は重くなった。
どう考えても買いかぶりすぎだ。翠鈴には、皇后に相応しい器量も教養もない。ただの田舎娘だというのに。
芸汎が鼻を鳴らした。
「馬鹿馬鹿しい。あなたたちの父親にいったいなんの権限があるというの? 華夢妃さまのお父さまは宰相さまなのよ。宰相さまは、陛下をお支えする重要な方、あなたたちの父親とは立場が違うんだから。教養のない方が皇后さまになるなんて、それこそ国はお先真っ暗よ!」
ひどい言葉だがその通りだと翠鈴は思う。国の中枢を担う家臣の家柄に生まれて高い教育を受けてきた彼女とは雲泥の差だ。
「それに華夢妃さまは、翡翠の手の持ち主なのよ。宿命の妃なんだから」
これで決まりだというように芸汎は言うが、芽衣が反論した。
「翠鈴だって不調を見抜く目があるわ。私はそれで病にならずに済んだんですもの」
「そうよ! 蘭蘭だってびっくりするくらい元気になったじゃない。華夢妃さまより翠鈴妃さまの方がよっぽど……」
「皆さま」
不毛なやり取りを遮る声がして、皆そちらへ注目する。華夢妃だった。
「騒ぐのはおやめなさい。妃として振る舞いではありませんよ」
そう言って、皆の中心へやって来る。突然の彼女の登場に、貴人も貴妃も皆、黙り込んだ。
「どなたが皇后さまになられるかは、私たちが決めることではありません」
言い切ってぐるりと皆を見回した。
「お世継ぎをお生みになられる方を皇后さまにと考えるのは当然です。皆さまのお気持ちはわかりますわ。……なれど」
華夢は言葉を切り、翠鈴を見た。
「翠鈴妃さまが来られてからこのようなことばかりにございます。以前は保たれていた後宮の秩序がここのところ乱れっぱなし。しかもいつもその原因は翠鈴妃さま」
手にしていた扇をパチンと閉じた。
「皇后さまになられるというならばもう少しご自身の振る舞い方をご自覚くださまし。皇后さまはこの後宮を治める方なのでございますよ」
鋭く言って踵を返す。透ける素材の長い袖をヒラヒラさせて去って行った。慌てて芸汎があとに続いた。
その後ろ姿を見つめながら、翠鈴は暗澹たる思いになっていた。
皇后になりたいなどとは思わない。そのための教養も自覚もないのだから。それでも、彼女の言葉は翠鈴の胸に突き刺さり、じくじくと痛んだ。
華夢が去ったあとは、その場は解散になる。翠鈴も芽衣と別れて自室に戻ることにした。
途中、一の妃の部屋の前を通りかかると、開きっぱなしの扉の向こうから、華夢の苛立った声が聞こえた。
「私の名前をあんな風に出さないで。万が一にでも陛下のお耳に入ったらどうするのよ」
「も、申し訳ありません。ですが翠鈴妃さまに、あの場所から翠鈴妃さまにおのきいただくようにせよとおっしゃられたのは、華夢妃さまで……」
答える芸汎の声は、さっきとは打って変わっておどおどしている。それに華夢が激昂する。
「だから、もう少しうまくやりなさいって言ってるの! あんなやり方、私の品位を貶めるやり方だわ。芸汎、あなたがこんなに無能だとは思わなかった。できないならいいわ、他の者に頼むから。もちろんその場合は、私が皇后になっても指名の話はなしよ。そしたらあなたなんて一生陛下に寵愛してもらえないわ。その見た目じゃね!」
よほど苛ついているのだろう。扉を閉めるのも忘れて芸汎を罵っている。
芸汎が慌てて声をあげた。
「華夢妃さま……! そんなことをおっしゃらないでください。もっとちゃんとやりますから」
「そう? ならもう少しだけ、機会をあげる。でももう今日みたいな手ぬるいのは見たくないわ」
「手ぬるいって……。今よりももっと……にごさいますか?」
「そうよ、あの女が自らここを出ていきたくなるくらい、追い詰めるのよ。わかったわね?」
華夢の言葉を聞いて、翠鈴と蘭蘭はそっとその場を後にした。
自室へ戻りしっかり扉を閉めてから、椅子に座り暗澹たる思いでため息をついた。
「どうしてあんなことを言われてまで、華夢妃さまのそばにいるのかしら……」
人間なのだから相手の好き嫌いは仕方がない。翠鈴よりも華夢が皇后に相応しいのもその通りだ。でもあそこまで言われて、それでも彼女に従うのが理解できなかった。
「指名していただくためだからって……」
「芸汎妃さまは、実家からの期待が他の方より大きいのです」
まるでなにかを知っているかのような口ぶりの蘭蘭に、翠鈴は首を傾げた。
「蘭蘭、あなた芸汎妃さまを個人的に知ってるの?」
蘭蘭が少し気まずそうに、首を横に振った。
「いえ、そうではなくて……以前、芸汎妃さまのご実家からのお手紙を拾ったことがあるんです。も、もちろん、中を読むつもりはなかったんですが、どなたのものか確認するために仕方なく……。そしたら翠鈴妃さまの名前が書いてあったのでつい……」
「私の名前が?」
「はい。芸汎妃さまのお父上さまは、翠鈴妃さまがご寵愛を受けられたことを怒っていらっしゃいました。お前は役立たずだ、器量の悪い娘を持って自分は不幸だと、それはそれはひどい言葉で」
器量が悪いだなんて、父親が娘に使う言葉ではないと翠鈴は思う。しかも実家を離れて後宮でひとり暮らしている娘に……。
「自力では寵愛を受ける可能性はないんだから、華夢妃さまに取り入って、指名してもらうようにと書いてありました。失敗したら、お前なんていらない、張家の恥晒しだ、とまで……娘にあんな風に言う父親がいるんですね」
蘭蘭が憂うつな表情でため息をついた。
温かい家族で育った、家族思いの彼女からしたら考えられないことなのだろう。
翠鈴にとっても同じだった。だけど父親からそんな風に言われているのなら、躍起になって翠鈴を追い出そうとするのも頷ける。
華夢に許しを乞うていた芸汎妃の悲痛な声が耳から離れず、胸が痛かった。彼女は、ただの意地悪で嫌がらせをしているわけではない……。
貴人の妃たちだって、打ち解けてみれば普通の心優しい娘たちだった。おそらくは貴妃たちも……。
繊細な作りの赤い灯籠がいくつも下がる天井を翠鈴は見上げた。ここは、美しく豪華な造りの大きな鳥籠。本当なら自由なはずの鳥たちを閉じ込めているのだ。
