夜半すぎ、肌寒さを感じて翠鈴の意識が浮上する。自室の翠鈴用の寝台は、いつも寝ている劉弦の寝台の半分以下の大きさだ。それなのに、妙に広く感じて心細かった。寝返りを打ち、目を閉じてもう一度眠ろうと試みる。だがうまくいかなかった。
 昼間の出来事が頭の中をぐるぐる回り、また心が重くなる。
 皇后という役割と、後宮の妃たちの苦悩……。
 このまま寝るのは難しそうだと、一旦諦めて寝台を出る。窓の布幕を開け、夜空に浮かぶ青白い月を見上げた。
 なにものも寄せ付けない清く気高い存在感は、愛おしい劉弦を彷彿とさせる。翠鈴の胸は切なく締め付けられた。
 会いたいと、心から思う。
 彼が翠鈴を愛していないことをつらく感じて、寝所へのお召しを拒んでいるのは翠鈴だ。けれど、今はただ遠くからでもその姿を見たかった。

 ——劉弦さま。

 胸の中で、月に向かって呼びかけた時。

「起きていたのか」

 思いがけず返事があって、翠鈴は声をあげそうになってしまう。窓の外、月明かりの下に、劉弦が立っていた。

「りゅ、劉弦さま……!」

 名を呼んだ次の瞬間、彼の姿は部屋の中にある。自身が身につけていた皇帝用の外衣で窓辺に立つ翠鈴を包むように抱き込み、向かい合わせで翠鈴を見つめた。

「夜は冷える。温かくしていろ」

「劉弦さま……どうして?」

 会いたいと思った人が突然現れて驚きながら翠鈴は問いかけた。

「皇帝は、気に入った妃を寝所へ呼ぶこともできるが、妃の部屋へ来ることもできるのだ」

 そう言って彼は額と額をくっつけて、優しい眼差しで翠鈴を見た。
 その温もりに、さっきまでの不安がすこし和らいでいく。まったくなにも解決していないのに。
 こんなにも自分は彼を愛しているのだ。
 顔を見てすぐ、まだほとんど言葉を交わしていないのに、こんな気持ちになるなんて。

「額から、清らかな空気が流れ込むような心地がする」

 劉弦が息を吐いて目を閉じた。彼の身体の赤い光に目を留めて、翠鈴はハッとする。翠鈴が彼に会いに行かなかったから、彼は不調を感じている。慌てて光を消すために手をかざそうとするが、劉弦に手首を取られて止められた。

「よい、そなたの身体に負担がかかる」

 意外な彼の行動に、翠鈴は瞬きをして首を傾げた。彼は不調を感じ、翡翠の手を求めて、翠鈴のところへ来たのではないのか?
 なのに、どうして止めるのだろう?

「今宵は、そなたの顔を見に来ただけだ。寝ているなら、起こすつもりはなかった」

 その言葉に、翠鈴はあることに気がついて、自分の腹部に手を当てた。

「あ……お世継ぎが、ここにいるからですね……。でも、大丈夫で……」

「違う」

 劉弦が少し強く翠鈴の言葉を遮った。、劉弦が翠鈴を見つめた。

「翠鈴自身を私は大切に思っている。世継ぎも、翡翠の手も、関係ない」

「劉弦さま……」

 思いがけない彼の言葉に、翠鈴は目を見開いた。真っ直ぐな眼差しに胸が打ち抜かれるような心地がして、熱い想いが胸に広がっていく。
 考えるより先に口を開いた。

「光を消させてくださいませ、劉弦さま。身体に負担はかかりません」

 劉弦が訝しむように目を細める。負担がかからないというのが本当か、測りかねているのだろう。

「私も……劉弦さまが大切でございます。劉弦さま自身が……」

 今自分を満たしている熱い想いをそのまま口にすると、劉弦が手首を掴む手を放す。翠鈴は手をかざして赤い光を消していく。
 すべての光が消えた時、頬を大きな手に包まれた。
 親指が唇をゆっくりと辿る。
 それだけで、甘やかな吐息が漏れ出てしまいそうだった。あの夜のような荒れ狂う衝動ではなくとも、ただ触れてほしいと強く思う。背中に回した手で彼の衣服をキュッと握ると、それが合図になったようだ。
 ゆっくりと近づく彼の視線。

