泥水が流し込まれたその夜、翠鈴が劉弦の寝所へ行くと、普段なら執務から戻っていない彼が珍しく翠鈴を待っていた。
 彼は驚く翠鈴を寝台に座らせて、自分も隣に座り湯呑みを持たせる。

「これは?」

「茶だ。飲めそうなら飲んでみよ。胃の腑の調子がよくなり、すっきりするという話だ。今朝、東北地方から献上品として宮廷に届いた」

 確かそういう茶があったと翠鈴は思い出す。祖父から聞いたことがあるが本物を見るのははじめてだった。なにしろ民には高価すぎて手に入らないしろものだ。

「こんな貴重なものを……」

 もちろん翠鈴の体調を気遣ってくれてのことだろう。こんな高級品を口にするなど恐れ多い。断るべきだと思うが、すでに淹れてしまっているのを無駄にするわけにいかない。
 恐る恐る口に含むと、すっきりとした香りで飲みやすい。ひと口、ふた口飲んでいると、船の上で揺られているような不快感が少し楽になった。
 劉弦が翠鈴の頭を優しく撫でた。

「少しでも楽になればよいのだが」

 まるで心から翠鈴を思いやっているようにも思える優しい声音。その眼差しに、翠鈴の胸が甘く切なく締め付けされた。
 彼に大切にされるのは嬉しい。でもその反面、これが愛情からくるものではないことがつらくて苦しかった。
 彼にとって翠鈴は宿命の妃であり、大切な世継ぎを宿した唯一の妃。だからこそこうして優しくしてもらえるのだ。

 ——誰かを愛おしく想う気持ちは、こんなにも欲張りで卑しいものなのだ。

 彼の優しさには、感謝こそすれ寂しく思うなどあってはならないことなのに。
 自分を見つめる漆黒の瞳と身体に回された逞しい腕、高貴な甘い香り。すべては国の民のためにあり、自分だけのものではないことくらいわかっているはずなのに。

「……ありがとうございます。劉弦さまのお慈悲に感謝いたします」

 飲み終えた湯呑みを台に置き、翠鈴は彼を見つめる。どうしてか、彼のそばにいる間は少し身体が楽になる。でも心はじくじくと痛かった。
 もういっそ彼を愛おしく想う気持ちなどなくなってしまえばいいのに、と翠鈴は思う。
 尊敬と感謝の念だけを抱いていた頃に戻れればどんなにか楽だろう。けれど、どうしたらそうできるのか、見当もつかなかった。彼の目をまともに見られなくて俯く翠鈴に、劉芸が静かに口を開いた。

「翠鈴」

「はい」

「そなたを私の皇后にしようと思う。世継ぎが生まれたら、立后の儀を執り行う」

 突然の彼の宣言に、翠鈴は顔をあげて目を見開いた。

「私を皇后さまに……?」

「ああ、翠鈴は私の唯一無二の存在だ。皇后はそなた以外あり得ない。私には翠鈴が必要だ」

 真っ直ぐな言葉と、熱い視線に翠鈴の胸が震える。まるでそこに愛情があるかのようだった。
 でもすぐに、これは幻想だと自分自身に言い聞かせた。彼が自分を大切にするのは、翡翠の手を持つ唯一の存在だから。

「翠鈴、私の皇后になってくれ」

 低くて甘い彼の声音に、翠鈴の背中がぞくりとする。自分を見つめる真摯な眼差しに、都合のいい夢を見てしまいそうで怖かった。

「恐れ多くて……」

 それだけ言って目を伏せた。
 愛情という絆で結ばれていない夫婦の間の、皇后という役割は重たすぎて受け入れることができなかった。

「大丈夫だ。翠鈴は皇后に相応しい」

 彼の言葉も素直に受け止められなかった。

 ——それは私が、翡翠の手の使い手だから。彼は私自身を愛しているわけではない。

 宿命の妃という役割からも逃げ出したいくらいだった。
 彼に愛されているならば、こんな風に思わなかったのだろうか?
 どんなに重たい役割も耐えられる?
 目を伏せたまま答えられない翠鈴を、劉弦は急かさなかった。

「まだ時間はたっぷりある。ゆっくりと心の準備をすればいい。まずは身体を労り出産に備えよ」

「はい……少し気分が優れません。今宵はもう休んでもいいですか?」

「ああ、ゆっくりと休むがいい」

 翠鈴は、布団の中に潜り込み、布団を頭までかぶった。
 世継ぎを生んだ妃が立后する。それが国にとっては自然なことなのだろうか。……たとえそこに愛情がなかったとしても。
 ゆっくりと心の準備をすればいいと彼は言うが、ことは皇后に関することなのだ。いつまでもぐずぐずと考えているわけにいかないだろう。

 ——少なくとも子が生まれるまでに覚悟をしなくてはならない。
 ——覚悟なんて、いつまでたってもできそうにないのに。

 生まれるまでに覚悟しなくてはならないなら、子が生まれるのが怖かった。
 その恐怖から目を逸らすように翠鈴は目を閉じた。