自分と、彼女たちの行先に思いを馳せて、翠鈴はため息をついた。
夜半すぎ、肌寒さを感じて翠鈴の意識が浮上する。自室の翠鈴用の寝台は、いつも寝ている劉弦の寝台の半分以下の大きさだ。それなのに、妙に広く感じて心細かった。寝返りを打ち、目を閉じてもう一度眠ろうと試みる。だがうまくいかなかった。
昼間の出来事が頭の中をぐるぐる回り、また心が重くなる。
皇后という役割と、後宮の妃たちの苦悩……。
このまま寝るのは難しそうだと、一旦諦めて寝台を出る。窓の布幕を開け、夜空に浮かぶ青白い月を見上げた。
なにものも寄せ付けない清く気高い存在感は、愛おしい劉弦を彷彿とさせる。翠鈴の胸は切なく締め付けられた。
会いたいと、心から思う。
彼が翠鈴を愛していないことをつらく感じて、寝所へのお召しを拒んでいるのは翠鈴だ。けれど、今はただ遠くからでもその姿を見たかった。
——劉弦さま。
胸の中で、月に向かって呼びかけた時。
「起きていたのか」
思いがけず返事があって、翠鈴は声をあげそうになってしまう。窓の外、月明かりの下に、劉弦が立っていた。
「りゅ、劉弦さま……!」
名を呼んだ次の瞬間、彼の姿は部屋の中にある。自身が身につけていた皇帝用の外衣で窓辺に立つ翠鈴を包むように抱き込み、向かい合わせで翠鈴を見つめた。
「夜は冷える。温かくしていろ」
「劉弦さま……どうして?」
会いたいと思った人が突然現れて驚きながら翠鈴は問いかけた。
「皇帝は、気に入った妃を寝所へ呼ぶこともできるが、妃の部屋へ来ることもできるのだ」
そう言って彼は額と額をくっつけて、優しい眼差しで翠鈴を見た。
その温もりに、さっきまでの不安がすこし和らいでいく。まったくなにも解決していないのに。
こんなにも自分は彼を愛しているのだ。
顔を見てすぐ、まだほとんど言葉を交わしていないのに、こんな気持ちになるなんて。
「額から、清らかな空気が流れ込むような心地がする」
劉弦が息を吐いて目を閉じた。彼の身体の赤い光に目を留めて、翠鈴はハッとする。翠鈴が彼に会いに行かなかったから、彼は不調を感じている。慌てて光を消すために手をかざそうとするが、劉弦に手首を取られて止められた。
「よい、そなたの身体に負担がかかる」
意外な彼の行動に、翠鈴は瞬きをして首を傾げた。彼は不調を感じ、翡翠の手を求めて、翠鈴のところへ来たのではないのか?
なのに、どうして止めるのだろう?
「今宵は、そなたの顔を見に来ただけだ。寝ているなら、起こすつもりはなかった」
その言葉に、翠鈴はあることに気がついて、自分の腹部に手を当てた。
「あ……お世継ぎが、ここにいるからですね……。でも、大丈夫で……」
「違う」
劉弦が少し強く翠鈴の言葉を遮った。、劉弦が翠鈴を見つめた。
「翠鈴自身を私は大切に思っている。世継ぎも、翡翠の手も、関係ない」
「劉弦さま……」
思いがけない彼の言葉に、翠鈴は目を見開いた。真っ直ぐな眼差しに胸が打ち抜かれるような心地がして、熱い想いが胸に広がっていく。
考えるより先に口を開いた。
「光を消させてくださいませ、劉弦さま。身体に負担はかかりません」
劉弦が訝しむように目を細める。負担がかからないというのが本当か、測りかねているのだろう。
「私も……劉弦さまが大切でございます。劉弦さま自身が……」
今自分を満たしている熱い想いをそのまま口にすると、劉弦が手首を掴む手を放す。翠鈴は手をかざして赤い光を消していく。
すべての光が消えた時、頬を大きな手に包まれた。
親指が唇をゆっくりと辿る。
それだけで、甘やかな吐息が漏れ出てしまいそうだった。あの夜のような荒れ狂う衝動ではなくとも、ただ触れてほしいと強く思う。背中に回した手で彼の衣服をキュッと握ると、それが合図になったようだ。
ゆっくりと近づく彼の視線。
——唇に、彼の唇が触れたその瞬間、翠鈴の背中が甘く痺れる。喉の奥が熱くなって頭の中は幸せな思いでいっぱいになった。
劉弦の翠鈴に対する想いと、翠鈴の彼への愛情は、同じ種類のものではない。神が人を愛するなどありえないのだから。
だとしても。
それでいい、と翠鈴は思う。彼が翠鈴を大切に想ってくれるなら、それだけで満足だ。
だって自分はもう、どうやっても彼を愛する前の自分には戻れない。彼を愛するこの想いと共に生きていくしかないのだから……。
唇が離れたのを寂しく感じて目を開くとすぐそばで彼が見つめている。
「劉弦さま……」
「翠鈴」
再び、ゆっくりと近づいて唇が触れ合う寸前で。
「つっ……!」
右脚の脛に刺すような痛みを感じて翠鈴は顔を歪める。
劉弦が眉を寄せた。
「いかがした?」
「なにかが脚に……」
翠鈴がそう言った時、劉弦が右手を暗い足元に向かって振りかざす。緑色の小さな炎があちらこちらであがった。
そのひとつを引き寄せて確認した劉弦が低い声で呟いた。
「毒蜘蛛か」
同時に翠鈴を抱き上げ寝台へ寝かせる。蜘蛛に刺された翠鈴の脛を露わにして迷うことなく口づけた。
「りゅ、劉弦さま……!」
「動くな。毒を吸い出しているだけだ」
彼はそう言って床へ毒を吐く。そしてまた脛に口づける。何度か繰り返したあと、控えの間へ行き寝ている蘭蘭を起こした。
「起きろ、翠鈴妃が毒蜘蛛に刺された。医師を呼んでまいれ」
「へ? こ、へ、陛下……? え?」
驚愕した蘭蘭の声が聞こえる。寝ているところに誰かが現れただけでも驚きなのに、相手が皇帝なのだから無理はない。
「医師を呼べ、翠鈴妃が蜘蛛に刺された」
劉弦が繰り返す。
「毒蜘蛛に……翠鈴妃さまが! は、はい! すぐに呼んで参ります!」
蘭蘭が部屋を出て行く音がした。
途端に後宮内が騒がしくなる。蘭蘭が誰かを呼ぶ声と、複数の女官がバタバタと走る音がした。
「翠鈴、大丈夫だ。すぐに医師がくる」
劉弦が戻ってきた頃には、脚が焼けるように熱くなっていた。刺すような痛みに、翠鈴は恐ろしくなる。思わず腹部を守るように手をあてた。
「劉弦さま、私の脚を切り落としてください。お腹に毒が回る前に……!」
劉弦を見上げて咄嗟にそう声をあげた。