 ——唇に、彼の唇が触れたその瞬間、翠鈴の背中が甘く痺れる。喉の奥が熱くなって頭の中は幸せな思いでいっぱいになった。

 劉弦の翠鈴に対する想いと、翠鈴の彼への愛情は、同じ種類のものではない。神が人を愛するなどありえないのだから。
 だとしても。
 それでいい、と翠鈴は思う。彼が翠鈴を大切に想ってくれるなら、それだけで満足だ。
 だって自分はもう、どうやっても彼を愛する前の自分には戻れない。彼を愛するこの想いと共に生きていくしかないのだから……。
 唇が離れたのを寂しく感じて目を開くとすぐそばで彼が見つめている。

「劉弦さま……」

「翠鈴」

 再び、ゆっくりと近づいて唇が触れ合う寸前で。
「つっ……!」

 右脚の脛に刺すような痛みを感じて翠鈴は顔を歪める。
 劉弦が眉を寄せた。

「いかがした?」

「なにかが脚に……」

 翠鈴がそう言った時、劉弦が右手を暗い足元に向かって振りかざす。緑色の小さな炎があちらこちらであがった。
 そのひとつを引き寄せて確認した劉弦が低い声で呟いた。

「毒蜘蛛か」

 同時に翠鈴を抱き上げ寝台へ寝かせる。蜘蛛に刺された翠鈴の脛を露わにして迷うことなく口づけた。

「りゅ、劉弦さま……!」

「動くな。毒を吸い出しているだけだ」

 彼はそう言って床へ毒を吐く。そしてまた脛に口づける。何度か繰り返したあと、控えの間へ行き寝ている蘭蘭を起こした。

「起きろ、翠鈴妃が毒蜘蛛に刺された。医師を呼んでまいれ」

「へ? こ、へ、陛下……? え?」

 驚愕した蘭蘭の声が聞こえる。寝ているところに誰かが現れただけでも驚きなのに、相手が皇帝なのだから無理はない。

「医師を呼べ、翠鈴妃が蜘蛛に刺された」

 劉弦が繰り返す。

「毒蜘蛛に……翠鈴妃さまが! は、はい! すぐに呼んで参ります!」

 蘭蘭が部屋を出て行く音がした。
 途端に後宮内が騒がしくなる。蘭蘭が誰かを呼ぶ声と、複数の女官がバタバタと走る音がした。

「翠鈴、大丈夫だ。すぐに医師がくる」

 劉弦が戻ってきた頃には、脚が焼けるように熱くなっていた。刺すような痛みに、翠鈴は恐ろしくなる。思わず腹部を守るように手をあてた。

「劉弦さま、私の脚を切り落としてください。お腹に毒が回る前に……!」

 劉弦を見上げて咄嗟にそう声をあげた。
 彼と自分の間にできた小さな命に、なにかあったらと思うと胸が張り裂けそうだった。そのためならば、脚を失ってもかまわない。

「大丈夫だ」

 劉弦が寝台に腰掛けて翠鈴を落ち着かせるよう抱き寄せた。

「この種の蜘蛛は刺されても患部が腫れるだけだ。熱が出ることもあるが、命を落とすことはない。子は大丈夫だろう」

 そう言われて、翠鈴はホッと息を吐く。
 同時に不思議な気分になった。つい先ほどまで、お腹に子がいることに戸惑い、生まれることを怖いとすら思っていたはずなのに、毒蜘蛛に刺されたと知ったあの瞬間は、なにを置いても守りたいと強く感じたのだ。

「よかった……」

 呟くと、劉弦の手が額とお腹に添えられた。

「怖い思いをさせてすまない。翠鈴と子は、私が必ず守る」

 厳しい表情で劉弦が言う。部屋の中に複数の毒蜘蛛がいたことを不審に思っているのは明らかだ。

「このようなことははじめてか? 以前にも同じようなことがあったのではないか?」

 劉弦の問いかけに翠鈴は答えられなかった。翠鈴とて、これが自然なことではなく誰かの差しがねであることくらいはわかった。
 ここへ来てなら受けた嫌がらせは数知れず。でも寝ている間に毒蜘蛛が放たれるなど、今までとは質が違っているように思える。
 頭に浮かぶのは、昼間華夢の部屋の前で聞いたあの会話だった。

「翠鈴? すべて私が対処するから申してみよ」

 安心させるように劉弦は言う。
 これ以上、ひどくなる前にそうしてもらうべきなのかもしれないけれど、芸汎の悲痛な声が頭に浮かび、翠鈴は口を噤んだ、
 できそうにないことを期待されて、苦しむ彼女が、今の自分と重なった。翠鈴も皇后になることを望まれて、その重圧に苦しめられている。

「……心あたりはありません」

 答えると、劉弦が眉を寄せる。この言葉が本心でないと見抜かれているかもしれない。
 それでも彼は、それ以上追求しなかった。