彼と自分の間にできた小さな命に、なにかあったらと思うと胸が張り裂けそうだった。そのためならば、脚を失ってもかまわない。
「大丈夫だ」
劉弦が寝台に腰掛けて翠鈴を落ち着かせるよう抱き寄せた。
「この種の蜘蛛は刺されても患部が腫れるだけだ。熱が出ることもあるが、命を落とすことはない。子は大丈夫だろう」
そう言われて、翠鈴はホッと息を吐く。
同時に不思議な気分になった。つい先ほどまで、お腹に子がいることに戸惑い、生まれることを怖いとすら思っていたはずなのに、毒蜘蛛に刺されたと知ったあの瞬間は、なにを置いても守りたいと強く感じたのだ。
「よかった……」
呟くと、劉弦の手が額とお腹に添えられた。
「怖い思いをさせてすまない。翠鈴と子は、私が必ず守る」
厳しい表情で劉弦が言う。部屋の中に複数の毒蜘蛛がいたことを不審に思っているのは明らかだ。
「このようなことははじめてか? 以前にも同じようなことがあったのではないか?」
劉弦の問いかけに翠鈴は答えられなかった。翠鈴とて、これが自然なことではなく誰かの差しがねであることくらいはわかった。
ここへ来てなら受けた嫌がらせは数知れず。でも寝ている間に毒蜘蛛が放たれるなど、今までとは質が違っているように思える。
頭に浮かぶのは、昼間華夢の部屋の前で聞いたあの会話だった。
「翠鈴? すべて私が対処するから申してみよ」
安心させるように劉弦は言う。
これ以上、ひどくなる前にそうしてもらうべきなのかもしれないけれど、芸汎の悲痛な声が頭に浮かび、翠鈴は口を噤んだ、
できそうにないことを期待されて、苦しむ彼女が、今の自分と重なった。翠鈴も皇后になることを望まれて、その重圧に苦しめられている。
「……心あたりはありません」
答えると、劉弦が眉を寄せる。この言葉が本心でないと見抜かれているかもしれない。
それでも彼は、それ以上追求しなかった。
部屋に蜘蛛が放たれた夜、翠鈴は熱を出した。蜘蛛の毒性が弱いのは劉弦の言った通りだったが、国の端から来た翠鈴には耐性がなかったからだ、と宮廷医師は言った。とはいえ一時的なもので、お腹の子に影響はないと言われ安心して眠りにつき、目覚めたらもう日が高かった。
「翠鈴妃さま、お目覚めになられたんですね。ああ、よかった!」
少しぼんやりとしたまま、身体を起こした翠鈴にそう言ったのは、洋洋だった。翠鈴の額に手をあてる。
「少し熱は下がりましたね。まだありますが……。まずはお水をお飲みください。蘭蘭、翠鈴妃さまの着替えの準備を。それから宮廷医師に翠鈴妃さまが目覚めになられたことをお知らせして」
隣にいる蘭蘭にテキパキと指示をしていた。
「どうして洋洋がここにいるの?」
部屋を見回して、翠鈴は尋ねる。彼女が仕えているはずの芽衣の姿はなかった。
「翠鈴妃さまが熱を出されておられる間、お世話させていただく女官を増やすよう陛下がおっしゃったのです」
洋洋が言い、蘭蘭が頷いた。
「でも、昨夜のことがありますから、信用できる者でないと駄目だとおっしゃったので洋洋さんにお願いしたんです。陛下も芽衣妃さま付きの女官だと伝えたら安心されたようです」
それで翠鈴は状況を理解する。同時に申し訳ない気持ちになった。
「洋洋には芽衣がいるのに、ごめんね。芽衣にもあとから謝っておかなくちゃ」
洋洋が首を横に振った。
「それには及びませんわ、翠鈴妃さま。芽衣妃さまはお部屋におられません」
「部屋にいないって……どういうこと?」
翠鈴は窓の外をちらりと見て問いかけた。もう随分と日が高い。散歩の時間ではないはずだ。
すると洋洋は困ったように蘭蘭を見る。蘭蘭がためらいながら口を開いた。
「陛下が後宮中のすべての妃に中庭へお集めになられたんです。今皆さま、中庭へいらっしゃいます」
「すべての妃を中庭へ……?」
「はい。昨夜ここへ蜘蛛が放たれたことについての詮議を行うと……」
その言葉に、翠鈴は身体を起こした。
「大変……! 私も行かなくちゃ」
「翠鈴妃さまは、被害を受けられた方ですから、行かなくても大丈夫です! まだ熱も下がっておりませんし」
蘭蘭が慌てて翠鈴を止めるが、翠鈴は首を横に振った。
「そうじゃなくて。このままじゃ、どなたかがお咎めを受けることになってしまう」
おそらく実行したのは芸汎だ。でも彼女は自分の意思でやったわけではない。
「翠鈴妃さまに危害を加えた方がお咎めを受けるのは当然ですわ、翠鈴妃さま」
少し厳しい表情で洋洋が言う。翠鈴に対する数々の嫌がらせを見てきた彼女は、犯人にたいして憤りを感じているようだ。
やったことの咎めを受けるのは当たり前。
それはそうかもしれないが、それではあんまりだと翠鈴は思った。昨夜の劉弦の怒りを考えれば、お咎めは厳しいものになるだろう。
「私、陛下にお話ししなくちゃいけないことがある。蘭蘭、お願い……!」
蘭蘭が複雑な表情で頷いた。
「洋洋さん、私がお付き添いいたします。翠鈴妃さま、手を」
彼女の手を取り翠鈴は寝台を出た。
中庭はものものしい空気に満ちていた。
皇帝の宮へ続く赤い扉を背に、厳しい表情の劉弦が椅子に座り、彼と少し距離を空けて、すべての妃が対峙する形で座っている。皆一様に不安そうだ。
翠鈴は蘭蘭に支えられて、劉弦と妃たちのちょうど間の位置から中庭へ歩み寄った。まだ誰にも気づかれていないという状況の中、劉弦が詮議するのを伺う。
劉弦が皆に向かって口を開いた。
「昨夜の夜半過ぎ、翠鈴妃の寝所へ毒蜘蛛が放たれるという出来事があった。翠鈴妃は刺され療養中である。今から蜘蛛を放った者を探し出す」
妃たちがなぜ集められたのかを知り、その場がざわざわとなった。
華夢が手を上げる。劉弦が彼女を見て首を傾けると、立ち上がり口を開いた。
「翠鈴妃さまにお見舞い申し上げます。なれど陛下、蜘蛛はこの辺りにはたくさんおりますわ。部屋へ入り込み刺すこともございましょう。何者かが放った決めつけるのは早計では? 翠鈴妃さまはご懐妊中で、少し気が立っていらっしゃるのではないでしょうか」
ただの事故を翠鈴が大げさに騒いでいるのだと主張する。それを劉弦が一蹴した。
「翠鈴妃が刺された場に私もいた」
劉弦が答えると、その場がまたざわざわとなった。
皇帝が夜に後宮の妃のもとに来ることがあり得ることとは知っていても、はじめてのことだったからだ。
「蜘蛛は即座に始末したが、あの場には、少なくない数がいた。どう考えも不自然だ」
「……仮にそうだとしましても、後宮内で起こったことは、後宮内で収めるのが慣例にございます。陛下自ら詮議など大げさな……」
「あの場に私もいたと申しただろう。寵姫の寝所に皇帝がいるかもしれぬといいくらい、後宮の者ならば予測できたはず。翠鈴妃の寝所に毒蜘蛛を放つのは、私に対する反逆だ」
劉弦が言い切ると、その場が張り詰めた空気になる。翠鈴の部屋への嫌がらせは日常茶飯事だ。それが反逆だと言われて身に覚えのある者たちは、真っ青になっている。
「後宮の秩序に誰よりも心を砕くそなたも、黙ってはいられぬはずだ」
そう言って、劉弦が華夢を睨むと彼女は眉を寄せて口を閉じた。
劉弦が皆に視線を戻した。
「昨夜から今までの間に、秘密裏に後宮の人の出入りを確認した。そなたたちも知っているように後宮の警備は厳重だ。昨夜、日が暮れてからこの建物に出入りした者はいない。すなわち、蜘蛛を放った者はこの中にいるということだ」
劉弦の言葉に、一同息を呑む。それを一暼してから劉弦が合図をすると控えていた従者がひとりの女官を連れて現れた。女官は顔面蒼白で歩くのもままならないほどおぼつかない足取りだ。劉弦と妃の間にまできて、玉座に向かって平伏した。遠目にもわかるほど、肩が震えている。
劉弦が、やや声を和らげた。
「そなたは、ここでは妃たちに従ねばならぬ立場にいる。正直に申せば、罪には問わない。あったことを申せ」
女官が蒼白の顔を上げて、恐る恐る口を開いた。
「昨日の夕暮れ、原っぱへ行き蜘蛛を二十ほど用意いたしました」
「それは、この種の蜘蛛か?」
劉弦が合図をすると、従者が彼女の前に蜘蛛の死骸を指し示す。女官が頷いた。
「……はい」
「なるほど。そしてそなたはその蜘蛛をどうした?」
「や、夜半過ぎ、す、翠鈴妃さまの寝所の扉の下から放ちました……!」
気の毒なほど、震える声で女官が答える。
劉弦が頷き、間髪入れずに問いかけた。
「それはそなたの独断か?」
「い、いえ……! ち、違います……。わ、私はそのようなこと、自らは……」
彼女はわなわなと首を振った。
「ではそなたにそうするよう指示した者がいるのだな?」
「は、はい……私は指示されて……」
「では、その者の名を申せ」
劉弦が命令すると、女官は沈黙した。女官の息づかいが聞こえてきそうなほど、その場が静まりかえる。
女官が意を決したように口を開いた。
「わ、私が、指示を受けたのは……。芸汎妃さまにございます……!」
その場が、騒然となった。
もっとも翠鈴への嫌がらせについて、彼女が先頭に立ってしていたことは皆知っている。だから驚いたというよりは、女官が妃を裏切ったことに対して動揺しているのだろう。
「あい、わかった」
劉弦が頷いて、そばに控えている梓萌に視線を送る。
「この女官は保護するため、後宮の役目から解く。別の働き先を世話するよう」
女官が涙を流しながら下がっていった。
「芸汎妃をこれへ」
劉弦が指示すると、妃の席に座っていた芸汎を従者が取り囲む。両脇を抱えられるようにして立たせた。
「華夢妃さま……」
彼女は、か細い声で華夢に向かって助けを求めるが、華夢は彼女を見なかった。
劉弦の前に引き摺り出された芸汎はもはや口もきけないほど顔色を失っている。翠鈴の胸が締め付けられた。
劉弦が問いただす。
「芸汎妃、翠鈴妃の寝所に蜘蛛を放つよう女官に指示したのはそなたか?」
「わ、私は……」
芸汎が翠鈴への嫌がらせを繰り返していたのは後宮内の誰もが知るところ。女官の証言もある以上言い逃れはできない。
「私は……」
芸汎が振り返り、華夢を見た。芸汎が華夢の腰巾着で常に華夢の意思によって行動している、それもまた皆、知っていることだった。
劉弦が彼女の視線を追って、問いかけた。
「そなたもまた、誰かに指示されたのではないか? 正直に申してみよ」
「私は……」
芸汎は口を開こうとするが、怯えすぎて上手く言葉が出てこないようだ。
「わ、私は……」
「残念だわ、芸汎」
華夢が立ち上がった。
「あなたが、ご実家から陛下の寵愛を受けられないことを責められているのは知っておりました。それについて胸を痛めておりましたが、だからといって、こんな卑怯な真似をするなんて。許されることではありません」
そう言って汚らわしいというように芸汎を見た。
芸汎が目を見開いた。
「華夢妃さま……」
唇が震えている。その目が絶望の色に染まるのを見て、翠鈴は胸が締め付けられた。今この瞬間に彼女は信じていた相手から切り捨てられたのだ。
「私は、華夢妃さまがお、おっしゃった通りに……」
完全に裏切られたことを悟った芸汎の口からようやく言葉が出はじめる。それを華夢は遮った。
「私が? 私が指示したというの? 蜘蛛を翠鈴妃さまの寝所へ放つようにと、私が言ったっていうの?」
芸汎が言葉に詰まった。そうだとは言えないのだ。それは昨日華夢の部屋での会話を聞いていた翠鈴にはわかった。華夢はただ彼女に、生ぬるいことをするなと言っただけだ。
「そ、それは……」
「言いがかりはやめてちょうだい。往生際が悪くてよ。自分でやったことの罪は自分で償いなさい」
「そんな、華夢妃さま……!」
耳を塞ぎたくなるようなふたりのやり取りに、翠鈴は腹の底から怒りの感情が湧き起こるのを感じていた。あんなに頼りにされていた相手をこんなに簡単に切り捨てるなんて、これが教養のある者することだろうか。
なにが一の妃だ、なにが皇后候補だと思う。
「これ、あなたたち、早く芸汎妃を連れて行きなさい。しかるべき罰を受けさせるように」
勝手に事態の幕引きをはかろうと、従者に指示をする華夢を、劉弦が止める。
「待て。まだ結論は出ておらん」
その言葉を聞いたと同時に翠鈴は床を蹴る。従者に脇を抱えられている芸汎と劉弦の間に駆け出した。
「お待ちください!」
芸汎を背にして、劉弦に向かって腕を広げた。
「芸汎妃さまに、蜘蛛を部屋へ持ってくるようにお願いしたのは私です!」
熱がある状態で、勢いよく駆け出したことに身体が耐えられず、ぐらりと体勢を崩してしまう。
「翠鈴‼︎」
劉弦が立ち上がり翠鈴を抱き止めた。
「寝ているように言っただろう!」
珍しく声を荒げる劉弦に、翠鈴は訴えた。
「芸汎妃さまが罪に問われるのをそのままにしておくわけにはいきません!」
劉弦の服を握り翠鈴はかぶりを振った。
「昨夜は叱られるのを恐れて本当のことをお伝えできなかったこと、お許しください。芸汎妃さまに蜘蛛を部屋へ持って来るようお願いしたのは私です」
駆け出しながら頭に浮かんだことを一生懸命口にした。
芸汎に行動するのを命じたのは間違いなく華夢だが、それを訴えたところで彼女は絶対に認めないだろう。実際、具体的なやり方を口にしていなかったのも事実だ。このままでは芸汎が断罪されてしまう。
皇帝への反逆罪は、流刑あるいは死罪だ。
「あの種の蜘蛛は干して飲めば、身体の浮腫を取る良薬になります。毎日散歩をする貴人の方々の中には足が疲れる方もいるようですから、差し上げようと思ったのです。瓶に入れて蓋をしたつもりでしたが、重石を置くのを忘れていました。それが逃げ出してしまったのです! 陛下、芸汎妃さまに罪はありません。どうか、どうか……!」
そもそもが作り話なのだ。熱のある頭では順序立ててうまく説明できなかった。嘘をつくのはよくないとわかっている。それでもこうせずにいられなかった。
できそうにないことを期待されて、押しつぶされそうになり、もがいていた彼女の気持ちは痛いほどよくわかる。どうすればいいかわからないままに、間違った道に足を踏み入れてしまったとして、それを責める気にはなれなかった。
崩れ落ちそうになる翠鈴を危なげなく支えて、劉弦は逡巡している。翠鈴の言うことが本当でないとわかっているのだろう。翠鈴は、思いを込めて、漆黒の瞳を見つめた。
「劉弦さま」
劉弦が息を吐いて目を閉じた。そして、腰が抜けたように床にへたり込み、啞然としている芸汎に向かって問いかけた。
「芸汎妃、今の話は真実か?」
芸汎が翠鈴を見る。なにかの罠かと疑ってもいるのかもしれない。安心させるように頷きかけると、その目に涙が浮かぶ。そしてその場に平伏し頭を床に擦りつけた。
「す、翠鈴妃さまのおっしゃる通りにございます……!」
翠鈴が劉弦を見上げると、劉弦が仕方がないというように息を吐いた。
「……ならば、誰も罪に問うことはできぬな」
その言葉に、その場の空気が緩んだ。
劉弦が一同を見回し、最後に華夢に視線を送り口を開いた。
「だが、翠鈴妃の身体には私の子がいることを忘れぬよう。彼女への無体な振る舞いは私への反逆とみなす」
華夢はその劉弦から目を逸らすことなく見ていた。
貴妃たちが顔を見合わせている。今回の件をどう捉えるべきかはかりかねているようだ。
なにはともあれ、悲しい結末にならずに済んだと安堵して、翠鈴の身体から力が抜ける。あまりの出来事に少し熱が上がってしまったようだ。熱い息を吐く翠鈴を劉弦が抱きあげた。
「今回のことは私の思い違いにより騒ぎを大きくしてすまなかった。皆、解散するように」
そう言い残して、中庭を横切り翠鈴の部屋へ行く。妃たちが心配そうに見ていた。
「あれで、よかったのか?」
窓の外はとっぷりと日が落ちて夜空に月が輝いている。寝台に寝ている翠鈴の頭を、劉弦が撫でて問いかけた。
詮議のあと、劉弦に抱かれて部屋へ戻った翠鈴はまた眠りに落ちた。どうやら劉弦も一度は執務に戻ったようだが、日が落ちてから翠鈴が再び目覚めた時はそばにいた。
「蜘蛛に刺されたのは翠鈴だ。翠鈴の思う通りにしてやりたいと思ったのだが」
やはり彼は翠鈴が芸汎を庇ったことを見抜いていたのだ。それでも翠鈴の気持ちを思い、今回の件は不問に伏した。
また熱がぶり返している熱い頭で、少しぼんやりとしながら翠鈴は口を開いた。
「ここのお妃さま方は、皆悲しい存在のように思います。働かずとも食べるにことかくことはないけれど、劉弦さまの寵愛を受けることのみを目的として生きる定めなのですから。互いに嫉妬して、足を引っ張り合うのも無理はありません」
こんなこと、彼に言うべきではないという考えが頭の片隅に浮かぶ。でも熱を持った思考で、口が止まらなかった。
「私も劉弦さまの子を身籠らなければ、どのような心持ちになっていたかわかりません」
彼女たちと自分は背中合わせだと翠鈴は思う。この美しくて頑丈な鳥籠に閉じ込められて、寵愛を受けない鳥は意味のない存在だと言われ続けたら、芸汎のように道を踏み外してもおかしくはない。
自分がそうならないという自信はなかった。
「翠鈴は、彼女たちをどうするべきだと考える?」
劉弦からの問いかけに、翠鈴はしばらく考える。頭に浮かんだ考えは少し罰当たりなことだった。彼に向かって口にするべきではない。
でも今日のようなことを繰り返さないために、悲劇を生まないように思い切って口を開いた。
「彼女たちが望むなら、故郷へ帰らせてほしいと思います。自由に生きるのが、人の幸せだと思います」
劉弦は、静かな眼差しで翠鈴を見ていた。
「寵を争うだけの一生は、幸せとは思えません。ましてやここでその望みが叶うのはほんのひと握りの者だけ。……芸汎妃さまは、ご実家から寵愛を受けられないことをひどく責められていたそうです。それで思い余ってあんなことを……。私も芸汎妃さまのお気持ちが、少しわかるような気がします」
「翠鈴が?」
劉弦が撫でていた手を止めた。翠鈴は唇を噛み。声を絞りだした。
「私、皇后さまになる自信がありません」
目を閉じて、翠鈴はここのところずっと考えていたことを口にした。
「劉弦さまだけでなく、貴人の皆さまも私に皇后さまになってほしいとおっしゃいます。私はお世継ぎを身籠りはしましたが、ただの村娘です。教養も後ろ盾もありません。恐れ多くて……。できそうにもないことを期待されて苦しまれた芸汎妃さまのお気持ちが……」
「翠鈴」
名を呼ばれて目を開くと、劉弦が柔らかな笑みを浮かべていた。
「皇后に必要なのは、教養でも後ろ盾でもない」
「劉弦さま……?」
「少なくとも私は、私の皇后にそのようなものを求めない。皇后に必要なのは他者を思う温かい心。翠鈴、そなたそのものだ」
劉弦の大きな手が、翠鈴の頬を優しく撫でた。
「皆がそなたを皇后にと願うのは、そなたにはその心があるためだ。世継ぎを宿したからではない。なにも気負わずそのままのそなたでいればいい」
「そのままの私で……?」
そのままでいいという言葉に、翠鈴は目を見開いた。意外すぎる言葉だった。
「ああ、翠鈴には皆を思う心がある。だからこそ皆そなたを好きになるのだ」
そう言って彼は部屋の隅に山積みになっている見舞いの品に視線を送った。すべて、熱を出した翠鈴を心配した妃たちからのものだ。貴人たちだけではなく貴妃たちからのものもある。しかも一番先に届けにきたのは、芸汎だという。
「夕刻、私がこの部屋へ来た時は、まだ部屋の前に列ができていた。皆翠鈴が心配で具合はどうだと女官に尋ねるから、女官が往生していた。私から大丈夫だ説明してようやく安堵して皆自分の部屋へ戻った」
その時のことを思い出したのか、劉弦がくっくっと肩を揺らして笑った。
「あ、ありがたいです……」
驚きつつ翠鈴は答えた。
その頃、翠鈴は熱が上がっていて夢の中。よもや部屋の前でそのようなことが繰り広げられていたとは知らなかった。
「国を治めるには常に民を思うことが必要だ。私は翠鈴に出会い、その気持ちを取り戻した。私が末長くこの国を治めるために、翠鈴にそばにいてほしい。私の皇后は翠鈴しかいない」
真っ直ぐな言葉に、翠鈴は、胸の中の重たいものが少し軽くなるのを感じていた。恐れ多いことであるのは変わらないけれど、彼とならばやれるかもしれないという思いが生まれる。
「皇后になることが、そなたに重荷だということはわかっている。その代わりにはならぬが、私は生涯そなたを唯一の妃とすることを約束する」
「私、ひとりを……?」
これも意外すぎる言葉だった。
彼が翠鈴を大切に思ってくれているとは知っていた。でもそれはたくさんいる妃の中のひとりとして。他の妃はいらないとまで彼が言うとは思わなかった。
「ああ、私の妃は翠鈴ひとりとし、他の妃は故郷へ帰そう」
「故郷へ……? いいのですか?」
彼の口から出た驚くべき言葉に翠鈴は目を見開いた。さっき自分で口にしたことだがまさか実現するとは思わなかった。
「もちろん今すぐというわけにはいかない。私に皇后がおらず世継ぎもいない状況では民が不安になるだろう。翠鈴が世継ぎを生み立后したその後に」
「私が皇后さまになれば……」
翠鈴は呟いた。まだ自信はない。けれどそうすれば、この悲しい争いに終止符を打つことができるのだ。
目の前が明るくなるような心地がした。
水凱国すべての民を思う。そこまでの気持ちが自分にあるかはわからないが、少なくとも目の前の彼女たちのことは大切だ。
「劉弦さまは、私にできるとおっしゃるのですね」
信じてみようかと翠鈴は思う。愛おしいこの人の言うことを。
劉弦が、身を眺めて翠鈴の熱い額に、自らの額をくっつけた。
「この国を末長く平穏に治めるのが私の定め。もはやそれに迷いはないが、それには翠鈴が必要だ。私の皇后になってくれ」
至近距離で自分を見つめる漆黒の瞳に、翠鈴の胸は熱くなる。彼とならば、その道を歩んでいけると確信する。
まだ少し怖いけれど。
「はい、劉弦さま。私を劉弦さまの皇后にしてください。生涯をともにいたします」
言葉に力を込めて翠鈴は言う。
もう、迷わない。
「ありがとう」
そして熱い口づけを交わす。
心地いい幸せな想いで、翠鈴は目を閉じた。
唇を離して髪を撫で、劉弦が囁いた。
「私は翠鈴にそばにいてほしいと願う。そなたに出会ってから、私はこの想いの正体を探していた。神である私と人であるそなたを繋ぐ想いは、一筋縄ではいかないはず……。だがそうではなく単純なものだった。私はそなたが愛おしい。愛おしく思う唯一の存在なのだ」
神である劉弦が紡ぐ、人と同じ愛の言葉。
——だがそれは、すでに眠りに落ちていた、翠鈴の耳には届かなかった……。
布を敷いた寝台の長椅子に横たわる妃身体に転々と光る赤い光、そこ中心に翠鈴は揉みほぐしていく。
「胃の腑が疲れているようです。食事には気をつけてください。青菜を中心に食べると調子がよくなります」
最後にそう助言をして翠鈴は施術を終える。隣で蘭蘭が茶を差し出した。
「薬湯です。お飲みください」
「ありがとうございます。食べすぎなのは自分でもわかるんですけど。後宮はご飯が美味しいからついつい食べ過ぎてしまいます。調理場に言って減らしてもらおうかしら?」
「食べる量を制限するのはあまりよくありません。どちらかというと身体を動かすことを意識してくださいませ。ぜひ朝夕の散歩に参加を」
翠鈴が言うと薬湯を飲み終えた妃は、素直に頷いた。彼女は貴妃で今までは散歩に参加していない。
「わかりました。ふふふ、でも散歩じゃなくて、本当は私走る方が好きなんですよ。はしたないと言われてここへ来てからはしてませんが、実家では弟よりも早くて、父からは男だったらよかったのにって言われていたくらいなんです」
「あら、意外です」
翠鈴が言うと、妃はにっこりと笑った。
「ふふふ、誰にでも特技はあるものですわ。翠鈴妃さまこそ、このような得意なことがおありになるなんて思ってもみませんでした」
「私のは、生きるための術です」
話しながらふたりは、部屋の外へ出る。
「それにしても翠鈴妃さまに施術をしていただくとそれまでの不調が嘘みたいに身体が軽くなるんですね。本当は、翠鈴妃さまこそが、翡翠の手の使い手なんじゃないかって他の皆さまとお話ししていたくらいなんですよ」
ズバリのことを指摘されて、どきりとしながら翠鈴は答えた。もちろん彼女は冗談として言っているのだが。
「ま、まさか……。あり得ないことです。恐れ多いですわ」
ごまかすためにそう言うと、妃は少しムキになった。
「でも、翡翠の手の使い手は陛下の宿命の妃と言うじゃありませんか。実際、陛下のご寵愛を受けられているのは翠鈴妃さまですし……」
とそこで、なにかに気がついたようで気まずそうに口を噤む。翠鈴の部屋の向かい側、一の妃の部屋から華夢が出てきたからだ。一番聞かれてはならない相手だ。
以前ならこんなことあったら華夢は黙っていなかったはずだ。でも今はこちらを軽く睨んだだけで、女官を連れてどこかへ去っていった。
「ではまた……」
妃がホッと息を吐いて、自分の部屋へ戻っていった。
翠鈴はそのまま、遠ざかる華夢の背中を見つめた。
芸汎の一件からひと月が経った。
あの夜は熱を出した翠鈴だが、その後は問題なく回復し、体調も万全になった。食欲も戻りここのところなにを食べても美味しく感じる。どうやら赤子もすくすく成長しているようで、お腹も少し膨らみ出した。
身体を動かすことは、懐妊中もよいことという蘭蘭と宮廷付き医師の助言を受けて、散歩も再開して他の妃たちとの交流を楽しんでいる。
散歩には、貴人たちだけでなく貴妃たちも参加するようになった。翠鈴が芸汎を庇った一件がきっかけになったのは間違いない。
芸汎が翠鈴にしていた嫌がらせは華夢の意思だというのは、後宮中の者が知っていた。それまで散々彼女を思うままに操っていたというのに、簡単に切り捨てたところを皆見ていたのだ。あの日から貴妃たちは、華夢を立てるのをやめて、翠鈴と貴人たちと交流するようになったのだ。
そしてある日の散歩終わり、腰の辺りが赤く光っているひとりの妃に気がついて翠鈴は施術をした。それをきっかけに、毎日時間のある時に、身体に不調を抱える後宮内の妃たちを部屋で診るようになったのである。
これは翠鈴としてもありがたいことだった。指圧の腕が鈍らぬよう蘭蘭や芽衣の身体を借りて施術は続けてはいたものの、若くて健康なふたりは、あまり練習台にはならなかったからだ。
翠鈴の診療所は、今や妃たちに大人気である。毎日行列を作るので、蘭蘭が張り切って一日に五人までと決めて表を作って管理している。予約はひと月先までいっぱいだ。
部屋へ戻ると、蘭蘭が施術する時に使っている敷布を畳んでいた。
「本日のお方は、先程のお妃さまでお終いにございます」
「あら? まだあと三人診るんじゃなかった?」
翠鈴が言うと、蘭蘭は首を横に振った。
「本日はこれから、翠鈴妃さまが宮廷医師の診察を受けることになっております」
そういえばそうだったと思い出して、翠鈴は自分の寝台に座る。そしてさきほどの華夢を思い出した。
「蘭蘭、華夢妃は毎日どこへ行かれているのかしら?」
ここのところ彼女は毎日どこかへ出かけている。それが翠鈴は気になった。
蘭蘭が手を止めた。
「女官長さまの話ではご実家に行かれているそうですよ」
「ご実家に? そうなの……」
後宮の妃たちはそう頻繁に実家に帰ることは許されない。そもそも実家が遠い場所にある妃がほとんどだ。
でも宰相の娘である彼女の実家は宮廷のすぐそばにある。また、翡翠の手の持ち主としてある程度の自由が許されているようだ。
「ご実家にあんなに頻繁に戻られるということは、やっぱり後宮に居場所がないのかしら?」
「そうですね……。でも仕方がないですよ。あんなことがあった以上、皆さまお近づきになりにくいですから」
中庭での出来事を見ていた蘭蘭が言う。翠鈴としてもそれはまったく同意見だった。芸汎に対して彼女がしたことは、簡単に許されることではない。一時期は、後宮の中心にいた彼女が、今は完全に孤立している。なにか嫌なことが起こりそうな予感がして、それが翠鈴は心配だった。
「お腹の子は順調にございます。たくさん食べて、適度に身体を動かしてください」
お腹の子の診察は、翠鈴の部屋へ医師が訪問する形で行われる。翠鈴の身体をひと通り確認した女性宮廷医師の言葉に、翠鈴はホッと息を吐いた。
「よかった……」
「もうすぐしたら、お腹の中で子が動くのがわかるようになりますよ」
「え? もうですか?」
医師の言葉に、腹部を出していた衣服を整えていた翠鈴は、驚いて手を止める。村でも赤子が生まれることはよくあった。お腹が大きくなった後は、外からでも赤子が動くのがわかったけれど、こんなに早くわかるとは思わなかったからだ。
医師がにっこりと微笑んだ。
「ええ、まだ外からはわかりませんが、母親は感じます。ポコポコと中から叩くような感じがしたらそれがそうです」
「ポコポコと……」
お腹に手をあてて翠鈴は呟いた。想像するだけで胸が温かいもので満たされる。その時が楽しみでたまらなかった。
懐妊が発覚してからの翠鈴は、お世辞にも安静していたとはいえない。そんな状況で元気に育っているか不安は尽きないけれど、少なくとも動いてくれれば安心できるだろう。
こんな風に思えることが嬉しかった。
子がお腹にいると知った時は、それによって変わってしまった自分自身の運命に悲観して、出産を怖いとすら思ったのに。今は健やかに生まれてくることを楽しみにしている。
ほかでもない子の父親である劉弦と生涯を共にする覚悟ができたからだ。今は世継ぎを生むという重圧よりも、彼と自分の子が生まれるのだという喜びに満たされている。
「ではまた三日後の同じ時間に参りますので……」
そう言って医師は、片付けを始める。が、部屋の外が騒がしいことに気がついて手を止めた。
「どうしたのでしょう?」
「なにかあったのかな?」
翠鈴も首を傾げ、そう呟いた時。
「翠鈴!」
少し息を切らして、劉弦が入ってきた。
純金の糸で刺繍が施された黒い衣装の執務中の格好だった。
「りゅ……陛下⁉︎」
翠鈴は、目を丸くして声をあげた。
毒蜘蛛の一件以来、ふたりは夜を翠鈴の部屋で過ごしている。翠鈴が皇帝の寝所へ行くために肌寒い夜に長い廊下を歩くのを、彼が嫌がったからだ。夜、執務が終わったら、彼の方が翠鈴の寝所へやってくるのは、もはや誰もが知るところで後宮に彼の姿があることには皆慣れた。けれど、昼間にやってくるのは珍しい。
先ぶれがなかったため、蘭蘭があたふたと玉座代わりの椅子を持ってくる。それを断り、彼は寝台に座る翠鈴の隣に腰を下ろした。
「陛下、執務中では……?」
尋ねると、大きな手で翠鈴の髪を撫でた。
「午前中の分は急ぎ終わらせた。今日は翠鈴の診察の日だと聞いていたから。気になったのだ」
診察に立ち会うために来たのだと言う劉弦に、翠鈴の頬が熱くなった。
一方で女性医師は眉を寄せる。診察中に、先ぶれもなく部屋へ入ってきたことに苦言を呈する。
「陛下……。お産の診察中にございますよ。お産は女人の仕事と古来から決まっております。陛下といえども診察に立ち会うなど……」
彼女は宮廷でも堅物として知られている。相手が皇帝とはいえ、お産のことに関しては黙っていられないのだろう。母親の体が第一ということだ。
彼女の言う通り、水凱国の伝統ではお産に男性は手を出すべきではないとされている。出産には、本人の母親や産婆たちの領域で子の父親は蚊帳の外というのが当たり前だ。
だが劉弦は意に介さない。
「子と翠鈴が健やかであるかどうかは、今の私にとって最大の関心ごとだ。古来からの決まりごとなどどうでもいい」
決まりごとなどどうでもいいと、言い切る劉弦に、医師が面食らったように瞬きをする。国の決まりごとを重んじて政を行う皇帝の姿とはやや外れる発言だ。
「な、なれど、翠鈴妃さまとお世継ぎに関するご報告は、毎回この後、玉座の間にてきちんと……」
「それよりも早く知る必要があったのだ」
そう言って彼は、優雅に微笑んだ。その笑みに、もうなにを言っても無駄だと思ったのか、医師がため息をついて頭を下げる。
「翠鈴妃さまのお身体は健やかにございます。お世継ぎもまったく問題なく健やかにお育ちにございます」
それに劉弦が安堵したように頷いた。
翠鈴も追加で嬉しい報告をする。
「もうすぐしたら、お腹の中で赤子が動くのがわかるようになるそうです。そしたら、私にも子が元気だとわかるので嬉しいです」
「子が動くのがわかるのか?」
劉弦がさっそく翠鈴を抱き寄せてお腹に手をあてて、首を傾げた。
「今は動いていないようだが」
「陛下、まだ外からはわかりませんよ。母親にだけわかるだけです。外からわかるようになるのはもう少し先です」
医師が、また少し驚いたように言う。こんな風に早合点するのも、普段の劉弦の姿とはかけ離れている。
「そうか」
少し残念そうにするその姿に、翠鈴はくすりと笑ってしまう。国を治める皇帝であり、龍神さまと崇められている彼のこのような姿を誰が想像できるだろう。
「動いた時は、一番に劉弦さまにお知らせします」
劉弦を落胆させないようにそう言うと、彼はにっこりと微笑んで、翠鈴を見た。
「必ずだぞ」
「で、では、私はこれで」
医師が、気まずそうに咳払いをして片付けをし、そそくさと帰っていく。
蘭蘭もにんまりと笑って、後に続いた。
ふたりきりになった部屋で、翠鈴は口を開いた。
「お世継ぎが健やかかどうかは、政にも影響しますからね」
医師と蘭蘭は別の意味に捉えたようだが、世継ぎの誕生は民の最大の関心ごと。彼が執務を抜けてまで、確認しにきたとしても不思議でないと思う。
だがそれに劉弦は、首を横に振った。
「政は関係ない。私と翠鈴の間にできる子だから心配なのだ。誕生を心待ちにしている」
甘い声音と真っ直ぐな言葉に、翠鈴の胸は高鳴って、幸せな思いでいっぱいになる。たとえこれが愛情でなくても、彼が自分を大切にしてくれるだけでいいと思えるようになったからだ。
でも翠鈴がこう思えるようになったのは、もうひとつ理由があって……。
——あの夢のおかげ。
翠鈴は心の中で呟いた。毒蜘蛛に刺されて熱に浮かされていたあの夜に見た幸せな夢である。
劉弦が頭を撫でて『私はそなたが愛おしい』と言ってくれたのだ。
もちろんそれは夢の中の出来事で、現で言われたわけではない。でもまるで本当に言われたかのように、甘く耳に残っていて、思い出すたびに幸せな気持ちになる。
「さて、報告を聞いたら安堵した。私はまた執務に戻る」
そう言う劉弦を、名残惜しい思いで翠鈴は見つめた。
「あまり無理をなさりませんよう」
そう言って、彼の耳のあたりの赤い光に手をかざす、光が消えると劉弦が心地良さそうに翠鈴の手に頬ずりをした。
「午後からは、皇后の選定の儀だ」
「皇后さまの?」
「ああ。本当は、子が生まれてから議題にあげるつもりであった。その方が家臣たちには受け入れられやすいからな。だがそれより早く、家臣たちより翠鈴を推挙するとの進言があったのだ」
そう言って劉弦は、心あたりがあるだろう?というような目で翠鈴を見た。
翠鈴は以前、貴人の妃たちが"皇后は翠鈴がいいと父親に言う"と言っていたことを思い出した。あの時は、ただ重たく感じた言葉だが、彼の皇后になる決意をした今は心強くて嬉しかった。
「でも、まだ世継ぎが生まれていないのにすんなりいくでしょうか」
「……まぁ、無理だろう。少なくとも黄福律は、反対する。宰相で力もある奴が反対している限り強行するわけにはいかないな。国が乱れ、ともすれば内戦になりかねない」
「内戦に……」
恐ろしい言葉に、翠鈴はぶるりと震えた。
「劉弦さま、無理はなさらないでください。私は、早く皇后さまになりたいと思っているわけではありません」
国の平穏と、故郷の村の人たちの幸せ、後宮の妃たちの明るい未来。
望むものはたくさんある。でもそのために、なにかを犠牲にするのは嫌だった。
劉弦が微笑んだ。
「私としては翠鈴を早く私の皇后にしたい気持ちはあるが、国が乱れぬように皆が納得する形を模索する。だが、黄福律に関しては……」
そこで言葉を切って難しい表情になった。
彼は最後まで言わなかったが、翠鈴にその続きはわかった。
——おそらく説得は難しいだろう。
それは、彼の娘の華夢を見ていればわかることだった。皇后になることを使命として生きてきたであろう彼女を……。
さきほどの華夢の後ろ姿が目に浮かび、翠鈴の胸が痛んだ。
翠鈴が皇后になり、後宮の妃たちが自由になれれば、彼女たちには明るい未来が訪れると確信している。
でも華夢に関しては、どうしてもそう思えないのがつらかった。